Reconsideration of the History
97.「解放」と言う名の侵略 ── チベット解放 (2002.1.8)

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チベット帝国国旗「雪山獅子旗」 「チベット人を外国の帝国主義者より解放する為に進軍する!!」 ── これは、1949年9月29日、支那(中華人民共和国)人民議会において満場一致で可決された朱徳・人民解放軍総司令による一般要綱(革命戦争の終結と、台湾及び台湾海峡に点在する64の島嶼、海南島及びチベットを含む支那全領土の解放を求めるもの)に基づいて発表された声明です。そして、これに基づき、実際に支那が「チベット帝国」へ侵攻し、その領土を併合したのは周知の通りです。1998年、米国映画『Seven Years in Tibet』(セブン・イヤーズ・イン・チベット)公開当時や、昨年(2001年)、ラマ教四大宗派の一つ、カギュ派の最高活仏(リンポチェ)カルマパ17世が突如、北インドのダラムサラに所在するダライ-ラマ14世のチベット亡命政府の下へと亡命した事件等で、世間の耳目を集めた程度で、今や、国際社会から「チベット問題」は、すっかり忘れ去られた感があります。いや、それ以前に、そもそも、現在、多くの日本人が、かつて「チベット」がれっきとした「独立国」だった事自体知らないのです。そこで、今回は、以前のコラム『3.チベットは中国の領土ではない!』 1997.2.21の続編として、「チベット問題」について再び書いてみたいと思います。

1950年10月7日、支那人民解放軍が突如、「宣戦布告」無きまま、東チベットを奇襲、「チベット帝国」への軍事侵攻を開始しました。そして、同月25日、支那政府は「宣戦布告」の代わりに、

「300万チベット人を帝国主義者の弾圧より解放する為、又、中国西部国境線防衛強化の為、人民解放軍のチベット進軍を命令した」
と嘯(うそぶ)いたのです。しかし、当時のチベットは如何なる「帝国主義者」の脅威に晒(さら)されていたと言うのでしょうか? 隣接する南アジアの地域大国・インドでしょうか? それ共、かつて、この地に影響力を及ぼした英国でしょうか? はたまた、支那事変(日中戦争)を戦った日本でしょうか? 答えは全て「NO」です。当時のチベットは如何なる「帝国主義者」の脅威にも晒されてはいませんでした。いや、正確にはたった一つの「帝国主義国」の脅威に晒されていたと言うべきでしょう。そして、その「帝国主義国」とは、はからずも「チベット解放」の名の下に軍事侵攻した支那そのものだったのです。

「チベット帝国」は当然の事ながら、支那政府に対し猛然と抗議しました。1912年、辛亥革命によって清朝が滅亡し支那本土が中華民国として独立した際に、チベットも、時のダライ-ラマ13世が「チベット帝国独立宣言」を発し、蒙古(外蒙古:現在のモンゴル国)と共に清朝(満州人による支配)から「独立」しているのです。しかし、支那はチベットが「独立国」であった事を否認しています。しかし、その後の「歴史」を紐解けば、チベットがれっきとした「独立国」だった証拠の枚挙に暇(いとま)がありません。例えば、戦時中の1942(昭和18)年、米国は「チベット帝国」に対し、連合国の一員として協力、対日参戦する様、要請していますし(「チベット帝国」は局外中立を宣言)、1950年の支那軍侵攻に際しては、エル-サルバドルが国連において同問題の討議を提起しています。又、1914年から1959年迄の間、チベット外交使節団が自国(「チベット帝国」)が発給した旅券(パスポート)を使って、米英その他多くの諸国を訪れていた事実。これらの事からチベットが、辛亥革命以降、れっきとした「独立国」だった事は疑うべくも無い事実なのです。それでも、支那はチベットが「中国の絶対不可分な神聖なる固有領土」を建前に、頑として「独立国」だった事を否認しています。そして、逆に支那は、『中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放に関する協約(十七ヶ条協定)』(『中央人民政府和西蔵地方政府関於和平解放西蔵辨法的協議』)を楯に、チベット支配の正当性を主張しているのです。

(続く)


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