Reconsideration of the History |
47.1=73? ウガヤフキアエズ朝「代数問題」の謎解き (1999.2.7) |
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以前、コラムで『古史古伝』について取り上げましたが(詳しくは、『26.封印された超古代日本史〜「古史古伝」の世界』を参照)、多くの『古史古伝』に共通したある問題があります。それは、「ウガヤフキアエズ朝代数問題」(以下、「ウガヤフキアエズ朝」は「ウガヤ朝」と略)と呼ばれるものです。これがどの様な事かと言うと、『古事記』・『日本書紀』(『記紀』と総称)で、「1代」とされている神武天皇の父・ウガヤフキアエズ尊(ミコト)が、『古史古伝』では「73代」(『宮下文書』以外)あるいは「51代」(『宮下文書』 但し、神后摂政を合わせると75代)続いた「王朝」として扱われているのです。
『記紀』による皇祖神の系譜つまり、数学的には絶対にあり得ない数式
天照大神(アマテラスオオミカミ)────────────────┐
┌────────────────────────────────┘
└天之忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)────────────┐
┌────────────────────────────────┘
└天津日高日子瓊々杵尊(アマツヒダカヒコニニギノミコト)─────┐
┌────────────────────────────────┘
└日子火々出見尊(ヒコホホデミノミコト)─────────────┐
┌────────────────────────────────┘
└日子波瀲武鵜茅葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)┐
┌────────────────────────────────┘
└神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレヒコノスメラミコト=神武天皇)・・・今上天皇
1=73
が生じてしまうのです。と言う訳で、今回は「ウガヤ朝代数問題」における「問題点」と、「1=73」が成立し得る「歴史トリック」(解決)について書いてみたいと思います。
先ずは、問題点から。もしも『古史古伝』が伝承する様に、「ウガヤフキアエズ」が個人名ではなく、王朝名−つまり、73代続いた「王朝」だったとしたら、どうでしょう? 実は、困った事になってしまうのです。その困った事とは、王朝の「存続期間」なのです。
文書名 | ウガヤ朝存続期間 | 一代あたりの平均在位年数 |
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竹内文書 | 8277年※ | 113.4年 |
九鬼文書 | 1200余年 | 16.4年 |
宮下文書 | 2750年 | 36.7年 |
仮に一代あたりの平均在位年数を20年としましょう。すると、
73代×20年=1460年
となるのです。これと他の時代を比べてみると、
時代名 | 存続期間 |
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仮定「ウガヤ朝」 | 1460年 |
奈良時代 | 85年(710〜794) |
平安時代 | 399年(794〜1192) |
鎌倉時代 | 142年(1192〜1333) |
室町時代 | 238年(1336〜1573) |
安土桃山時代 | 33年(1568〜1600) |
江戸時代 | 265年(1603〜1867) |
いかがでしょう。「ウガヤ朝」は日本のどの時代(政権)よりも長いのです。これが平均在位年数を半分の10年にした所で、730年。やはり日本史上類を見ない「長期政権」だった事に変わりはないのです。しかし、問題はそんな単純な事ではないのです。
『古史古伝』における「ウガヤ朝」の事績を紐解けば分かりますが、文化的水準はおおよそ「弥生時代」に相当します。そこで、「ウガヤ朝」を「弥生王朝」に仮定したとします。するとここで再び問題に突き当たってしまうのです。その問題点とは、先に挙げた「存続期間」なのです。
実際の歴史 | 「ウガヤ朝」を 組み込んだ場合 |
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縄文時代 | 縄文時代 | ||
紀元前3世紀 | 弥生時代 | ウガヤ朝(弥生王朝) | |
前2世紀 | |||
前1世紀 | |||
紀元後1世紀 | |||
2世紀 | |||
3世紀 | |||
4世紀 | 古墳時代 | ||
5世紀 | |||
6世紀 | 飛鳥時代 | ||
7世紀 | |||
8世紀 | 奈良時代 | ||
平安時代 | |||
9世紀 | |||
10世紀 | |||
11世紀 | |||
12世紀 | |||
13世紀 | 鎌倉時代 | 古墳時代 | |
14世紀 | 南北朝時代 | ||
室町時代 | |||
15世紀 | 戦国時代 | 飛鳥時代 | |
16世紀 | 安土桃山時代 | ||
17世紀 | 江戸時代 | 奈良時代 | |
18世紀 | 平安時代 | ||
19世紀 | 現 代 | ||
20世紀 |
上記の表を見ての通り、「ウガヤ朝」を「弥生時代」に仮定したとすると、「ウガヤ朝」は12世紀−つまり、平安時代末期まで存続していた事になってしまいます。すると、20世紀はまだ「平安時代中期」と言う事になり、到底、時間的な無理が生じてしまいます。又、「ウガヤ朝」は相当期間存続したにも関わらず(平均在位年数20年でも1460年)、文化的には殆(ほとん)ど発展していません。これは一体どう解釈したら良いのでしょうか? やはり、『古史古伝』否定論者の言う通り、「ウガヤ朝」は「架空」(もしくは「幻」)の王朝だったのでしょうか?
「ウガヤ朝」はやはり架空の王朝だったのか? この答を解く鍵は、『記紀』と『古史古伝』における「ウガヤフキアエズ」の「代数」の違い−つまり、1=73 に隠されていたのです。結論から言うと、『記紀』の採る「1代」も、『古史古伝』の採る「73代」(あるいは「51代」)も、どちらの記述もある意味では「正しかった」のです。その「答え」を書く前に、少々、回り道になりますが、モンゴル帝国について書いてみたいと思います。モンゴル帝国は初代チンギス・ハーン(太祖)が帝国を創始してから、オゴタイ(太宗)、グユック(定宗)、モンケ(憲宗)を経て、フビライ・ハーン(世祖)の時、支那を征服し、国号を従来の「モンゴル」から支那風の「元」に改めました。つまり、支那の歴史から見れば、初代(元朝)皇帝はフビライ・ハーンと言う事になります。しかし一般的には、支那を実効支配していないにも関わらず、フビライ・ハーンの祖父、チンギス・ハーンを初代として扱います(清朝も支那全土を征服したのは第4代康煕帝の時)。さて、ここで再び「ウガヤ朝」に話を戻しましょう。ひょっとしたら、モンゴル帝国・元朝と同様に、「ウガヤ朝」も「海外王朝」だったのではないでしょうか? つまり、『記紀』が採る「1代」は、日本を「実効支配」した王の代数で、『古史古伝』が採る「73代」(あるいは「51代」)は、「海外王朝」時代も含めた代数だったのではないでしょうか? 又、「ウガヤ朝」全期を通じての文化・事績が日本を実効支配した最後の王一代のものだったとしたら、これも辻褄(つじつま)が合います。
海外時代 (72代) |
日本時代 (1代) |
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最後に「ウガヤ朝」とは何だったのか? これについて書いてみたいと思います。日本の正統史書−官製史書や支那の歴史書等にも登場しない「謎の王朝」ですが、「手掛かり」はあります。それは、支那に古来より伝わる「泰山信仰」です。泰山とは、支那の山東省(北に渤海湾、東に黄海を望む半島で、古代、「魯」の国と呼ばれた)西部に聳(そび)える標高1524mの聖山で、古代より信仰の対象として尊崇されており、秦の始皇帝をはじめとして支那の名だたる皇帝達が、度々「泰山封禅」と呼ばれる儀式を執り行った事で知られています。この泰山には、ある伝説が残されています。その伝説とは、「泰山七十二聖帝伝説」と呼ばれ、古代支那−漢の時代(前漢:前202-後8,後漢:25-220)迄、泰山の山頂に七十二人の聖帝を祀っていたと言うものです。この聖帝の数「72」と、「ウガヤ朝」の代数「73」(第73代は新王朝を開いた神武天皇なので、実質的には72代)。そう、泰山山頂に祀られていた聖帝こそ、「ウガヤ朝」の歴代天皇だったのではないでしょうか? 又、朝鮮の『古史古伝』共呼ばれる『桓檀古記』に登場する「檀君王朝」(一説に、その末裔が朝鮮半島から日本へ渡海し、神武天皇になった共言われている)も代数や地理的条件から「ウガヤ朝」だった可能性があるのです。(了)
地 域 | 「ウガヤ朝」に対する呼称 |
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日 本 | ウガヤフキアエズ朝(『古史古伝』) |
コリア | 檀君王朝(『桓檀古記』) |
支 那 | 泰山七十二聖帝(泰山伝説) |
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参考文献