Reconsideration of the History
116.謝罪を求める「中国」、謝罪をしない「中国」 (2003.1.7)

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「歴史を鑑(かがみ)に」・「正しい歴史認識」とは、現在の支那指導部が日本に対して事ある毎に繰り返す常套句です。又、中国侵略日本軍南京大屠殺遭難同胞紀念館(南京大虐殺記念館)の朱成山館長も、

「日本は南京大虐殺等過去(の歴史)を否定する事で、過去を反省しない印象を与えている。その歴史認識が隣国との交流や日本の経済発展を阻害している」
と発言、日本の過去の歴史を批判した上で、「正しい歴史認識」を求めてきました。しかし、私はちょっと待てよ!!と反論したい。「正しい歴史認識」が求められているのは、本当に日本側なのか? 支那こそ「歴史を鑑に」反省・謝罪すべきでは無いのか? と言う訳で今回は、平素、日本を糾弾して止まない支那に対して、「歴史を鑑に」批判を加えてみたいと思います。

和12(1937)年7月7日の廬溝橋事件に端を発し、昭和20(1945)年8月15日の終戦に至る間、日支両軍によって戦われた戦争は、一般に「支那事変」(日華事変・日中戦争)と呼ばれています。その間、およそ8年。中には、昭和6(1931)年9月18日に勃発した「満州事変」から数え始め、「十五年戦争」と総称する人もいますが、いずれにせよ日本が支那と事を構えた時間は、百年にも満たないのです。つまり、現在の支那は、どんなに多く見積もっても、せいぜい十数年程度の事で、戦後半世紀以上も日本に対して「因縁」を付けてきたと言う訳です。(何故、「因縁を付けてきた」と書いたのかについては、従前のコラムをお読み頂ければ、ご理解頂けるものと思います) それでは、対する支那は一体どうなのか? 「日本帝国主義」等足元にも及ばない凄い「歴史」を持っていたのです。

は前漢の元鼎5(紀元前111)年。この年、前漢の武帝は軍に命じて一つの国を攻め滅ぼしました。その国の名は「南越」。秦朝末期の紀元前207年、漢人の趙佗が南越武帝と称して秦から独立、番禺(現在の広東省広州市)を首都に現在の広東省からベトナム(以下、「越南」と略)北部にかけての地域を領有した漢人と越人からなる混成国家です。その南越国が前漢によって滅ぼされ、交趾・九真・日南と言った諸郡が設置されたのです。その後、越南は、後漢の建武16(紀元後40)年の徴(チュン)姉妹による独立闘争(対漢反乱)や、支那の南北朝時代から隋代にかけて、李賁(リー=ボン:前李南帝 リーナムデ)・李仏子(リー=ファット=トゥ:後李南帝)一族によって、一時的に南越(ナムベト)国が再興された時期もありましたが、概ね支那歴代王朝による支配を受け、独立の萌芽が見られたのは、土豪の曲承裕(クック=トゥア=ドゥ)が静海軍節度使に任ぜられた唐朝末期の天佑3(906)年の事なのです。そして、越南が支那から完全独立を勝ち取ったのは939年。前年に、南漢(現在の広東省を領有)軍を撃破した呉権(ゴー=クェン)が王を称し、ここに越南初の独立王朝・呉朝(939-967)が成立したのです。越南では、前漢による南越国征服 ── 支那支配から、呉朝成立 ── 越南独立迄を「北属期」(北方=支那に従属していた期間)と呼んでいるのですが、その間、実に一千年。支那による越南支配に比べれば、支那事変における日本軍の大陸進出等、ほんの一瞬の出来事でしか無いのです。

属期の越南支配において、唐の調露元(679)年に安南都護府が設置された事は比較的知られていますが、越南独立後も支那は事ある毎に干渉を繰り返しました。例えば、北宋の太平興国6(981)年、前年に成立したばかりの新王朝・前黎(レ)朝大瞿越(ダイクベト)国(980-1009)に対して干渉軍を派遣、白藤江(バクダン川)で大敗を喫し、やむなく大行皇帝・黎桓(レ=ホアン)を「南平王」に冊封すると言う形で、越南を形式上の属国にしましたし、明の建文2(1400)年、胡季「未+の文+雁だれ+牛」(ホー=クイ=リィ)が陳(チャン)朝(1225-1400)を滅ぼし、新たに胡朝大虞(ダイグ)国が成立した際、明は越南の混乱に乗じて侵略し、永楽5(1407)年、胡朝を滅ぼして交趾布政司を設置、越南を再び支配下に置いたのです。

トナムが支那から再独立したのは、明の宣徳3(1428)年。永楽16(1418)年、明の直接支配に対して、有力土豪の黎利(レ=ロイ)が反旗を翻し、次々と明軍を撃破。宣徳3年、明軍を全面撤退させた黎利は皇帝に即位し後黎朝大越(ダイベト)国が成立、再び独立を勝ち取ったのです。その後、支那は越南に対する直接支配は諦めますが、「冊封」を通して属国扱い ── 間接支配と言う形で引き続き干渉し続けたのです。まあ、越南文化や政治体制が多分に支那の影響を色濃く反映してきた事は紛れもない事実ですから、一概に否定する事は出来ないとは思います。しかし、支那が一千年にも及んだ北属期以後も、事ある毎に軍隊を派遣し、時として直接支配をしてきた歴史は紛れもない「侵略行為」です。又、日本が朝鮮・台湾に設置した総督府が「侵略行為」の一環だと言うのであるならば、唐が設置した安南都護府や、明が設置した交趾布政司も、立派な「侵略行為」の産物と言える筈です。

の様に、越南を例に支那による「侵略支配」を見てきた訳ですが、支那は千年以上も侵略支配してきた越南に対して、只の一言も「謝罪」をしていませんし、当然ながら「補償」も行ってはいません。いや、「謝罪」や「補償」以前に、日本に対して幾度と無く要求してきた「反省」を、支那は越南に対して一度たりとも表明してはいません。それどころか支那は、国境確定交渉での対立と、1978年、越南軍(とそれに支援されたヘン=サムリン軍)のカンボジア侵攻によって自らが支援してきたポル=ポト政権が打倒されるに及んで、1979年2月、50万人にも及ぶ大兵力を以て越南北東部へ軍事侵攻しており(中越戦争)、後に最高実力者となった「トウ」小平は、この時、

ベトナムを懲罰してやる!!

と発言しているのです。繰り返しますが「懲罰」です。

懲罰(ちょうばつ) 将来を戒める為に、罰を課する事。 (『広辞苑』より)
そこには「反省」等、微塵も感じられません。あるのは、れっきとした「独立国」である越南に対して、過去の支配以来醸成されてきた「宗主国」然とした尊大且つ傲慢な感覚だけです。その様な国「中国」(支那)に、日本が「歴史を鑑に」・「正しい歴史」等と、今以て「因縁」を付けられている事自体、不快この上無い事です。と同時に、「中国」に媚び諂(へつら)い、「中国」の主張をなすがままに受け入れ、闇雲に祖国である日本を貶(おとし)める様な言動や運動にばかり熱心な「反日日本人」(団体や勢力)に対しては、

謝罪を求める「中国」は、謝罪をしない「中国」でもある

と言ってやりたいですね。

ベトナム略年表(南越滅亡から阮朝成立まで)
年次 歴史的事績
前111 前漢が南越(広州)を滅ぼし併合
後 40 徴側・徴弐姉妹を指導者に南越が後漢から独立(43年、崩壊)
178 交趾(越南)が後漢に反旗を翻す
181 交趾の梁龍らが反乱を起こすが鎮圧される
264 呉(三国)が交趾郡を広州・交州に分割
541 李賁が梁(南朝)に反旗を翻す
544 李賁が南越帝(前李南帝)を称して即位
549 趙光復が越王(趙越王)に即位し、梁軍に勝利
571 李仏子(後李南帝)が趙越王から南越帝位を奪う
602 後李南帝が隋軍に敗退
622 唐が越南に交州大総管府を設置
679 唐が交州大総管府を安南都護府に改称
722 枚黒席の乱(唐によって鎮圧される)
791 馮興・馮安の乱
906 曲承裕が静海軍節度使となり、以後三代にわたって曲氏が世襲
923 曲承美が南漢(広州)軍に捕らえられ曲氏滅亡
931 曲氏の旧将・楊廷藝が南漢軍を破り、節度使を称する
938 楊氏の旧将・呉権が南漢軍を破り、越南が支那の支配から離脱
939 呉権(前呉王)の即位:呉朝の成立
966 十二使君時代が始まる(〜967)
968 丁部領(先皇帝)の即位:丁朝大瞿越の成立
980 黎桓(大行皇帝)の即位:前黎朝大瞿越の成立
997 北宋が黎桓を南平王に冊封
1009 李公蘊(太祖)の即位:李朝大越の成立
1010 北宋が李公蘊を交趾郡王に冊封
1225 「日+巨+火」(太宗)の即位:陳朝大越の成立
1258 元軍が越南に侵攻
1400 胡季「未+の文+雁だれ+牛」が帝位を簒奪、国を大虞と号する
1406 明軍が越南に侵攻し、東都・西都が陥落
1407 明軍が胡季「未+の文+雁だれ+牛」父子を捕らえ、交趾布政司を設置
1414 明軍が後陳朝の陳季拡(重光帝)を捕らえる
1418 明の支配に対して黎利が反乱を起こす
1427 明軍が黎利と和睦し、越南から軍を撤退
1428 黎利(太祖)の即位:後黎朝大越の成立
1431 明が黎利を権署安南国事に冊封
1436 明が黎麟(太宗)を安南国王に冊封
1527 莫登庸(太祖)が帝位を簒奪:莫朝安南の成立(〜1677)
1532 「さんずい+金」が黎寧(荘宗)を奉じて後黎朝を再興
1541 莫登庸が明に降り、安南都統使に任ぜられる(以後、莫氏が世襲)
1557 阮(広南朝)・鄭の有力二氏の対立始まる
1597 明が黎維潭(黎世宗)を安南都統使に任ずる
1729 鄭氏が実権を掌握、後黎朝皇帝の廃立を思うままに行う(〜1740)
1771 西山(タイソン)党の乱起こる(西山朝:〜1802)
1777 広南朝の滅亡(1780年、阮福暎が再興)
1786 西山党がユエとハノイを攻略、鄭氏が滅亡
1787 阮福暎が西山軍と交戦 西山党の阮文岳が中央皇帝と称す
1788 清軍が越南に出征しハノイに入城、黎維「示+おおざと」を安南国王に冊封
西山朝の阮文恵がユエで即位(光中帝)
1789 清が阮文恵改め光平を安南国王に冊封 後黎朝の滅亡
1790 安南国王・阮光平が北京に入貢
1793 清が阮光平の子・光纉を安南国王に冊封
1802 阮福暎(嘉隆帝)が即位し、阮朝大越南が成立


   余談(つれづれ)

2002(平成14)年2月末、支那共産党総書記兼国家主席の江沢民が越南を訪問、ノン=ドク=マイン越南共産党書記長等指導部と会談した際、1979(昭和54)年の所謂「中越戦争」について、越南の高校歴史教科書・越南共産党史等での記載を、「友好的な記述」に改めるよう要請。(2002年3月17日付 ハノイ発 共同通信)

何でも、共産党一党支配体制を堅持しつつ市場経済化を進める両国が、グローバル化が進む世界の中で歴史的経緯から引きずっている「わだかまり」に区切りをつけ、両国民の意識面でも連携強化を図る支那の狙いがあると見られる・・・との事だが、ちょっと待って欲しい。日本に対しては「被害者」面して、事ある毎に「歴史を鑑に」と発言し、反省と謝罪を繰り返し要求してきた江沢民が、「中越戦争」においては「加害者」である自国(支那)の立場を棚に上げて、「被害者」である越南に対して、歴史教科書の記述について修正要請をするとは開いた口が塞がらない。と同時に、これが左翼・「反日日本人」が傾倒し賛美してきた「中国」の真実でもある。そろそろ、いい加減、日本政府も外務省も支那の本質を見極め、支那の不当な物言いに対しては、はっきりと「NO」と言うべきではないだろうか?(了)


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