Reconsideration of the History
15.天智と天武は兄弟ではない!! 真説・壬申の乱 (1997.9.16)

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672年、古代日本最大の事件、「壬申の乱」が起こりました。時の天皇・弘文天皇(大友皇子)に、先帝・天智天皇の「実弟」・大海人皇子が挙兵、遂に、「甥」・弘文天皇を倒して、新帝(天武天皇)に即位したのです。この古代最大の「内戦」を天武天皇を通して、見てみましょう。そこには事件の意外な「真実」が隠されていたのです。

ず、天智・弘文・天武三天皇の関係を一般の「皇室系図」で見てみましょう。

┌(34)舒明天皇┬(38)天智天皇┬(41)持統女帝(天武帝皇后)
│      │      ├(43)元明女帝
│      │      ├──施基皇子−(49)光仁天皇−(50)桓武天皇
│      └(40)天武天皇(39)弘文天皇
│      
└──茅渟王─┬(35)皇極・(37)斉明女帝(舒明帝皇后)
       └(36)孝徳天皇

上記の系図でお分かりの通り、天智と天武は舒明天皇を父とする「兄弟」、天武と弘文は「叔父・甥」の関係になります。しかし、これには間違いがあるのです。例えば、

天智天皇 671年没(享年46歳)
天武天皇 686年没(享年65歳)

と言われていますが...天智が死んだのは、天武より、686年−671年=15年、つまり15年前
すると、天智が死んだ時の天武の年令は、65歳−15歳=50歳、つまり50歳
どうでしょう。天智が死んだ時の年令が46歳なのに、その時、「弟」の天武は50歳!! 4歳も年上の「弟」等どこにいるでしょうか? つまり、ここで、天智が「兄」で天武が「弟」と言う関係はあっさりと壊れてしまったのです。しかし、『古事記』(ふることふみ)も『日本書紀』(やまとのふみ)も、天智が「兄」で天武が「弟」と書いているのです。これは不思議としか言いようがありません。そこで新たな疑問が生まれました。天智と天武は本当に「兄弟」だったのでしょうか?

智と天武は「兄弟」か? 私は兄弟では無かったと思います。では、なぜか? それは、天武の妃を見れば分かります。

天智天皇大田皇女─────────┬大津皇子
    │             └大来皇女
    ├ウノサララ皇女(持統女帝)──草壁皇子─┬元正女帝
    ├大江皇女─────────┬長皇子  └文武天皇──聖武天皇
    │             └弓削皇子
    └新田部皇女─────────舎人親王──淳仁天皇

上記の通り、天武の妃の四人までが、「兄」天智天皇の娘なのです。古代では兄弟・姉妹・従兄弟通しでの「近親婚」が珍しくなかったとは言え、「弟」が「兄」の娘を四人も娶(めと)るのは「異常」です。まるで、戦国時代、互いの娘を相手方の男子に嫁がせ、「同盟」を結んだようなものです。しかし、戦国時代と大きく違うのは、戦国時代は、「毛利」と「小早川」と言った様に、違う「家」通しでの通婚なのに対し、かたや、「兄弟」通しでの通婚です。これをどう解釈するか? 先の「年令逆転」からしても、天智と天武は血がつながっていなかった・・・つまり、「兄弟」ではなかった、としか考えられません。

武は天智の弟ではなかった。では、天武とは一体何者なのでしょうか? これを解く鍵はその「名前」にあります。天智の名前が「中大兄皇子(なかのおおえのみこ)」なのに対し、天武の名前は「大海人皇子(おおあまのみこ)」とされています。しかし、『日本書紀』天智天皇の条には、一つも「大海人」と言う名前は出てこないのです。ちなみに、大海人皇子が皇太子(弟なので皇太弟)になったと言う664年の部分には、「大皇弟」・「東宮太皇弟」・「太皇弟」・「皇太子」・「東宮」と言った普通名詞が出てくるだけで、「大海人」と言った固有名詞は見当たりません。ここで考えられる事は、664年の立太子時に、「大海人」と言う名前を持つ人物が存在しなかったのではないかと言う事です。そう考えれば、『日本書紀』天智天皇の条に、「大海人」と言う名前が出てこなくても納得がいくのです。では、天武の本当の名は一体何だったのでしょう? 私は「金多遂」だったと思います。

武の本名は「金多遂」だった!! 「金(キム)」と言う以上、朝鮮系です。私自身、彼は新羅人だったと思います。なぜか? 第一に、天智・弘文父子は親百済政権だったと言う事。これは、当時の「閣僚名簿」を見れば一目瞭然。主要な高級官僚は祖国を失った亡命百済人が名前を連ねています。第二に、天武即位後の思い切った「行政改革」にあります。それまでの親百済政権とは一線を画す政権を樹立し、百済人官僚の多くが冷や飯を食わせられました。第三に、天武系の諸天皇は「天皇家の菩提寺」に祀られていないと言う事実です。天智以前及び光仁以後の諸天皇が祀られているにも関わらず、なぜか、天武系は祀られていません。そして、これが核心なのですが、天武が新羅人だった最大の理由は、「壬申の乱」にあるのです。

申の乱で、弘文天皇率いる朝廷軍を、大海人皇子率いる反乱軍が制圧、大海人皇子は遂に天皇の座を手中に収めたと冒頭で書きましたが、これこそ、彼が新羅人ではないかと言う最大の理由なのです。時は遡りますが、「白村江の戦」以前、新羅王族に連なる一人の人物が日本に「人質」として滞在していました。彼の名は「金多遂」。「人質」とは言っても、日本の戦国時代同様、決して邪険にされるような存在ではありませんでした。従者もいたでしょうし、仮にも新羅王族なのですから、朝廷や地方の有力者(豪族)とも交流があったでしょう。そんな彼もやがて母国・新羅に帰ります。そして、運命の白村江の戦が起こったのです。結果は日本・百済連合の敗退。日本には母国を失った亡命百済人と共に、戦勝国・新羅も多くの新羅人を送り込んできました。その中には、かつて日本に滞在し「知日派」として知られた新羅王族の「金多遂」が含まれていたでしょう。以前は「人質」として、今度は「戦勝国のVIP」として。朝廷側は、彼をどう扱ったでしょうか? 新羅王と血縁がある人物です。丁重に扱ったでしょうし、天皇にしても、有力なコネクションを持ち、「進駐軍」と言う軍事力を背景に持つ人物にある種、「畏怖」を抱いたのではないでしょうか? だからこそ、天智天皇は自分の娘を四人までも嫁がせ、良好な関係を維持しようとしたのではないでしょうか? しかし、結果は天智の危惧した通りになりました。

海人皇子(金多遂)、反逆!! そして、天智天皇の子・弘文天皇は、「大海人皇子」率いる反乱軍(その主力は進駐新羅軍ではなかったでしょうか)に滅ぼされました。しかし、これは「叔父」が「甥」を殺したのではなかったのです。天智と天武が兄弟でなかった以上、弘文が天武の甥でなかった以上、そして、天武が日本人でなかった以上、「壬申の乱」は決して「甥殺し」等ではなく、「新王朝」の始まりだったのです。そして、彼の心中にあったもの、それは「金春秋が新羅の王ならば、俺は日本の天皇になってやる!!」と言った気概ではなかったでしょうか?


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