Reconsideration of the History
98.「日韓併合」も及ばない支那の強引手法 ── チベット17ヶ条協定 (2002.2.7)

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回のコラム『97.「解放」と言う名の侵略 ── チベット解放』で、支那軍によるチベットへの軍事侵攻(支那は「チベット解放」と称している)について書きましたが、その最後に、支那がチベット支配を正当化する論拠として、『中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放に関する協約』(『中央人民政府和西蔵地方政府関於和平解放西蔵辨法的協議』) ── 所謂(いわゆる)『チベット17ヶ条協定』(以下、『17ヶ条協定』と略)を楯に取っていると書きました。しかし、支那が言う様に、本当に『17ヶ条協定』にはチベット支配を正当化する効力があるのでしょうか? そこで、今回は、支那がチベット支配の正当化の際に必ず持ち出す『17ヶ条協定』について書いてみたいと思います。

1951(昭和26)年5月23日、北京。支那中央人民政府全権主席代表・李維漢と、「チベット地方政府」全権首席代表・アプー=アワンジグミ(阿沛阿旺晋美)との間に『17ヶ条協定』が締結され、ここに、チベットは正式に支那中央政府の下に帰属した・・・とされていますが、これは国際法の見地から見ても明らかに不法なものであり、無効であるとしか言い様がありません。それは、『17ヶ条協定』締結の際、「チベット地方政府全権代表」とされたアプー=アワンジグミ氏をはじめとするチベット人に対する「処遇」による所が大きいのです。

那軍によるチベットへの軍事侵攻(「チベット解放」)後、チベット政府は、ザサー=ソナムワンディ(索安旺堆)・トゥプテン=タンダル(土丹旦達)等からなる代表団を、事態打開の為、北京に派遣しました。しかし、代表団を待っていたのは、「二国間交渉」のテーブルでは無かったのです。代表団は北京に到着すると、「チベット解放」の際、既に支那軍の捕虜となっていたアプー=アワンジグミ氏と共に、支那政府によって軟禁状態に置かれてしまったのです。現在の国際状況下でも、例え「敵対国」とは言え、その外交使節団が来訪した際には、礼を失する事が無い様、その処遇には充分配慮します。これが、外交にとっての最低限のルールであり、マナーです。しかし、支那はあろう事か、チベット代表団を「軟禁状態」に置いたのです。これは、明らかにルール違反と言える蛮行です。

京訪問後、軟禁状態に置かれたチベット代表団は、連日、脅迫と恫喝を繰り返され、本国との連絡を一切絶たれ、本国政府の指示や意向を仰ぐ事も許されぬまま、遂に、支那による強制によって『17ヶ条協定』に調印させられてしまいました。しかも何と、協定調印の際に使用されたチベット側の「印璽」は、ご丁寧にも支那側が偽造し用意した物だったのです。つまり、支那の行為は暴力団顔負け、いや、当事者が「国家」であり、相手国の主権や領土を強引な手法で奪取した事から、それ以上の暴挙だったと言えるのです。

の様な経過で締結された『17ヶ条協定』については、既に国際法の見地から明らかに不法であり、無効であると言われています。例えば、一般的に、国の代表者に対して強制の下で締結された条約については、伝統的国際慣習上から法的に無効であるとされ、1980(昭和55)年合意の『条約法に関するウィーン条約』第51条にも、

条約法に関するウィーン条約

   第51条(国の代表者に対する強制)

条約に拘束されることについての国の同意の表明は、当該国の代表者に対する行為又は脅迫による強制の結果行われたものである場合には、いかなる法的効果も有しない。

と明記されており、その観点からすれば、『17ヶ条協定』には支那が主張する様な法的効力は無いのです。更に、同条約第52条には、
条約法に関するウィーン条約

   第52条(武力による威嚇又は武力の行使による国に対する強制)

国際連合憲章に規定する国際法の諸原則に違反する武力による威嚇又は武力の行使の結果締結された条約は、無効である。

共明記されており、同条約第52条の「遡及適用の論議」において、その遡及を『国連憲章』制定時(1945年発効)迄とする意見で、国際法の世界がほぼ一致している以上、そして、支那自身が国家として同条約を批准している以上、『17ヶ条協定』には支那が主張する様な法的効力は認められないのです。つまり、支那がどう主張しよう共、『17ヶ条協定』は支那によるチベット支配の正当性の証(あかし)たり得ないのです。

   余談(つれづれ)

者の中には、支那による「チベット解放」(併合)と、かつての日本による「日韓併合」(日鮮合邦)を同列に見なす方がおられるやも知れません。しかし、この二つの事例は似て非なる物と言わざるを得ません。「日韓併合」の概略については、コラム(『56.コリア人が待望していた「日韓併合」 日韓裏面史-其の肆-』)をお読み頂く事として、その本質はと言えば、現在の英国型国家だったと言う事です。英国は、イングランド・スコットランド・ウェールズ(これらを「グレート-ブリテン」と総称する)・北アイルランドの四国が合邦して成立しており、現在のエリザベス2世女王は、イングランド国王であると同時にスコットランド国王でもある訳です。これが英国をして「連合王国」と言わしめる所以(ゆえん)であり、英国王を共に「国王」に戴く「同君連合国家」な訳です。一方の「日韓併合」も、日本と韓国(朝鮮)が合邦し、天皇を共通の皇帝として戴く「同君連合国家」だった訳です。又、合邦に際しては、韓国国内においても合邦に賛成する勢力がおり(当然ながら、反対する勢力もいたが)、韓国皇帝自身もそれを認めていた訳で、北京に来訪したチベット代表団を軟禁し本国(チベット)の何ら与(あずか)り知らぬ所で、強引に協定を締結させた支那と同列に論ずるべきでは無いと思うのです。その点からも支那による『17ヶ条協定』は、左翼・反日勢力から糾弾される「日韓併合」も足元に及ばない強引な手法だったと言えるのです。


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