Reconsideration of the History
158.「女性天皇」と「女系天皇」 ── 国民が理解しておくべき最重要ポイント(上)(2005.12.31)

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(さて)、例の「有識者会議」が、「女帝」(女性天皇)容認と共に、「女系」皇族の皇位継承をも容認する答申を出しました。これに対し、読売新聞社の世論調査(平成17年12月10・11日実施)により、国民の73%が女性天皇容認、同じく60%が女系天皇容認、と言う結果が出たそうです。然(しか)し、私は「ちょっと待て!!」と言いたい。調査に参加し回答した人達は、「女性」天皇と「女系」天皇の区別が果たしてきちんと出来ているのだろうか? 過去に推古天皇を含め十代八方の女帝が存在した、その事だけで単に「賛成」等と言ってはいないだろうか? だとすれば、そう言った人達には今一度、「女性」天皇と「女系」天皇の違いについて、しっかり勉強して貰いたい、と私は思う訳です。そこで、今回は、過去に即位なされた十代八方の女帝お一人お一人について、系図を使って分かり易く見ていく事にしたいと思います。

上初の女帝と言えば、飛鳥時代の第33代推古天皇(在位 592-628)が思い浮かぶと思いますが、実は推古天皇以前、日本には分かっているだけでも少なく共、二方の女帝が存在していました。お一方は、第14代仲哀天皇の皇后で、夫帝崩後、身重(みおも)の身体(からだ)を押して執政(201-269)し、子の第15代応神天皇に皇位を継承させた神功(じんぐう)皇后。そして、もうお一方は、第22代清寧天皇の崩後、第23代顕宗天皇の即位迄の間、「臨朝秉政(へいせい)(484-485)と称して、政務を執(と)った忍海飯豊青皇女(おしぬみのいいとよあおのひめみこ)です。

「神功天皇」・「飯豊天皇」関連系図

神功皇后、忍海飯豊青皇女共に、現在の皇統譜に於いては、天皇とは認められず、当然の事乍(なが)ら歴代からも除外されている訳ですが、明治以前は、推古天皇に先立つ女帝として、神功皇后は第15代「神功天皇」、忍海飯豊青皇女は第24代「忍海飯豊青尊(みこと)」・「飯豊天皇」と、それぞれ、歴代に数えられていました。因(ちな)みに、貴人に対する尊称として、古代の日本では「ミコト」を用い、漢字では通常「命」と表記しますが、こと天皇及び天皇に準じた待遇の皇族に対しては、「命」と区別する意味から「尊」と表記されていました。(例:日本武尊(やまとたけるのみこと)。但し、『常陸国風土記』等には、「倭武天皇」(やまとたけるのすめらみこと)と記載されており、天皇として即位していた可能性も否定出来ない。) 話が横道に逸れてしまいましたが、「神功天皇」の次には、夫帝・仲哀天皇との間に産まれた応神天皇が即位しており、

仲哀天皇→[神功天皇]→応神天皇(仲哀天皇の皇男子)

と「男系継承」が維持されています。又、「飯豊天皇」についても、次に即位したのは、兄・磐坂市辺押磐皇子(いわさかのいちべおしいわのみこ:一部の史書に、「市辺天皇」と記されている)の子、詰まり、甥の顕宗天皇であり、

清寧天皇→[飯豊天皇]→顕宗天皇(履中天皇の男系皇孫)

とこれ又、「男系継承」が維持されています。

に、一般に日本史上初の女帝とされている推古天皇について見ていきます。

推古天皇関連系図

推古天皇は、第29代欽明天皇の皇女ですから、「男系女子」による継承と言う事になります。推古天皇は抑(そもそ)も、異母兄である第30代敏達(びたつ)天皇の皇后でしたが、夫帝の崩後、弟の第31代用明天皇・第32代崇峻(すしゅん)天皇(暗殺)が相次いで崩御したのを受け ── 自身の身体に蘇我氏の血が流れていた事も手伝って即位した訳ですが、次に即位したのは、敏達天皇の子、押坂彦人大兄皇子(おしさかひこひとのおおえのみこ)の子、舒明(じょめい)天皇でした。詰まり、

崇峻天皇→[推古天皇]→舒明天皇(敏達天皇の男系皇孫)

「男系継承」が維持されています。

に、大化改新期の女帝、皇極・斉明天皇(在位 642-645,655-661)について見ていきます。

皇極(斉明)天皇関連系図

皇極天皇(重祚(ちょうそ)して斉明天皇)は、敏達天皇の子、押坂彦人大兄皇子の子で第34代舒明天皇の兄である茅渟王(ちぬのおおきみ)の王女ですから、「男系女子」による継承と言う事になります。皇極天皇は抑(そもそ)も、叔父である舒明天皇の皇后でしたが、夫帝の崩後、即位しました。この時、既に夫帝との間に、中大兄皇子(なかのおおえのみこ) ── 後の第38代天智天皇は産まれており、出産育児からは解放されていました。皇極天皇の御代に、彼(か)の有名な政変「大化改新」が起こり、それに伴って兄の軽皇子(かるのみこ) ── 孝徳天皇に譲位しましたが、孝徳天皇崩後、重祚して斉明天皇となり、崩後には6年間の称制を経て、子の天智天皇が即位しており、

舒明天皇→[皇極天皇]→孝徳天皇(敏達天皇の男系曾孫)→[斉明天皇]→天智天皇(舒明天皇の皇男子)

とこれ又、「男系継承」が維持されています。

に、五代四方の女帝が相次いで即位し、「女帝の世紀」共称される白鳳〜天平(てんぴょう)時代=奈良時代について見ていきます。

白鳳〜天平時代天皇関連系図

第41代持統天皇(称制 686-689,在位 689-697)と第43代元明天皇(称制 707,在位 707-715)は、第38代天智天皇の皇女ですから、「男系女子」による継承と言う事になります。持統天皇は天智天皇の「弟」である第40代天武天皇(「天武天皇」については、史書の記述の矛盾から、天智天皇の弟では無かったと考える。これに付いては、コラム『15.天智と天武は兄弟ではない!! 真説・壬申の乱』を別途参照されたい)の皇后でしたが、夫帝の崩後、3年間の称制を経て即位。次には、夫帝の子で皇太子(日並知皇子 ひなめしのみこ)であった草壁皇子(くさかべのみこ:追尊して「岡宮御宇天皇」と言う)の子、珂瑠皇子(かるのみこ) ── 文武(もんむ)天皇が即位しています。

武天皇の崩後、持統天皇の妹である阿閉皇女(あへのひめみこ) ── 元明天皇、その崩後には、文武天皇の妹である氷高皇女(ひたかのひめみこ) ── 元正(げんしょう)天皇(在位 715-724)、と二代に亘(わた)って女帝が続いています。元正天皇の崩後、文武天皇の皇子である首皇子(おびとのみこ) ── 聖武(しょうむ)天皇が即位しますが、その崩後、皇女の阿倍皇女(あべのひめみこ)が即位(孝謙天皇:在位 749-758)。一旦は、大炊王(おおいのおおきみ:第47代淳仁(じゅんにん)天皇)に譲位しますが、これを廃して重祚しました(称徳天皇:在位 764-770)。その後、称徳天皇が後嗣無きまま崩御し、天武天皇の皇系が断絶すると、天智天皇の子、施基(しき)親王の子で皇族内の長老、白壁王(しらかべのおおきみ) ── 光仁(こうにん)天皇が即位。光仁天皇崩後は、皇子の桓武(かんむ)天皇が即位し、以後、この皇系が王朝時代(平安朝)に於ける皇統を継承していく事となりました。

武天皇については、私自身、以前のコラム『15.天智と天武は兄弟ではない!! 真説・壬申の乱』で触れた通り、天智天皇の実弟では無いと考えており、その点からすれば、天武・文武・元正・聖武・孝謙(称徳)・淳仁の天武系六帝(この内、天武・淳仁を除く四帝は、天智天皇から見ると皇女の持統天皇を通して女系)は正統な皇系であるか意見の分かれる所ですが(皇室の菩提寺である泉涌寺には天武系諸帝は祀られていない)、例え、そうだとしても、称徳天皇崩後、天智系の光仁天皇が即位、以後、その皇系が皇位を継承している点から考えると、

天智天皇・・・光仁天皇(天智天皇の男系皇孫)→桓武天皇

結果的には「男系」で繋がっており、この皇系によって平安朝が幕開けした事になります。

後に、年代的に一番近い江戸時代の二女帝について見ていきます。

明正・後桜町天皇関連系図

寬永6(1629)年、時の帝、第108代後水尾(ごみずのお)天皇は、紫衣(しえ)事件等に於ける徳川幕府からの朝廷への干渉の「当て付け」として、33歳の若さにして突如、第二皇女の女一宮興子(おきこ)内親王への譲位を強行しました。これが、称徳天皇の崩御より実に859年ぶりに復活した女帝、第109代明正(めいしょう)天皇(在位 1629-1643)です。然し、明正天皇の御代は父・後水尾上皇が院政を布(し)き、その後、異母弟の第110代後光明(ごこうみょう)天皇に譲位しており、

後水尾天皇→[明正天皇]→後光明天皇(後水尾天皇の第四皇子)

「男系継承」が維持されています。

して、直近最後の女帝、第117代後桜町(ごさくらまち)天皇(在位 1762-1770)についてですが、同女帝は第115代桜町天皇の第二皇女で、諱(いみな)を智子(としこ)と言い、異母弟、第116代桃園天皇の遺詔(遺言)により、同帝の第一皇子で当時僅(わず)か5歳の幼児であられた英仁親王 ── 後の第118代後桃園天皇即位迄の「中継ぎ」として即位しました。その間、在位9年。以後、今日(こんにち)に至る迄、凡(およ)そ235年の間、女帝は即位していません。

桃園天皇→[後桜町天皇]→後桃園天皇

上、早足で見てきた訳ですが、皇統史上十代八方(若しくは十二代十方)の女帝が即位していますが、今日に至る迄、皇統は「男系男子」によって継承されています。そして、今次、「女系」による皇位継承をも認めると言う事は、今迄連綿と受け継がれてきた皇室の「伝統」を破壊する事であり、一種の

革 命

にも匹敵する一大変革である訳です。本当にそれで良いのか? 巷(ちまた)で囁(ささや)かれている「愛子天皇」容認意外に選択肢が無いのか? 旧宮家の「プリンス」が居(お)り、旧宮家では無かったものの、天皇の血を引く家系 ── 第107代後陽成(ごようぜい)天皇の皇子で摂家に養子として入られた近衛信尋(このえ-のぶひろ)公、一条昭良(あきよし)公、第113代東山天皇の皇子・閑院宮(かんいんのみや)直仁親王の皇子で、同じく摂家に養子として入られた鷹司輔平(たかつかさ-すけひら)公の家系 ── 所謂(いわゆる)旧「皇別摂家」にも「プリンス」が居る訳です。天皇家に男子が居らず、直(じき)宮家にも男子が居(い)ない。そして、旧宮家にも、旧皇別摂家にも男子が居ないと言うのであれば、それはそれで止むを得ない共思います。然し、現実には「皇統のスペア」としての「プリンス」が存在している。であれば、連綿と続いてきた皇室の「伝統」を安易に変えずに、「皇統のスペア」から天皇を輩出しても良いのではないか? 斯(か)くも拙速に「女帝」・「女系」を持ち出しても良いものなのか? 私は改めて皆さんに問いたい。そして、安易に「女帝」・「女系」に賛成している人々に対しては、戒(いまし)めの意味から以下の諺(ことわざ)を以て再考を促したい、と思います。即(すなわ)ち、

覆水盆に返らず

と。


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