Reconsideration of the History |
219.日本は北方領土交渉の足枷となる『日ソ共同宣言』を一方的に破棄してしまえ! (2010.1.11) |
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「日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞(はぼまい)群島及び色丹(しこたん)島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。」
これは、昭和31(1956)年10月19日、モスクワに於いて、鳩山一郎首相(鳩山由紀夫・現首相の祖父)とブルガーニン・ソ連閣僚会議議長(首相)とにより調印(12月12日発効)された『日ソ共同宣言』(正式名称は『日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言』)の内、第9項の条文です。
『日ソ共同宣言』の調印により、日ソ両国間の戦争状態は終結し、連合国(国連)への加盟も可能となった訳ですが、一方、第9項に謳(うた)われている
「ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。」
日ソ共同宣言調印式 昭和31(1956)年10月19日、モスクワに於いて、鳩山一郎・首相(左)とブルガーニン・ソ連首相(右)とにより調印された。これにより日ソ両国は国交を回復したが、それと同時に北方領土返還交渉に於いて、日本を縛る足枷共なった。 |
昭和26(1951)年9月8日、日本は『サンフランシスコ平和条約』の締結により、連合国との戦争状態に終止符が打たれ、独立国として国際社会に復帰した訳ですが、この時、ソ連は調印を拒否。結局、ソ連抜きでの講和となりました。曲がりなりにも国際社会への復帰を果たした日本が次に目指したのは連合国への加盟です。然(しか)し、其処(そこ)には越えなければならない一つのハードルが待ち受けていました。それは安保理常任理事国として拒否権を有するソ連の存在です。日本は占領期を経た後も米国寄りだった事から、ソ連が拒否権を発動して日本の加盟を阻止する事が明白だったからです。そのハードルをクリアする為に、どうしてもソ連との単独講和を果たし、国交回復をする必要があった。そして、それは『日ソ共同宣言』と言う形で結実し、同条約調印から2ヶ月後の昭和31年12月18日、日本は連合国への加盟を果たした訳です。その意味に於いては私も『日ソ共同宣言』の役割を認めます。然し、それと同時に、この条約が北方領土返還交渉の足枷となり、日本を今尚苦しめている事も事実です。それでは、どうすれば良いのか? 私は、日本が思い切って、『日ソ共同宣言』を破棄す可(べ)きものと考えています。
日本にとっての『日ソ共同宣言』の役割は、第一義的には連合国への加盟達成であり、その為の日ソ国交回復だった訳で、実際に連合国への加盟は達成されました。その点では同宣言の役割は果たされた訳で、調印から半世紀を経た今、同宣言を破棄した所で、今更、一旦加盟した連合国からそう簡単に除名される筈がありません。勿論、宣言破棄となれば、ロシアが態度を硬化させ、日露両国間が冷戦時代に逆戻りするであろう事は想像に難(かた)くありません。然し、考えてみれば、『日ソ共同宣言』が発効し国交が回復された後も、日ソ両国は、ソ連に「ペレストロイカ」(改革)や「グラースノスチ」(情報公開)を唱えたゴルバチョフ・ソ連共産党書記長(のち初代大統領)が登場する迄、融和する事無く冷戦の緊張状態が続いた訳ですから、同宣言が調印されようが、されまいが、結果的に冷戦は避けられなかったと見る事も出来る訳です。それにもまして、私は『日ソ共同宣言』を日本が一方的に破棄したとしても、ロシアにそれを非難する何らの資格も無いものと考えています。
日ソ中立条約調印式 昭和16(1941)年4月13日、モスクワに於いて条約に署名する松岡洋右(ようすけ)外相。彼の後ろに控えるのは、スターリン・ソ連首相(中央)とモロトフ・ソ連外相(松岡外相の真後)。条約の期限は昭和21(1946)年4月25日であったが、ソ連は期限の満了を待たず、昭和20(1945)年8月8日、一方的に破棄した上で、日本に宣戦布告した。 |
条約を一方的に破棄したのは、お前達の方が先だろう?
と言えるからです。
『日ソ共同宣言』を破棄するに付いて、もう一つ言える事があります。それは、冒頭でも触れた通り、同条約第9項には既に、歯舞群島と色丹島の返還が既定路線として謳われていたにも関わらず、岸信介政権の日本が、昭和35(1960)年1月19日、米国アイゼンハワー政権との間に『日米安保条約』改定を行うと、ソ連はこれに反発。歯舞群島と色丹島の返還を撤回し、その後、昭和48(1973)年10月にブレージネフ政権下のソ連を田中角栄首相が訪問する迄、日ソ両国間の首脳会談は17年間も開催されなかったばかりか、何とソ連は冷戦時代を通じ一貫して、
日ソ両国間に領土問題は存在しない!!
と嘯(うそぶ)いたのです。然し、現在のロシアは何と主張しているでしょうか? 自分達が署名捺印した証文(しょうもん)であるにも関わらず、一度は証文を反故(ほご:領土問題は存在せず)にし、今度は証文を楯に、歯舞群島と色丹島の返還で決着を図ろうとする。正に身勝手にも程があるご都合主義としか言い様がありません。その様な旧ソ連であり現ロシアのご都合主義に日本が良い様に振り回され、北方領土の返還が遅々として進まないのであるならば、日本は思い切って北方領土返還交渉の足枷となっている『日ソ共同宣言』を破棄しては如何(どう)だろうか? 幾度と無く交渉を重ねても埒(らち)があかない以上、北方領土返還交渉に於いて『日ソ共同宣言』は、あっても無くても同じ存在。寧(むし)ろ邪魔でさえあります。『日ソ共同宣言』は『日ソ中立条約』とは異なり、自動延長される性格のものでは無いですし、抑も、連合国への加盟を達成した時点で、主たる目的は果たされた訳ですから、半世紀を経た今、破棄した所で、それ程の「実害」は無いものと考えます。その上で、日本は明治8(1875)年5月の『千島・樺太交換条約』(樺太全島はロシア領、千島全島は日本領)や、明治38(1905)年9月の『ポーツマス条約』(南樺太の日本への永久譲渡)を基(もと)として領有権の主張を展開していけば良いのです。勿論、ロシアが態度を硬化させ、領土交渉が難しくなるであろう事は想像に難くありません。然し、『日ソ共同宣言』調印から半世紀経つにも関わらず、唯の一島すら返還されていない事を考えれば、日本にとって「失うもの」(領土)は何も無い訳で、なまじ相手に足元を見られる位ならば、寧ろ、ゼロからのスタートと開き直って交渉に臨む事の方が、どれ程良いか分かりません。
北方四島への「ビザなし交流」訪問に対し、日本側訪問団に「出入国カード」の提出を求めたり(「出入国カード」を提出すると言う事は、北方四島がロシア領である事を認めた事になり、日本が到底受け入れられる話では無い)、平成22(2010)年から入港税の課税を求める(入港税を支払う事も又、北方四島に対するロシアの徴税権を認めた事になる)等、ロシア側に誠意が何ら感じられない以上、日本もロシアに対して厳しい姿勢で臨む可きです。欧州では東西冷戦が過去のものになりつつありますが、こと、極東に於いては今尚、冷戦は続いており、ましてや、日本はロシアとの間に領土問題を抱えている。この事を再認識した上で、日本は独立主権国家として毅然とした態度を取る可きです。
自ら退路を断ち、文字通り「背水の陣」で臨んでこそ、拓(ひら)かれる道もあります。なまじ、「歯舞群島・色丹島の二島返還」と言う人参(にんじん)を目の前にぶら下げられ、領土交渉で日本が足元を見られる位ならば、思い切って二島返還が明記されている『日ソ共同宣言』を破棄する。日本がこれ迄良かれと思って行(おこな)ってきた北方四島や樺太等、ロシア極東部に対する人道支援を全面的停止(急病患者の日本への移送治療と言ったものも全て対象)するのも手です。何時迄(いつまで)も「良い顔」をしているだけが能ではありません。時には相手に対して、こちらが「本当に怒っている」のを示す事も必要なのです。その意味に於いても、日本は『日ソ共同宣言』の破棄と言う奇策に打って出る必要があると言えるのです。
余談(つれづれ)
幼年時代の鳩山由紀夫首相 父・威一郎氏を背に寛(くつろ)ぐ祖父・一郎氏。その横には幼い由紀夫氏が座っている。(左は祖母の薫子夫人) 祖父調印による『日ソ共同宣言』を破棄して許されるのは、孫の鳩山現首相を置いて他にはいない。 |