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紫衣事件 (1629)

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戸時代初期に於ける朝幕(朝廷と幕府)間の対立事件。事件の名になっている「紫衣(しえ)」とは、紫色の法衣や袈裟(けさ)の事で、古来より宗派の別に関係無く、高僧・尼に対して朝廷が下賜(かし)していた。詰まり、僧侶に対して、紫衣を下賜する事は朝廷=天皇の権威を象徴するものであった訳だが、この紫衣の下賜に対し、徳川幕府は、慶長18(1613)年、『勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度』(『勅許紫衣法度』・『大徳寺妙心寺等諸寺入院法度』とも呼ぶ)を、更に2年後の慶長20(1615)年には、『禁中並公家諸法度』(『禁中方御条目』共呼ぶ)をそれぞれ発布し、朝廷による安易な紫衣・上人(しょうにん)号の下賜に規制を加えた。これに対し、第108代後水尾(ごみずのお)天皇(在位 1611-1629)が幕府の意向を無視する形で、十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた為、徳川三代将軍家光が勅許状の無効を宣言。後水尾天皇と将軍家光が対立する所となった。その後、幕府の勅許状無効宣言に朝廷が異議を唱え、又、京都大徳寺の住職・沢庵宗彭(たくあん-そうほう)、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷と歩調を合わせる形で、幕府に抗議。業(ごう)を煮やした幕府は、遂に寛永6(1629)年、沢庵和尚(おしょう)ら反抗した高僧達を奥羽(おうう)への流罪(るざい)に処した。事件後、後水尾天皇は幕府に対する抗議と「当て付け」の意味から、僅か33歳の若さで退位し、第二皇女の興子(おきこ)内親王 ── 明正(めいしょう)天皇(在位 1629-1643)を即位させ、奈良時代の第48代称徳天皇(在位 764-770)以来、実に859年ぶりに女帝を復活させた。


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