Reconsideration of the History
194.第二のチベット動乱 ── チベットは「中国のコソボ」だ!!(2008.3.17)

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第二チベット動乱の様子 2008(平成20)年3月10日現地時間午後6時、中華人民共和国西蔵(チベット)自治区区都・拉薩(ラサ)。1959(昭和34)年3月10日勃発の「チベット動乱」から49周年のこの日、チベット仏教(ラマ教)僧侶達による現地警察官に対する「包囲」から全ては始まりました。時を同じくして、この日、チベット仏教最高指導者にして「チベット帝国の国家元首」であるダライ-ラマ14世率いるチベット亡命政府(北印度・ヒマチャルプラデシュ州ダラムサラ所在)の座す印度各地に於いても、亡命チベット人達が抗議活動を開始。4日後の3月14日、拉薩市中心部・大昭寺(ジョカン寺)の西、金谷ホテル付近に展開していた治安部隊の装甲車がデモ隊に突入。住民100人以上が「轢(ひ)き殺された」事が切っ掛けとなり、チベット族による大規模な暴動 ── 官公庁や漢族経営商店に対する襲撃等 ── へと発展チベット地図 抗議運動と暴動襲撃の余波は、西蔵自治区(ウ-ツァン)を飛び出し、青海省(アムド)・四川省阿垻(アバ)チベット族チャン族自治州・四川省甘孜(カンゼ)チベット族自治州(カム)・甘粛省甘南チベット族自治州、と言ったチベット族居住地域 ── 所謂(いわゆる)「大チベット」全土 ── へ次々と波及。北京の「中国」(支那)政府や、チベット族を域内に抱えている省・自治区等の地方政府は、これを一部の「チベット人暴徒」による騒擾(そうじょう)事件として扱う積もりの様ですが、これは最早(もはや)、1959年の「チベット動乱」や1989年3月(チベット動乱30周年)の大規模な抗議運動に続く、言わば、


第二のチベット動乱

と言っても過言では無い事態と言えます。では何故(なにゆえ)、チベット族がこの様な行動に出たのか? 何が彼らにとって不満なのか? その事に付いて今回詳しく触れる積もりはありません。チベットが今迄(いままで)歩んできた歴史や、チベットの置かれている現状については、私が以前、発表した一連の小論をお読み頂く事として、話を先に進めたいと思います。

ダライ-ラマ14世 論から言いますが、チベット族が居住する地域 ── 嘗(かつ)ての「大チベット」 ── は元来、「中国」の正当な固有の領土等ではありません。「中国」=中華人民共和国は建国翌年の1950(昭和25)年10月7日、「チベットの解放」を旗印に、人民解放軍による「チベットへの侵略」を開始。その後、チベット国民の同意無き儘(まま)、「中国」はチベットに対する占領統治と社会主義建設を強要。遂には、国家元首であるダライ-ラマ14世(左写真)の身柄確保(拘束軟禁)を図ろうとした事で、怒り頂点に達したチベット民衆が一斉蜂起。動乱の最中(さなか)ダライ-ラマ14世がチベットを脱出。「世界の尾根」と称されるヒマラヤを越え、北印度のダラムサラに亡命政府を樹立し、今日に至っている訳です。ですから、「中国」が称す所の「中華人民共和国西蔵自治区」は、

中国が侵略し、今尚、占領統治を続けている元独立国チベット

と呼ぶのが相応(ふさわ)しく、「チベット問題」を「我が国の内政問題」と嘯(うそぶ)く「中国」の姿勢は、侵略の事実を正当化し開き直る詭弁(きべん)以外のなにものでも無い訳です。

(さて)、此処(ここ)からは、日本や欧米先進国を含む世界各国に対して「苦言」を呈していきます。先(ま)ずは日本から。日本は先の大戦(大東亜戦争)に於ける敗北により米国の占領統治を受け、その期間中に、左翼や進歩的文化人等が「世界に誇れる平和憲法」と持ち上げる『日本国憲法』が「制定」(実際には、国際法に違反して米国が日本に押し付けた「対日占領基本法」)され、今尚、その憲法を一度も改正する事無く後生(ごしょう)大事にしている訳ですが、その憲法は「非戦」を謳(うた)い、二度と日本が他国に対する「侵略」(私は「侵略」史観に強い疑義を抱いているが)をせず、国際平和を希求していく内容となっています。その様な「尊い憲法」を戴(いただ)く日本が、協調し共存共栄を図っていく必要性の高い隣国とは言え、大戦後、他国を侵略し現地住民に対する武力弾圧を公然と行(おこな)って止(や)まない「中国」に何故、苦言を呈さないのか? 「過去の侵略」を持ち出して日本を断罪する「現在進行形の侵略国家」である「中国」に対し、何故、明確な批判を加えず、チベットを含む「中国」による侵略占領地域の独立を要求しないのか? 国交を回復し、政治・経済面で交流している日本も、黙認と言う形で「中国」による侵略を「承認」している訳で、結果的に同罪と言えますし、所謂「親中派」とされる国会議員の先生方の罪も免れ得ないものと私は考えています。(一昔前なら、潔(いさぎよ)く腹を斬(き)れ、と言う所です。)

ビョーク(Bjork) に欧米諸国。日本の関東軍が起こした満州事変の結果、誕生した「満州国」に対し、当時の欧米諸国の多くは、「日本による侵略」を非難しました。その結果、日本が国際連盟を脱退、日米交渉も決裂し、大東亜戦争へと突入していった訳ですが、「満州国」を視察した国際連盟リットン調査団が纏(まと)めた報告書には、日本を一方的に断罪する内容では無く、もう一方の当事者である支那に対する批判的考察も明記されていました。詰まり、100 対 0 で、日本が悪いと言う訳では無かったにも関わらず、日本が一方的に悪いかの如く扱われた訳です。それに対して、「中国」によるチベット侵略に対して、欧米諸国の対応はどうか? 正直言って「余りにも手緩(ぬる)い」の一語に尽きます。フセイン政権のイラクが、隣国クウェートを「侵略」した時の対応はどうであったか? ソ連軍がアフガニスタンに軍事侵攻した時はどうであったか? 思い出してみて下さい。イラクは湾岸戦争で米英を中核とする諸国から制裁を受け、遂には小ブッシュ政権の米国が起こしたイラク戦争により、フセイン政権が打倒される迄に至りましたし、アフガンに侵攻したソ連も、モスクワ五輪に於いて西側諸国を中心に多くの参加ボイコットと言う屈辱を受けました。にも関わらず、今夏開催予定の北京五輪をボイコットすると明言した国は一つもありません。その意味で、「誤ったシグナル」を「中国」に対し送っている欧米諸国も日本同様、「中国」による侵略を「承認」しているに等しく、結果的に同罪と言えます。それしても、3月2日の上海公演の際、「中国」当局の事前許可を得ていなかった『Declare Independence(独立宣言)』を歌い、曲中、「Tibet! Tibet!」と叫んだアイスランド人歌手・ビョーク(右上写真;YouTube動画の如き、気概のある国は無いものか? 平素、「人権! 人権!」と声高に叫ぶ欧米先進国にしろ、日本の左翼人権活動家にしろ、「中国」に対しては尻込みしている様に見えるのは、単に私だけなのだろうか?


『Declare Independence』を歌い、「Tibet! Tibet!」と叫ぶビョーク

中国人民解放軍後に、この事だけは、はっきりと言っておきます。旧ユーゴスラヴィア連邦の構成国の一つ、セルビア共和国内にあって、アルバニア系住民が人口の多数を占めていたた「コソボ自治州」が、長い紛争の末、自治州内のセルビア系住民やセルビア共和国の反対を押し切って、一方的に「コソボ共和国」の独立を宣言したのは、記憶にも新しい今年(2008年)2月17日。その後、日・米・英・仏・独・伊等27ヶ国が国家承認を表明し、現在に至っている訳ですが(セルビア・ロシア・スペイン・ルーマニア・「中国」等は不承認)「チベット問題」とは言わば、「中国に於けるコソボ問題」であり、「チベット自治区」は「中国に於けるコソボ自治州」である訳です。本国であるセルビアの反対を押し切って独立宣言したコソボに対しては独立を承認し、かたや、侵略により強引に併合され、今尚、人権蹂躙を受け抑圧されているチベットに対しては見て見ぬふりをする。これは正直、如何(いかが)なものか? 私は、日本を含む国際社会がチベットの独立を積極的に支援す可(べ)だと思いますし、「中国」に対し「誤ったシグナル」を送り増長させない為にも、今夏の

北京五輪を国際社会は断固ボイコットす可きである
Boycott Beijing 2008 Olympics

Beijing 2008 Game's Over Free Tibet

と考えます。

れと同時に、皆さん、どうか知っておいて下さい。

胡錦涛

1989(平成1)年1月から1992(平成4)年10月迄の約4年間、チベット自治区中国共産党書記として、

多くのチベット族を虐殺した 胡錦涛 が、現在の中国国家主席

であると言う事を。(了)


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