Reconsideration of the History
60.『ポツダム宣言』は無効だ!! 終戦秘話-其の弐-(1999.8.22)

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和20(1945)年9月2日、アメリカ戦艦・ミズーリ号上に於いて、日本政府全権・重光葵(しげみつ-まもる)『ポツダム宣言』受諾の降伏文書に署名し、ここに第二次世界大戦は終結しました。その後、アメリカ主導の占領軍が日本に進駐し、ダグラス=マッカーサー元帥率いるGHQ(連合国軍総司令部)が、日本に君臨する訳ですが、そもそも、日本が受諾した『ポツダム宣言』自体が「空文」かつ「無効」だと言ったら、皆さんは如何思われるでしょうか? と言う訳で今回は、『ポツダム宣言』が如何に「欠陥品」であったかについて、取り上げてみたいと思います。

『ポツダム宣言』。『米(アメリカ)・英(イギリス)・中(支那)三国宣言』共呼ばれ、昭和20(1945)年7月26日(〜8月2日)、先に敗戦したドイツの首都・ベルリン郊外のポツダムにおける、トルーマン・米大統領、チャーチル・英首相、スターリン・ソ連首相の三巨頭による会談 ── いわゆる「ポツダム会談」で決定された対日戦争終結条件を、支那蒋介石政権)の同意を得て発表したものです。しかし、この『ポツダム宣言』は、その条文に重大な欠陥を孕(はら)んでいたのです。『ポツダム宣言』第8条 ── 「カイロ宣言の条項は履行する」。この一文こそ、『ポツダム宣言』を「空文」かつ「無効」にする、重大な「欠陥」だったのです。では、「欠陥」である『カイロ宣言』とは一体どの様なものなのでしょうか?

『カイロ宣言』。昭和18(1943)年11月、エジプトのカイロにおける、ローズヴェルト・米大統領、チャーチル・英首相、蒋介石・国府主席の三首脳による会談 ── いわゆる「カイロ会談」の際に発表されたものとされ、日本に対して無条件降伏を要求し、降伏後の日本の領土を決定したと言われています。しかし、この『カイロ宣言』には三首脳の署名が無く ── いや、そもそも現在に至る迄、署名がなされている『カイロ宣言』の公文書自体、誰一人見た事が無いのです。蒋介石政権が署名していない。イギリス政府もその存在を公式に否定している・・・。とすると、『ポツダム宣言』第8条 ── 「カイロ宣言の条項は履行する」は、「幻の公文書」に記されている条項を履行する事を謳(うた)っている事になってしまいます。これは、一体どう解釈すれば良いのでしょうか?

『カイロ宣言』は無かった!! 日本の敗戦を決定づけた『ポツダム宣言』を裏打ちする筈の公文書がこの世に存在しない。これは、取りも直さず、日本が受諾した『ポツダム宣言』自体が「無効」であり、第8条を履行する義務が無い事を示しているのです。では、『カイロ宣言』とは一体何だったのでしょうか? 実は『カイロ宣言』は、「宣言」(Declaration)では無く、「公報」・「公告」(Proclamation)と呼ぶべきものだったのです。『カイロ宣言』は署名の無い「草稿」に終わっていた)

カイロ「宣言」は「公報」と呼ばれていた!!

依拠資料 「カイロ宣言」に対する呼称
中華民国政府 公文資料(外交文書) 「会議公報」,「カイロ公報」
アメリカ政府 草案 「公報」
イギリス政府 草案 「新聞公報」


て、「宣言」される事無く、「草案」に終わった『カイロ公報』ですが、そこには、

「台湾・樺太(サハリン)・千島列島(北方領土)は、日本が違法な手段によって編入した(つまり、「盗んだ」と言う事)」地域である」

として、上記領土の「放棄」を謳っています。しかし、台湾は明治28(1895)年の『下関条約』、千島列島は明治8(1875)年の『千島・樺太交換条約』、そして、樺太 ── 正確に言うと、北緯50度以南の南樺太は明治38(1905)年の『ポーツマス条約』(日露戦争講和条約)、と言った具合に、国際条約によって正規に取得した領土であり、『カイロ公報』の「違法な手段による編入」は事実に反しているのです。と言う事は、「草案」に終わった『カイロ公報』の条項を日本が履行する義務は無い訳で、台湾・樺太はともかくも、こと、千島列島 ── 少なく共、択捉(エトロフ)島以南の「北方領土」の領有権は、国際法上、日本に帰属する訳です。

上、『ポツダム宣言』『カイロ公報』について、簡単に見てきた訳ですが、如何だったでしょうか? この様な欠陥だらけの公文書に、日本がいつ迄も縛られている理由は無いのです。『ポツダム宣言』を受諾したと言っても、空文である幻の『カイロ宣言』に従う義務は無いのです。戦後、半世紀を経て、物事をより冷静かつ客観的に見つめ直すだけの余裕も出てきたのでは無いでしょうか? そう言う意味でも、欠陥品である『ポツダム宣言』の問題点を取り上げ、日本の「真の国家主権」を回復すべき時期に来ていると思うのです。

   余談(つれづれ)

和30(1955)年2月1日、大英帝国の宰相・ウィンストン-チャーチル卿は、イギリス国会において、きっぱりと『カイロ宣言』の存在を否定した。又、台湾主権基金会の研究グループも、アメリカ国家公文書資料局・国務省条約局・連邦資料センター・ローズヴェルト記念図書館・国会図書館と、ありとあらゆる場所を調査し尽くし、『カイロ宣言』の署名公文書が存在しない事実を突き止めた。しかし、日本政府も外務省も、未だに『カイロ宣言』を事実として受け止めており、支那に「歴史認識」で、何か突っ込まれても、反論すら出来ないでいる。そう言う意味でも、日本の政治家も外務官僚も、外交交渉で負けない為に、「歴史」を一から勉強し直す必要があるのでは無いだろうか?(了)

参考文献


   読者の声 (メールマガジン ≪ WEB 熱線 第1062号 ≫ 2008/08/22_Mon ― アジアの街角から― のクリックアンケートより)

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