Reconsideration of the History
48.チンギス・ハーン恐るべし!! 現代に息づく「帝国」の継承者達 (1999.2.21)

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成吉思汗 の世界には幾つもの強大な「帝国」が誕生しては滅亡していきました。代表的なものとして欧州におけるローマ帝国、中東におけるペルシア帝国、支那における大唐帝国、南米におけるインカ帝国、そして半世紀前、アメリカと真の「世界大戦」(あのドイツ第三帝国でさえ、その作戦領域はせいぜい欧州域内)を戦った大日本帝国・・・しかし、考えてみれば、これらの「帝国」は現代で言えば「地域大国」の域を出ない訳で、真の「世界帝国」と呼べるものは、アレクサンドロス大王(3世)の帝国と、モンゴル帝国(以下、「モンゴル」は「蒙古」と略)だけでした。しかし、アレクサンドロス大王の帝国は僅か一代、しかも短期間に崩壊してしまったので、残る蒙古の後にも、先にも、欧亜(ヨーロッパとアジア。総じて「ユーラシア」と呼ぶ)に跨(またが)る様な広大な版図を支配した「帝国」は存在しませんでした(少なくとも、現在の「歴史」では)。百数十年の世界帝国・蒙古(ここではチンギス・ハン(以下、「成吉思汗」と略)の即位から支那を支配した元朝の崩壊迄(1206-1368)を指す)。その創始者成吉思汗(右肖像画)の残した「遺産」は、その後の歴史に余りにも多くの影響を与えたのです。と言う訳で今回は、現代に迄多大な影響を及ぼした成吉思汗蒙古帝国の「遺産」について書いてみたいと思います。

ず最初に、蒙古帝国時代の欧州人の「価値観」について簡単に触れてみたいと思います。当時の欧州人の蒙古帝国に対する第一の印象は、「畏怖すべき存在」でした。遙か東の彼方から破竹の勢いで進撃し、向かう所敵なし−連戦連勝の精強な軍隊を擁する「異教徒」。彼ら欧州人達には、かつて(西)ローマ帝国を滅亡の縁へと追いやったフン族の再来に映ったのです。現に時の大ハーン(大汗=皇帝)・グユック(貴由)がローマ教皇インノケンティウス4世へ宛てた返書には、教皇の事を「汝」(なんじ)と書き、「日の昇る処より、日の沈む処まで、我が支配すべき土地なり」・「敵対すれば、必ずや滅ぼさん」と「世界征服」を宣言しています。当時の欧州人にとって、「教皇」とは国王を超越した存在−日本で言えば、将軍や諸侯に対する「天皇」と同じだった訳で、この教皇を「汝」と呼び捨てにした事一つとっても、彼ら欧州人達の蒙古に対する驚愕と畏怖の念が汲み取れます。しかし、一方で彼ら(欧州人や支配下に組み入れられた諸民族)は「畏怖の念」と同時に、蒙古に対して強い「憧れ」も抱いたのです。

配者への強い「憧れ」。これは古今東西を問わず、被支配者(国)が支配者(国)に対して、多かれ少なかれ抱く感情です。現に現代日本がそうです。戦勝国・アメリカは「憎き敵・鬼畜米英」だった筈です。しかし、終戦と共に価値観がガラリと変わり、文化や生活習慣のあちらこちらに、かつての敵だった「アメリカ」が顔を覗かせています。当時も同様に、「畏怖すべき存在」であるにも関わらず、それと同時に蒙古への強い「憧れ」があったのです。例えば、ファッション。上流階級等はこぞって蒙古風の服装を好みました。つまり、時代の最先端−最新モードは「蒙古」だった訳です。更に、諸侯の中には蒙古語で「王」を表す「ハーン」(汗)の称号を名乗る者まで現れました。そして、その最たるものがルーシと呼ばれた当時のロシアだったのです。

イヴァン3世 吉思汗の長子・ジョチ(朮赤)とその子バトゥ(抜都)によって、ロシアに築かれたキプチャク・ハン国(以下、「欽察汗国」と略)。この欽察汗国によってロシアが支配された時代を一般に「韃靼の軛」(タタールのくびき)と呼ぶのですが、この時代にロシアは「蒙古化」され(欧州文化と蒙古文化の融合)、西欧とは異なる独特な「ロシア文化」を醸成していったのです。そのロシアにあって中心的な役割を演じたモスクワ大公・イヴァン3世(右肖像画)が父祖の遺志であったロシア統一を成し遂げ、1480年、蒙古から遂に「独立」を果たします。その(イヴァン3世)が称した称号は「ツァガン・ハーン」(「白い皇帝」の意味)だったのです。これは、当時、弱体と混乱の内にあった欽察汗国(群雄が割拠し、もはや統一国家とは呼べない状況にあった)−つまりは蒙古の「帝位」を継承する「意志」の表明だったのではないでしょうか? だからこそ、ロシア人にも関わらず、敢えて蒙古語である「ハーン」を称したのです。その後、イヴァン3世は、オスマン・トルコ帝国によって滅ぼされたビザンチン帝国(東ローマ帝国)の皇女ゾーヤ・パレオローグと結婚し、ビザンチンの「帝位」をも継承。1917年のロシア革命によってニコライ2世が退位する迄続く「ツァーリ」(皇帝)の称号を初めて称し、ロシア帝国の礎を築いたのです。

イヴァン3世はモンゴルとビザンチンの帝位を継承した?

モスクワ大公・イヴァン3世
(ロシアのツァーリ)
モンゴル帝位
(キプチャクの汗位)
ビザンチン帝位

の後、ロシアは旧・欽察汗国領に分立した蒙古系諸国を次々と併合し、東へ東へと領土を拡張していった事は周知の通りです。そして、この領土拡張政策は、ロシア帝国が革命により崩壊し、ソヴィエト連邦が成立した後も踏襲されました。

ロシアは「モンゴル帝国」を継承した?

ルーシ諸公国─(韃靼の軛)─ロシア帝国─ソヴィエト連邦─ロシア連邦
         ↑      
モンゴル帝国─キプチャク汗国──┘

しかし、この蒙古帝国を「継承」した国家はロシア(及びその後継であるソ連)だけでは無かったのです。

古帝国を継承したもう一つの国家。それは支那でした。フビライ(以下、「忽必烈」と略)が大汗となり、支那を征服、国号を「大元」と定めた時、蒙古帝国の中心は北方の故郷・蒙古平原から支那本土へと遷ったのです。忽必烈の建てた元王朝は1368年、新たに成立した明王朝によって、支那本土を逐(お)われ、再び北方の故郷・蒙古平原へと還(かえ)っていきました。しかし、「蒙古帝国」は決して滅んだ訳では無かったのです。故郷へと還っていった元王朝「北元」と呼ばれ、明代(明王朝の時代)を通じて常に北方に存在しました。つまり、「明代」とは、南の明王朝と北の北元とが並立する時代−言い換えれば、「南北朝時代」だったのです。

「明代」とは支那における南北朝時代だった?

北元(モンゴル帝国)
(漢人国家)

の様に、蒙古帝国は支那本土の領土を失った後も故郷の地に「北元」として存続しました。この「北元」時代、彼ら蒙古人の中には満州人と混血する者も現れました。そして、それは王族でも変わりありませんでした。そんな中、明王朝に反旗を翻した一人の満州人が現れました。彼の名はアイシンギョロ・ヌルハチ(愛新覚羅-弩爾哈斉)。後に清の太祖と呼ばれる事となる清王朝の創始者ですが、彼も又、蒙古人の血を引く満州人だったのです。

1635年、清朝第2代大汗・太宗ホンタイジ(皇太極)は、遂に一つの貴重な「宝」を掌中にします。それは、代々の蒙古皇帝に継承されてきた蒙古皇帝である証(あかし)−「元朝伝国璽」(げんちょう-でんこくのじ)でした。そして、この「元朝伝国璽」を根拠に、彼(皇太極)は満州人・蒙古人・漢人の三民族に君臨する「皇帝」に即位し、国号をそれ迄の「後金」(満州)から「大清」に変えました。この瞬間、「蒙古帝国」は満州人によって継承され、「清朝」が成立したのです。

清朝は「モンゴル帝国」を継承した

清 朝
(清朝皇帝は満州の皇帝であると同時に、蒙古と支那の皇帝をも兼任)
蒙古人
(準支配階級)
満州人
(支配階級)
漢 人
(被支配階級)

1912年、清朝は辛亥革命によって崩壊。支那(漢人)は満州人(と準支配階級である蒙古人)の支配から「独立」しました。この時、支那には統一国家の体をなしていない「中華民国」が成立したのですが、彼ら漢人達は蒙古人元朝と満州人清朝による支配の中で、とんでもない「妄想」(と言うよりも、「勘違い」と言った方が正しい?)を抱いてしまったのです。その「妄想」とは何と、

支那はモンゴル「帝国の正統な継承者」

と言うものです。これがどの様な事かと言うと、

支那は蒙古人(元朝)に支配された
     ↓
支那は蒙古人の支配から「独立」した
     ↓
蒙古皇帝の証「元朝伝国璽」を清の太宗が入手清朝蒙古「帝国」を相続)
     ↓
支那は満州人(清朝)に支配された
     ↓
支那は満州人の支配から「独立」した
     ↓
独立した支那は清朝の正統な「後継者」である(勝手な思い込み)
     ↓
故に、支那は清朝の「領土」も継承した(物凄い思い込み)
     ↓
つまり、満州も蒙古もティベットもウイグルも、全て支那の「領土」である!!(とんでもない思い込み)

と言うもので、恐ろしい事にこの「妄想」は、現在も「常識」として支那支配層の政治思想を支配しているのです。

支那支配層の政治思想を支配する「常識」?

支那:唐─五代十国─北宋─南宋─┐┌明─┬南明┐┌中華民国┬中華人民共和国
                ││  │  │    │
蒙古:  遼─────┐ 蒙古─元┼北元┤  │    │
           │    ││    │    │
満州:        金────┘└女真┴清─┴┴─満州国┘

吉思汗が没して約800年。一説に奥州平泉は衣川に自刃したとされる源義経が北海道・樺太(サハリン)・満州を経て蒙古に入り、成吉思汗になった共言われていますが・・・もしも、これが事実だとすれば、現在に至る迄、ロシア、そして支那の思想を支配する蒙古帝国の「幻影」は、日本人が種を蒔いた事になるのです。それにしても、没後800年を経て今尚、影響を及ぼす成吉思汗。正に「恐るべし」の一言です。


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