Reconsideration of the History
159.「女性天皇」と「女系天皇」 ── 国民が理解しておくべき最重要ポイント(下)(2006.1.10)

前のページ 次のページ


回のコラム158.『「女性天皇」と「女系天皇」 ── 国民が理解しておくべき最重要ポイント(上)』に於いて、過去に即位された十代八方(又は、十二代十方)の女帝(女性天皇)について、見てみた訳ですが、「男系」継承と「女系」継承の違いが今一分からないと言う方もおられる事でしょう。其処(そこ)で、今回は、「男系」継承と「女系」継承の違いについて、より分かり易く、且つ、掘り下げて書いてみたいと思います。

(ま)ずは、下図a.をご覧下さい。これは、「男系」継承の例として用意した系図です。

図a.男系による皇位継承モデル

「A天皇」から「G天皇」に至る七代の架空の天皇が登場していますが、先ず、初代「A天皇」の次は男系男子(「父方に天皇を持つ男子」と言う意味)の「B天皇」が、「B天皇」の次にも男系男子の「C天皇」が即位し、三代に亘(わた)って「男系男子」による継承が為(な)されています。「C天皇」は若くして崩御(ほうぎょ)した為、姉・内親王と弟・親王の内、幼い弟に代わって、姉が「D天皇」=女帝として即位しました。その後、「D天皇」は未婚のまま崩御し、弟・親王も姉・女帝の治世中に薨去(こうきょ)した為、皇位は弟・親王の子=男系男子の「E天皇」が継承。「E天皇」の次には男系男子の「F天皇」が独身の身で即位しました。然(しか)し、「F天皇」は独身のまま崩御。御子様はおらず、又、「F天皇」の兄弟は妹・内親王が二人だけ。此処(ここ)に皇統の危機が訪れました。

ころで、「B天皇」の治世中に、皇太子 ── 後の「C天皇」の弟・「X親王」が独立し、「X宮家」を創設していました。この「X宮家」は代々男系男子の血脈を保ち、五代目の親王は立派な青年に成長していました。「F天皇」の崩御によって訪れた皇統の危機を乗り切る為、このX宮家の親王が皇位を継承。「G天皇」として即位しました・・・。

まり、「A天皇」の嫡流(ちゃくりゅう)は、「B天皇」→「C天皇」→(「D天皇」)→「E天皇」→「F天皇」と六代で断絶しましたが、傍流の「X親王」を通して「A天皇」に繋がる「G天皇」が即位した事で、結果的に、「A天皇」から「G天皇」迄「男系男子」による皇位継承が維持された事になります。(図a.の青い太線が示している) そして、日本の皇室は、この様な手法を採り乍(なが)ら、連綿と「男系男子」による皇位継承を以(もっ)て、125代(今上天皇)に至る皇統を維持して来た訳です。因(ちな)みに、これ程、長期間に亘って同一の血脈によって維持されてきた王朝・王権は、世界広しと雖(いえど)も日本だけです。だからこそ、日本の皇室は希有(けう)であり、外交儀礼上もローマ教皇と同格若(も)しくは格上の待遇を以て、諸外国から扱われている訳です。

に、皇位が「女系」によって継承された場合について、図b-1を例に見てみみる事にしましょう。

図b-1.女系による皇位継承モデル(皇室を基準として見た場合)

「A天皇」から「B天皇」、そして、「C天皇」と三代に亘って「男系男子」によって皇位が継承されてきた皇室 ── 「A天皇」を昭和天皇、「B天皇」を今上(きんじょう)陛下、「C天皇」を皇太子徳仁(なるひと)親王殿下に当て嵌(は)めても良い ── でしたが、「C天皇」の後、「男系女子」(「父方に天皇を持つ女子」と言う意味)である「D天皇」=女帝が即位しました。(「D天皇」は敬宮(としのみや)愛子内親王殿下に比定しても良い) そして、「D天皇」は「冬彦」さんと言うお婿さん(皇婿殿下)を迎え、二人の間に産まれた「女系男子」(「母方に天皇を持つ男子」と言う意味)の御子様が「E天皇」として即位したと仮定します。皇位は、図b-1の太線で示した通り、「A天皇」から「E天皇」迄、血脈としては繋(つな)がっています。ところが、視点を変える事で内容が一変します。

に示す図b-2は、図b-1と全く同じ系図ですが、あくまでも「男系」継承に力点を置いて作成したものです。

図b-2.女系による皇位継承モデル(あくまでも「男系」を基準として見た場合)

日本皇室に於ける皇位継承の伝統はあくまでも「男系男子による継承」です。その観点から、図b-1を眺め直した場合、「A天皇」から「C天皇」迄は「男系男子」の伝統に則(のっと)った皇位継承であり、全く問題はありません。然し、「C天皇」の次には皇女=「男系女子」の「D天皇」が即位し、「男系男子」継承の伝統から外(はず)れかかっています。まあ、過去にも、明正(めいしょう)天皇や後桜町(ごさくらまち)天皇等に見られる様に、「男系女子」による皇位継承の先例が無い訳ではありません。然し、女帝「D天皇」の場合は事情が違います。

去の女帝は、生涯独身を通し、次代の男帝即位迄の「中継ぎ」として皇位に即(つ)いた例や、皇女ではあったものの、皇后に冊立(さくりつ)され、夫・天皇との間に産まれた皇子の即位を通して男系継承が維持されていました。然し、女帝「D天皇」は、天皇を祖に持つ男系皇族でも何でも無い一民間人の冬彦さんと結婚。二人の間に産まれた「女系男子」の「E天皇」が皇位を継承しました。この皇位継承を、日本皇室に於ける皇位継承の伝統「男系男子による継承」の観点から眺めると、「男系による皇位継承」は「D天皇」の代を以て終焉。「E天皇」は、春彦から冬彦へと連なる「男系」を継承する、言うなれば、従来皇室の血脈とは全く家系の異なる「新王朝の成立」

易 姓 革 命
(皇室の姓が改まる革命)

と言っても過言では無い事態となる訳です。

(さて)、此処(ここ)で一休みして、帝政ロシアの話をしてみたいと思います。嘗(かつ)てのロシア帝国の帝室が「ロマノフ朝」だった事くらいは、皆さんもご存じでしょう。ところが、厳密には、ロシア革命の露と消えた最後の皇帝(ツァーリ)ニコライ2世(在位 1894-1917)は「ロマノフ朝」の皇帝ではありませんでした。一体どう言う事か?と言いますと、彼は「ロマノフ-ホルシュタイン-ゴットルプ朝」の皇帝だったのです。

マノフ朝は、1598年に「イヴァン雷帝」で名高いリューリック朝が断絶し、「動乱時代」(スムータ)を収拾する為に開催された「全国会議」(ゼムスキー・ソボル)によって、新たな皇帝に選出されたミハイル=ロマノフ(在位 1613-1645)を祖とするロシアの王朝です。その「ロマノフ朝」の帝位継承に於いて、「女系男子」が即位した事がありました。その皇帝の名は、ピョートル3世(在位 1762)。彼は、「大帝」と称されたロシア皇帝・ピョートル1世(在位 1682-1725)の娘アンナと、彼女の夫であるドイツ貴族・ホルシュタイン-ゴットルプ公カール=フリードリヒとの間に産まれた公子でしたが、同じくピョートル1世の娘で女帝であったエリザヴェータ=ペトロヴナ(在位 1741-1762)の皇太子となり、女帝から帝位を継承しました。詰まり、ピョートル3世は、ピョートル1世の血(ロマノフ朝)を母方を通して受け継いでいたものの、あくまでも「女系男子」の皇帝であった訳で、それ故に、父方の家名「ホルシュタイン-ゴットルプ」を冠して、以後、帝室は単なる「ロマノフ朝」では無く、「ロマノフ-ホルシュタイン-ゴットルプ朝」と呼ばれる様になった訳です。(下記系図参照)

ロシア帝国皇帝系図

話休題。話を日本に戻しましょう。世間では、「女性」天皇と「女系」天皇の違いすらよく分からないまま、過去に女帝が存在した事と、男女同権だとかジェンダーフリーだとか、そう言った風潮の中で、何となく、「女性」天皇・「女系」天皇に賛成する向きがありますが、果たして本当にそんな事を容認して良いものなのでしょうか? 初代・神武天皇から、第125代・今上天皇に至る迄、連綿と継承されてきた「男系継承」の原則は、能楽や狂言、歌舞伎と言った芸能、蒔絵(まきえ)や螺鈿(らでん)、漆器や陶磁器等の工芸等、日本を代表する伝統の正(まさ)に頂点に君臨する

日本至高の伝統

と言っても過言では無い、そう言うものです。その伝統を平成の御世の一時的な「価値観」で安易に改変して良いものなのでしょうか? 世界に類を見ない125代もの長きに亘って受け継がれてきた、日本の誇るべき伝統=「男系皇位継承」を次の時代へきちんと引き渡す事、これも立派な伝統継承であり、胸を張って世界に誇る事の出来る日本文化の神髄だと思う訳です。そして、何時(いつ)の時代にあっても不変なもの、それが男系によって連綿と継承されてきた日本の皇位であり、その存在あったればこそ、貴族社会(古代)から武家社会(中・近世)、そして、明治維新(近代)から大東亜戦争の激動を経て今に至る民主主義体制(現代)、と幾度と無く訪れた「革命」(Revolution)をものともせず、日本文化や「日本らしさ」が残ったのでしょう。その意味からも、平成の御世に生きる我々が、安易に「女帝」なり「女系」に走る事無く、我々なりに知恵を搾(しぼ)り合って、如何(いか)にしたら連綿と受け継がれてきた「男系皇位継承」を存続させる事が出来るか?を考える可(べ)とは言えないでしょうか? そして、その方策として「旧宮家の復活」と言った道が残されている、その事に思いを馳(は)せる可きでは無いでしょうか?


   余談(つれづれ)

(く)しくも、このコラムを発表した同日に発売された月刊誌『文藝春秋』2月特別号に、寬仁(ともひと)親王殿下と櫻井よし子女史による対談『天皇さま その血の重み ── なぜ私は女系天皇に反対なのか』が掲載されました。もう既にお読みになった方もおられる事と思いますが、先に寬仁親王殿下が自ら所属される福祉団体「柏朋会」の会報『ざ・とど』に、「プライベートな独り言」の形式で、所謂(いわゆる)「有識者会議」に対する異議を唱えたのに続いて、再度、異議を唱えた形になります。

来、東宮(皇太子)・三宮(三后)・親王及び王・女院(にょいん)の命令を伝える文書を『令旨(りょうじ)』と言います。有名なものでは、治承4(1180)年4月、以仁王(もちひとおう)が全国の源氏に挙兵を促す目的で発した『平家追討の令旨』があります。翻(ひるがえ)って、二度に亘って「有識者会議」に異議を唱えた寬仁親王殿下の「発言」は、言わば現代版の『令旨』と言っても過言では無い重みのあるものです。一度目の異議に対して、「有識者会議」の座長・吉川弘之氏は、「(皇族方の)意見を聴く考えは全くない」として一顧だにしませんでしたが、はてさて、今回再び為された異議にどう反応するのか? 一度ならず二度迄も一顧だにしないとなれば、最早(もはや)、不遜どころか「朝敵」の汚名を甘受し、討(う)たれるも致し方無し、と言った表明になりますが。

みに、寬仁親王殿下による一度目の異議=『令旨』に対して、天皇陛下は何の異議も反論も表明していません。詰まり、素直に受け取れば、天皇陛下は寬仁親王殿下の『令旨』を黙認 ── 同意した事になります。それと同時に、「有識者会議」の出した結論(答申)に賛成する者が、どうしても、「女性」天皇・「女系」天皇の実現を推進すると言うのであるならば、天皇陛下をして、お墨付きたる『詔勅(しょうちょく)』を賜(たまわ)る可きです。何故ならば、寬仁親王殿下の発した『令旨』を無効にする事が出来るのは、唯一、天皇陛下の発する『詔勅』以外に無いのですから。


前のページ 次のページ