Reconsideration of the History
230.領土問題でロシアが居直るなら、日本も手段を選ばず対抗せよ!! (2010.11.24)

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11月1日、国後島の教会を訪れたメドヴェージェフ露国大統領
平成22(2010)年11月1日、旧ソ連時代を含め初めて北方領土の国後島を訪れたメドヴェージェフ・ロシア連邦大統領。日本固有の領土である国後島への訪問を強行した事を考えれば、APEC横浜首脳会議の為に来日した際、日本領土(北海道国後郡)への「不法入国」容疑で「逮捕」しても差し支(つか)えなかったのだ。
ラヴロフ露国外相と前原誠司外相
平成22(2010)年11月13日、前原誠司外相との日露外相会談に臨むラヴロフ・ロシア連邦外相。彼はこの会談の席上、「北方四島のロシア帰属は確認されている」、「ソ連が何故(なぜ)、『日ソ共同宣言』を締結したのか分からない」と主張。ロシアの領土問題に対する姿勢を「日ソ間に領土問題は存在しない」とした旧ソ連時代に迄戻してしまった。
メドヴェージェフ露国大統領と菅直人総理
平成22(2010)年11月13日夜、菅直人総理との日露首脳会談に臨むメドヴェージェフ・ロシア連邦大統領。彼はこの会談の席上、不法占拠の当事者であり乍(なが)ら、北方領土の返還よりも経済分野での関係発展を提案してきた。正に「厚顔無恥」、「盗人(ぬすっと)猛々(たけだけ)しい」とはこの事であろう。

千島列島・南樺太に於けるソ連赤軍の侵攻(略譜)

成22(2010)年11月1日、北海道国後島(くなしりとう)。この地に、旧ソヴィエト連邦時代も含め初めてロシアの最高指導者が降り立ちました。皆さん、ご存じのロシア連邦大統領ドミートリー-アナトーリエヴィチ-メドヴェージェフその人です。彼は現在45歳。ウラジーミル-ウラジーミロヴィチ-プーチン前大統領の下(もと)で連邦第一副首相を務めた彼は、連続三選を禁じる憲法の規定により大統領選への出馬が不可能だった二期目のプーチン氏に代わり、彼の後継として平成20(2008)年3月の大統領選に出馬。プーチン氏の御用政党である与党「統一ロシア」等からの支持を得て当選した彼は、前大統領プーチン氏を連邦首相とする双頭体制を布(し)きました。旧ソ連時代に無く子も黙る程(ほど)恐れられたKGB(カーゲーベー:ソ連国家保安委員会)出身の狡猾(こうかつ)で強権的なプーチン氏からすると、その若さやスマートな容姿も手伝ってか、どうしても見劣りの感が否(いな)めないメドヴェージェフ大統領にとって、目下(もっか)の課題は平成24(2012)年の大統領選での再選なのですが、最大のライバルはプーチン首相。彼が出馬すれば(いや、間違いなく大統領へ返り咲く事を狙っているだろう)、ともすれば彼の「傀儡(かいらい)」等と揶揄されるメドヴェージェフ大統領の事、すんなり再選する事等到底おぼつきません。だからこそ、今回、国内向けに「旧ソ連時代も含めて初めて北方領土へ足を運んだ大統領」、「日本との領土問題では一歩も引かない強い大統領」とのイメージを扶植する為に、日本側の反発を百も承知の上で国後島への訪問を強行したのでしょう。(これが今回のメドヴェージェフ大統領の国後島訪問が「国内向けパフォーマンス」と言われる所以(ゆえん))

(さて)、此処迄(ここまで)はメドヴェージェフ大統領の「個人的事情」に付いて書いた訳ですが、問題は更に深刻なものでした。2010年日本APEC(アジア太平洋経済協力)横浜(会期:11月7日〜14日)出席の為、来日したメドヴェージェフ大統領と菅直人総理が11月13日夜、日露首脳会談を行ったのですが、その席上、菅総理がメドヴェージェフ大統領の国後島訪問に付いて「(北方領土は日本固有の領土だとの)我が国の立場、国民の感情から受け入れられない」と抗議の意を表明したのに対し、メドヴェージェフ大統領は「(国後島は)我々の領土であり、将来もそうあり続ける。経済分野の関係を発展させていく事で両国間の雰囲気を改善していく可(べ)きだ」と主張し、ロシアによる北方領土不法占拠状態固定の儘(まま)、日本に対し経済分野での関係発展を要求してきたのです。私は以前の小論*でも述べた事ですが、歯舞(はぼまい)群島及び色丹(しこたん)・国後・択捉(えとろふ)三島からなる南千島の所謂(いわゆる)「北方領土」は、旧ソ連、そしてその後継国家であるロシア連邦に占領され続けているものの、歴史的・国際法的に見て「日本固有の領土」である事は間違いない訳で、これらの島々を侵略し不法占拠しているロシアは「盗賊国家」と言っても過言ではありません。その「盗賊」に対し「奪ったものを返せ!!」と要求しているのが日本であり、奪ったものも返す事無く、逆に「そんな事は放っておいて、商売しましょう」と厚かましい事を言っているのがロシアである訳です。日本の経済界は「中国」(支那)にしろ、ロシアにしろ、日本との間に領土を含む様々な問題が横たわっていようが、その様な事には一切関係無く商売(経済関係)を発展させようとしており、メドヴェージェフ大統領の日露経済協力・発展の言説を歓迎している事でしょう。然(しか)し、たとえ相手がヤクザでろうが、泥棒であろうが、殺人犯であろうが、「商売で儲(もう)けられるのら、どんな相手であろうと厭(いと)わない」と言う姿勢の経済界は正(まさ)に「商匪(しょうひ)」共言える程(ほど)品性の無いもので、日本人として「一本筋を通す」事を何処(どこ)かに置き去りにしている。その様に私の目には映る訳です。(商人が商(あきな)いで儲ける事が至上命令であったとしても、最低限、「取引相手に相応(ふさわ)しいか否かを選ぶ」事位は出来る筈だ) とは言え、それが北方領土問題の解決(領土全面返還)に支障を及ぼすとなれば、当然抑制を掛けねばならないのも事実です。実際、ロシアは、外交的には全く無力(0点)な菅政権の実情と、餌を投げれば何にでも食い付く日本の経済界を見て高(たか)を括(くく)り、日露首脳会談と時を同じくして行われた日露外相会談の席上、セルゲイ-ヴィクトロヴィチ-ラヴロフ外相が「平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を日本に引き渡す」と謳(うた)われている昭和31(1956)年の『日ソ共同宣言』に対して疑問を呈し、「北方四島のロシア帰属は確認されている」等と主張する始末。これはとどの詰まり、ロシアが残る国後・択捉二島はおろか、自ら約束した歯舞・色丹二島の返還に付いても拒否の意向を示した訳で、北方領土問題が「両国間に領土問題は存在しない」と嘯(うそぶ)いていた旧ソ連時代フルシチョーフ共産党第一書記(首相)から、ブレージネフ、アンドロポフ、チェルネンコ各共産党書記長迄の四代)に逆戻りした事を意味する訳です。まあ、スターリン共産党書記長(首相)率いる当時のソ連が、終戦直前の昭和20(1945)年8月8日に、翌昭和21(1946)年4月25日迄法的拘束力があった『日ソ中立条約』を一方的に破棄して対日参戦。『ポツダム宣言』受諾後(8月14日に連合国へ通告、翌15日に昭和天皇が「玉音放送」でラジオ発表)、8月18日16時を期限とする戦闘停止命令を受けて逐次武装解除が進められていた千島列島駐留日本軍に対し、同日未明、ソ連軍が列島最北の占守島(しゅむしゅとう)から侵攻を開始。8月29日に択捉島、9月1日から4日に掛けて国後・色丹二島を占領し、9月2日、米戦艦ミズーリ号上に於いて日本が降伏文書に調印した5日後に歯舞群島を制圧した事を考えれば、さもありなん共言えます。(詰まり、ソ連は、日本が『ポツダム宣言』を受諾した8月15日以降に千島列島に侵攻し、降伏文書調印により戦争が完全に終結した9月2日以降に歯舞群島を占領した事になる) とは言うものの、この儘、日本が手を拱(こまね)いていては、実力で占領を続けているロシアから、北方四島(南千島及び歯舞群島)、いや、それ以外にも不法占拠されている中千島(得撫(うるっぷ)・知里保以(ちりほい)北島・知里保以南島・武魯頓(ぶろとん)・新知(しむしる)・計吐夷(けとい)・宇志知(うししる)・摺手岩(すれでいわ)・羅処和(らしゅわ)・松輪(まつわ)・雷公計(らいこけ)・牟知(むしる)列岩・捨子古丹(しゃすこたん)・知林古丹(ちりこたん)・春牟古丹(はりむこたん)・越渇磨(えかるま)・温弥古丹(おねこたん)・磨勘留(まかんる)の十八島)、北千島(占守(しゅむしゅ)・阿頼度(あらいど)・幌筵(ぱらむしる)・志林規(しりんき)の四島)、そして、南樺太(樺太等の内、北緯50度以南の地域)を日本に取り戻す事は不可能でしょう。ならば、日本も何時迄(いつまで)も「良い顔」 ── 「紳士ぶって」いるだけではいけません。ロシアがその様な対応に出るのであれば、日本もそれ相応の対応を取れば良いのです。

千島列島地図
千島列島と南樺太
日本は『サンフランシスコ平和条約』への調印により、北方四島を除く千島列島(クリール諸島)及び樺太島(サハリン)の内、北緯50度以南の地域(南樺太)の領有権を放棄した。然し、それが直ちに同地域のロシア(旧ソ連)の領有根拠とはなり得ない。何故なら、日本が領有権を放棄した同地域をロシアが領有すると謳った条約は何処にも存在しておらず、国際法上、千島列島と南樺太は「帰属未定地」(何処の国の領土であるか確定していない)と言うのが正しい。ましてや、北方四島を日本が領有権を放棄した事実は無く、ロシアによる明らかな侵略占領以外のなにものでも無い。更に言えば、『サンフランシスコ平和条約』に於いて放棄した地域に付いて、「永久に放棄する」と謳われていない以上、「帰属未定地」である千島列島と南樺太の領有権を、一度は放棄した日本が改めて主張する事も法的には可能なのである。

ころで、皆さんは「GUAM」をご存じでしょうか? 「ああ、よく知ってる。自分は毎年必ず訪れている」と言った答えが返ってきそうですが、私が此処(ここ)で取り上げた「GUAM」は、皆さんご存じの「グアム島」(Guam Island)の事ではありません。大東亜戦争前夜、米America)・英Britain)・支(中華民国 China)・蘭(オランダ Dutch)により構築された対日禁輸包囲網を四ヶ国の頭文字を採って「ABCD包囲網」と呼びましたが、「GUAM」も同様で、ジョージア(グルジア Georgia)・ウクライナUkraine)・アゼルバイジャンAzerbaijan)・モルドヴァMoldova)による国家連合の頭文字を採って「GUAM」と呼ばれています。そして、この「GUAM」は多分に「反露同盟」的色彩を帯びているのです。抑(そもそ)もの切っ掛けは、ソ連解体の際、旧連邦構成国の内、バルト三国を除く十二ヶ国が「独立国家共同体(CIS)」(以下、「CIS」と略)を結成しましたが、その中でも、ロシアの影響下にある事を由(よし)としない上記四ヶ国が結集し、1997年10月に創設されたのが「GUAM」です。今現在は、反露最右翼のジョージアを除き、他の三ヶ国は必ずしもあからさまな反露路線を採っている訳ではありませんが、プーチン政権以来の「強いロシア」に警戒している事には変わりありません。又、「GUAM」以外にも、当初から「CIS」に参加しなかったエストニア・ラトヴィア・リトアニアのバルト三国は反露感情が極めて高い事で有名ですし(リトアニアでは、ナチス-ドイツの「鉤(かぎ)十時」旗(ハーケン-クロイツ)と同じく、旧ソ連国旗は公共の場所での掲示が法律によって禁止されている)、第二次大戦時に、東西からソ連とナチス-ドイツに国土を分割されたポーランドや、同じくソ連に圧迫された北欧のフィンランド、そして、オスマン帝国時代からロシア帝国の南下により圧迫され続けたトルコと言った周辺国には、未だに反露感情やロシアに対する警戒感が色濃く残っています。更には、旧ソ連の構成国であり、同じスラヴ民族国家としてロシアとは兄弟関係にある筈のベラルーシ(白ロシア)ですら、1999年12月に『ロシア・ベラルーシ連邦国家創設条約』を調印したものの、その後、ロシアにプーチン政権が誕生すると、恰(あたか)もロシアがベラルーシを吸収合併するが如き発言に態度を硬化、親露路線から反露路線に方針転換しています。この様に見てみると、ロシアは、西側にフィンランド・バルト三国・ポーランド・ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ、南側にアゼルバイジャン・ジョージア・トルコと言う反露若(も)しくはロシアに警戒感を抱く国々により「包囲」されている事に気付かされます。然し、反露感情が渦巻いているのは何も周辺諸国だけとは限りません。実はロシア国内にも頭の痛い種があるのです。

欧州ロシアと周辺諸国
欧州ロシアとそれを取り巻く周辺諸国
黄色はGUAMの加盟国、橙色はGUAMのオブザーバー国、水色はその他反露感情若(も)しくはロシアに警戒感を抱く諸国、そして、緑色が「チェチェン戦争」の舞台となっている問題のチェチェン共和国である。因(ちな)みに、反露感情が厳しいバルト三国が分離独立した今、チェチェンやジョージアが位置するカフカス(コーカサス)地方が、ロシアにとって頭の痛い国内の「火薬庫」(紛争多発地帯)となっている。

カフカス地方地図
カフカス(コーカサス)地方
黒海とカスピ海に挟まれ、ロシア・トルコ・イランと言った大国に囲まれたこの地域は民族・宗教が入り乱れたモザイク地帯で、古くから幾度と無く紛争が繰り返されてきた「ロシア版バルカン半島」だ。
国がイラクやアフガニスタンを主戦場に展開した戦争が「テロとの戦い」と呼ばれている事は皆さんもご存じのことと思いますが(但し、これを以てイラク・アフガニスタン両国に対する米国主導の戦争を正当化する事は出来ない)、ロシア国内に於いても「テロとの戦い」が繰り広げられています。その最たるものが、ロシア連邦軍及び内務省軍とチェチェン等のイスラム武装勢力との間に繰り広げられている「チェチェン戦争」です。平成3(1991)年にソ連邦が解体すると、連邦構成国中最大のロシアが自国領内の二十一の共和国(自治共和国から昇格)との間に、平成4(1992)年、新たに連邦条約を締結し、新生「ロシア連邦」として再スタートを切ったのですが、この時、連邦条約への調印を拒否し、ロシア連邦への参加を拒んだ共和国がありました。その一つがチェチェン共和国です。チェチェンは200年以上に及ぶロシアとの確執からソ連解体を機に、平成4年、同じく連邦条約への参加を拒否したタタルスタンと共にロシアからの分離独立を宣言しました。(但し、連邦条約への調印を拒否したチェチェンの分離独立をロシア自体は認めておらず、飽く迄も「自国領」扱いをしている) 平成6(1994)年、タタルスタンは独立を撤回しましたが、チェチェンは今尚、独立国「チェチェン共和国」として、「侵略軍」であるロシア軍との間に戦争を続けています。このチェチェン戦争に対しては、「飽く迄もロシアの内政問題」として欧米諸国は傍観を決め込んでいますが、たとえば、日本が「ロシアの頭痛の種」であるチェチェン問題に対して、チェチェン共和国の独立を承認し、ロシアの対チェチェン戦争を非難すると言った、「メドヴェージェフ大統領の国後島訪問」やラブロフ外相発言への意趣返しをしてはどうでしょう? 見方を変えれば、北方四島を含む千島全島と南樺太はロシアの占領下にあり、残念乍(なが)ら、日本政府の施政権は彼(か)の地域に及んではおらず、今後の領土交渉により返還されるか否かに関わらず、現時点で日本が実効支配地域の一坪として「失うもの」は無いのです。(領土交渉の結果、北海道がロシアの手に渡ると言うのであれば問題だが、現実はそうではない) それに対して、チェチェンにしろ、タタルスタンにしろ、同じくソ連解体時に一時、独立を宣言したサハ共和国(ヤクート)にしろ、これはロシア国内の民族・分離独立問題であり、ある意味、ロシアにとってのアキレス腱でもある訳です。

名な諺(ことわざ)に、この様なものがあります。

敵の敵は味方

日本にとって、「敵」(ロシア)の「敵」(反露国家群)は味方になり得る(その可能性がある)のです。又、支那の兵法書『兵法三十六計』には、相当手強(てごわ)い相手を敵とした場合に用いる計略「混戦計」の一つとして、この様なものも挙げられています。

遠交近攻
(遠きと交わり、近きを攻める)

明石元二郎
明石元二郎 (元治1/1864−大正8/1919)
黒田藩(現福岡市)出身の陸軍軍人。日露戦争に際しては大佐として欧州に於ける諜報・謀略活動に従事。日本の勝利に貢献した。その後、台湾第7代総督(1918-1919)・陸軍大将として、台湾経営に辣腕(らつわん)を振るい、死に際しては台湾への埋葬を遺言。台北市の三板橋墓地(現林森公園)に埋葬され、平成11(1999)年、現地有志の手により、台北県三芝郷の福音山基督教墓地に改葬。遺言通り、台湾の地で静かに眠っている。
フィンランドやバルト三国、ウクライナやジョージアと言った国々は、日本から見て正に地球の反対側に位置する「遠き国」です。然し、日本は、これらの国々と敵対関係にはありませんし、親日国も少なくありません。これら「遠き国」との関係・連携を強化し、北方領土問題で対峙する「近き国」ロシアに地球の反対側から揺さぶりを掛ける。即効性は無いかも知れませんし、一つ一つの国では到底ロシアに伍する事も叶(かな)いません。然し、ロシアに対する反露包囲網を構築し、真綿(まわた)で首を絞めるが如くじわりじわりと揺さぶりを掛ける。嘗(かつ)て日露戦争に於いて、難攻不落と言われた旅順要塞を攻略した乃木希典(のぎ-まれすけ)陸軍大将や、日本海海戦に於いて世界最強と言われたバルティック艦隊を撃破した東郷平八郎(とうごう-へいはちろう)連合艦隊司令長官に勝る共劣らない、極めて重要な役割を果たした陸軍大佐がいました。その人物の名を明石元二郎(あかし-もとじろう)と言います。彼は日露戦争に際し、当時の日本の国家予算の0.4%に相当する100万円(現在の金額に換算して何と400億円以上)もの大金を陸軍参謀本部から用意され、その莫大な資金を元に欧州域内やロシア国内での謀略・攪乱工作を実行。それが奏功し、ロシアをして国内の不穏な情勢(これが後にロシア革命へと繋がる)により戦争継続が困難な状況を作り出す事に成功。それ以上の持久戦には到底堪えられなかった日本をして、有利な状況下で勝利(講和)に持ち込む素地を醸成したのです。(若しも、日露戦争が長引いていたなら、たとえ緒戦で有利な戦いを進めていた日本ではあっても、根本的な日露の国力の差から日米戦争と同様に最終的には敗北していた事だろう)

本が幾ら「理性的」且つ「紳士的」な対応で領土問題を解決しようと考えても、ロシアが尖閣諸島を巡って日本と対立する「中国」と共同戦線を張って迄して、自らが不法占拠する北方領土の返還を拒むのであれば、日本とて手段を選んではいられません。明石元二郎大佐よろしく日本もロシア内外で謀略・攪乱工作を行い、ロシアに揺さぶりを掛ける。それは前述の如き、反露包囲網の強化や民族紛争への介入に限りません。要は、彼らが、なまじ「クリール諸島」(北方領土を含む千島列島のロシア名)等と言う厄介な代物を持っている事で何一つ良い事は無い。一日も早く日本に返還し対日関係の修復を図(はか)った方が、余程(よほど)ロシアの国益に適(かな)う、と思う様に仕向ければ良い訳です。勿論、今の日本の政府・外務省、そして、防衛省に其処迄(そこまで)求める事に無理があるのは重々承知しています。然し、今迄のやり方では、永遠に北方領土問題が解決しないと言うのであれば、荒療治や封じてきた「禁じ手」を用いるのも已(や)むを得ないでしょう。

(あと)は、日本がロシアに対して「本気」である事を見せるだけです。日本は事を起こす迄に時間が掛かりますし、なかなか動こうとはしません。然し、幕末維新を例に挙げる迄も無く、一度(ひとたび)重い腰を上げれば、他国が目を見張る程の早さで事を運ぶのも事実です。北方領土がロシアに侵略占領させて既に65年。そろそろ、日本も本気で北方領土を獲(と)り返しに行く事を考えねばならない。そう強く思うのですが、皆さんは如何(いかが)感じられたでしょうか?(了)


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