Reconsideration of the History
99.「チベット17ヶ条協定」に見る「一国両制」の欺瞞 (2002.2.21)

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回のコラム『98.「日韓併合」も及ばない支那の強引手法 ── チベット17ヶ条協定』で、支那がチベット支配の正当性の根拠として挙げている『17ヶ条協定』について書きました。まあ、この『17ヶ条協定』が例えどんな経緯(いきさつ)があれ、チベット民衆を幸福にしているのであれば、さしてとやかく言う必要は無いのかも知れません。しかし、現実は『17ヶ条協定』に謳(うた)われている文言には程遠い事ばかりな訳で、台湾国内における祖国復帰統一勢力(台湾の支那への復帰=併合)が目指している「中台統一」 ── 「一国両制」(日本では一般に「一国二制度」と呼んでいる)が、果たして本当に薔薇色の未来を約束しているのか?と考えざるを得ません。そこで、今回は、『17ヶ条協定』の検証とチベットの実情を通して、台湾と「一国両制」について考えてみたいと思います。

れでは、幾つかの条文について検証してみましょう。先ずは、第1条から。

第1条(チベットの祖国復帰 *筆者による意味付け、以下同

チベット人民は団結して、帝国主義侵略勢力をチベットから駆逐し、チベット人民は中華人民共和国の祖国の大家族の中に戻る。

ここでは、チベットが「祖国」である支那へ復帰する事を謳っている訳ですが、これ迄のコラムの中でチベットの歴史について触れてきた通り、チベットが支那(彼らの言う所の「中国」)の領土の一部であったり、チベット民族が「漢民族」(狭義の「中国人」)から分派した一支族であった等と言う歴史はありません。又、条文の中で、「中華人民共和国の祖国の大家族」との表現がありますが、これは、かつての「中華」帝国 ── 皇威(中華皇帝の威徳)の及ぶ所、「中華」に非ざるもの無し ── とする「中華思想」をベースにした考えに基づいており、何処から何処までが「中国」の領土である等と明確に規定されている訳ではなく、その時々のご都合で、支那自身が「ここ迄が「中国」の領土である」と認定した範囲全てが「中国」となってしまう訳で、「中華人民共和国」と言うものは「中華帝国」のリメイクである訳です。つまり、第1条は、チベットの歴史や民衆の意向等を無視した上で、支那がチベットは「中国」の領土の一部である、と言う一方的な解釈に基づいて設けられた条項である訳です。

に第4条。

第4条(現行政治制度とダライ-ラマの地位の保全)

チベットの現行政治制度に対しては、中央は変更を加えない。ダライ・ラマの固有の地位および職権にも中央は変更を加えない。各級官吏は従来どおりの職に就く。

第4条では、ダライ-ラマの地位(「チベット帝国」の皇帝)及び職権(チベットにおける政教両権の最高指導者)を認めた上で、ダライ-ラマの下に組織されている政治制度(ポタラ宮殿を中心とした「チベット政府」)に対して一切の変更を加えず、従来通りの体制を維持存続させる事を謳っています。しかし、現実はどうでしょうか? ダライ-ラマ14世は「チベット動乱」によって、「祖国」であるチベットを逐われ、現在に至る迄、北インドのダラムサラに暮らしています。そして、支那はダライ-ラマ14世を「祖国の分裂を企てた反動者」として糾弾し、その地位も職権も全面否定しているのです。又、当然ながら、ダライ-ラマを頂点とするチベット独自の政治体制も否定され、現在ではチベット人によるチベットの「自治権」等、空文と化しているのです。

に第5条。

第5条(パンチェン-ラマの地位の保全)

パンチェン・エルデニの固有の地位および職権は維持されるべきである。

ここでは、パンチェン-ラマの地位や職権に変更を加えない ── つまり、北京政府は「介入」しないと言っている訳ですが、1989年にパンチェン-ラマ10世チョエキ-ゲンツェンが逝去すると、同条項が矢張り空文であった事が白日の下に晒(さら)されたのです。ダライ-ラマ14世がパンチェン-ラマ10世の「転生者」(生まれ変わり)として、ゲドゥン-チョエキ-ニマ少年を認定、第11世に据えた際、北京政府はこれを否定し、別にゲンツェン-ノルブ少年を第11世として承認、あろう事か、ニマ少年の身柄を拘束し何処かへ連れ去ったのです。ちなみに、ニマ少年の消息は今以て不明です。まあ、共産党による一党独裁を国是とするお国柄であり、「人権」等と言う言葉が辞書に存在しない支那の事ですから、さもありなん共言えますが、ある日突然幼くして、ダライ-ラマに次ぐ高位活仏に就かされ、その直後、公権力によって拉致されてしまったニマ少年の事を考えると・・・いたたまれない気持ちにさせられます。

に第7条。

第7条(チベット仏教信仰の自由及び独自風俗習慣の尊重)

中国人民政治協商会議共同綱領が規定する宗教信仰自由の政策を実行し、チベット人民の宗教信仰と風俗習慣を尊重し、ラマ寺廟を保護する。寺廟の収入には中央は変更を加えない。

ここでは、チベット仏教(ラマ教)の保護と、チベット民衆の信教の自由を謳っている訳ですが、現実はどうでしょうか? チベット仏教は、最高位活仏であるダライ-ラマ14世が「祖国」チベットから駆逐され、それに次ぐ地位のパンチェン-ラマ11世は北京政府の傀儡、そして、カギュ派のカルマパ17世は昨年(2001)インドへ亡命、と言った具合で指導者不在の状況にあり、その他多くの有能な僧侶達も「反革命分子」と言うレッテルを貼られ次々と逮捕投獄・処刑されています。又、「ラマ寺廟を保護する」との文言とは裏腹に、寺院の多くが破壊され、「再建」された物も人目に付く部分だけが補修されただけで、裏側に回ると未だ瓦礫が積まれたままと言った「張りぼて」状態。(モンゴル族)(満州族)と言った異民族王朝、しかも、現在の支那が標榜する版図を誇った大帝国が、ダライ-ラマをはじめとする活仏・僧侶を厚遇し、チベット仏教を手厚く保護したのとは、まるで正反対。むしろ、現在の支那は、「中国独自の共産主義」と言う新興宗教普及の為に、チベット仏教やチベット独自の風俗習慣を否定衰退させている様にしか見えないのです。

の様に『17ヶ条協定』の幾つかの条項について検証した訳ですが、協定締結後の支那の動向を見ると、どう見ても履行されているとは言えません。又、上海に代表される臨海部の急速な発展による臨海・内陸部の経済格差是正を目的に、北京政府は、新疆ウイグル自治区・青海省・チベット自治区と言った内陸部発展(「西部大開発」)を企図。これに乗じて当地に大量の「漢民族」を入植させ、チベット族やウイグル族と言った当地の先住民族を「少数民族」に転落させており、更には、同族同士の通婚の禁止(例えば、チベット族同士の結婚が制限され、「漢民族」との結婚を強要されている)によって、「民族浄化」が急速に進んでいるのです。

後に改めて書きますが、『17ヶ条協定』とは言い換えれば、香港特別行政区に先立って導入されたチベットにおける「一国両制」を謳ったものだったのです。しかし、その結末はどうだったでしょうか? そこに謳われていた条項は、支那によって全て反古(ほご)にされ、独自の歴史も文化も宗教も全て否定されつつあるのです。現在、台湾においても「一国両制」の下、大陸(支那)との統一を目指す「中台統一」を掲げる勢力がいます。しかし、台湾国民には、過去、チベットを舞台に行われた「一国両制」の結末に充分目を向け「賢明な判断」をしてもらいたい、と友邦の隣人として助言したいと思います。と同時に日本も、「チベット問題」・「台湾問題」を縁遠い自分達には関係の無い問題として片付けず、より身近な問題として ── 「チベット問題」・「台湾問題」の向こう側にある「もの」に、目を向けてもらいたいと思うのです。(了)


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