Reconsideration of the History
44.「南進論」と「北進論」に垣間見えた日本人の深層無意識 (1999.12.22)

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の大戦(ここでは、満州事変より大東亜戦争までを対象とします)の敗因の一つとして、よく耳にするのが軍部内の方針対立です。主として陸軍が推進した「北進論」と、海軍が推進した「南進論」がそれです。つまり、日本は南北双方(更には東西へも)へと勢力を拡大した結果、軍事力を分散させる羽目となり、更に、石原莞爾将軍が言う所の「攻勢終末点」を見誤った為、敗北してしまったのです。では、なぜ軍部−いや、当時の日本は軍事力が分散するのを分かっていながら、南北双方へと勢力を拡大したのでしょうか? 一般に言われる陸・海両軍の方針対立や、「時勢」だけでは説明がつかない様に思うのです。そこには、もっと深い「何か」(他の力)が働いていたのではないでしょうか? と言う訳で、今回はその「何か」について考えてみたいと思います。それでは、まず「南進論」と「北進論」について簡単に触れてみましょう。

「南進論」。これは明治以降、日本の国家的対外進出を南方地域に求めた政策です。ここで言う「南方」とは、台湾・東南アジアから、ポリネシア・ミクロネシア・メラネシアと言った「大南洋」を指しています。

日本の南進政策

年次 進出地域
1879.4 琉球併合(沖縄県設置)
1894.8 日清戦争 〜1895.3
1895.6 台湾(戦時賠償として、清国より割譲)
1896.9 中国沿海部(浙江・福建両省 租界の設置)
1914.3 対独宣戦布告(第一次世界大戦に参戦)
1914.10 南洋群島(ドイツ領 後に、国際連盟より統治を委任)
1940.9 北ベトナム・ラオス(北部仏印進駐)
1941.7 南ベトナム・カンボジア(南部仏印進駐)
1941.12 ハワイ真珠湾攻撃(大東亜戦争開戦 〜1945.8)
1942.1 フィリピン(アメリカ領)
1942.2 マレー半島(イギリス領マラヤ・シンガポール)
1942.3 インドネシア(オランダ領東インド)
1942.3 ミャンマー(イギリス領ビルマ)
1942.4 ニューギニア北部(オランダ領)

この「南進論」は、田口卯吉・萱沼貞風等民間の論客が唱え始めたものです。しかし、日清戦争(1894〜1895)勝利の結果、台湾が清国より「割譲」される『4.台湾は中国の一部ではない!』と、政府はそこを拠点に、対外進出政策の基本方針として、正式に「南進論」を採用しました。その後、「南進論」は、国際連盟より統治を委任された南洋群島−いわゆる「大南洋」統治の関係から、主として海軍によって推進されました。

方、「北進論」は、ロシア帝国による「南下政策」(シベリア→満州・モンゴル→朝鮮半島→日本)に危機感を抱いた論客によって唱えられたもので、日露戦争(1904〜1905)勝利の結果『39.アジア解放の端緒〜日露戦争の歴史的意義』、関東州租借地(遼東半島の要衝、旅順・大連等)・南満州鉄道(満州)・南樺太(サハリン南部)がロシアより移譲されたのを契機として、主に陸軍によって推進されたものです。この「北進論」は、関東州、更に満州全域に駐留した陸軍「関東軍」(1919年独立編成)が、軍中央の統制から半独立し、独断で満州事変(1931.9)を起こした辺りから急速に推進され、ラストエンペラー清朝最後の皇帝・宣統帝)を皇帝(当初は「執政」)に迎えての「満州国」建国(1932.3)『2.ラストエンペラー(愛新覚羅溥儀)は本当に戦犯か?』へと繋がっていったのです。

日本の北進政策

年次 進出地域
1894.8 日清戦争 〜1895.3
:韓国(朝鮮半島)の権益を巡って、日両国が激突。日本の勝利によって、清国は韓国に対する宗主権を喪失
1904.2 日露戦争 〜1905.9
:満州の権益を巡って、日露両国が激突。日本の勝利によって、ロシアは満州に対する権益を放棄
1904.8 第一次日韓協約
:韓国政府は日本政府の推薦する財政・外交顧問を採用し、重要外交案件は日本政府と協議し決定する
1905.9 関東州・満州・南樺太(日露戦争の戦時賠償として、ロシアより移譲)
1905.11 第二次日韓協約(韓国保護条約)
:日本が韓国の外交権を握り、京城(ソウル)に駐在する統監が一切の外交事務を統括する−韓国の保護国化
1907.7 第三次日韓協約
:ハーグ密使事件を機に時の韓国皇帝(高宗李太王)を退位させた直後に調印。韓国の内政権は統監の指導監督下に置かれ、法令制定、重要行政決定、高級官吏の任免は、統監の承認・同意を必要とし、統監の推薦する日本人を韓国官吏に任命し統監の同意のない外国人雇用は禁止する。更に韓国軍の解散がなされた
1910.8 韓国併合(日韓合併条約調印)
1917.1 ロシア革命(ソヴィエト政権成立)
1918.8 シベリア出兵(ロシア革命に伴い、「白軍」支援の名目で、列強諸国と共に出兵)
1928.6 満州某重大事件
:満州全域を事実上支配していた奉天派軍閥の首魁・張作霖を関東軍が爆殺
1931.9 満州事変
:関東軍(日本)による満州全土の実効支配
1932.3 満州国建国(〜1945.8)
1936.11 綏遠事件
:関東軍の支援を受けた徳王の内蒙古軍が綏遠省(オルドス)に侵攻したが、中国・国民党軍に撃退された
1939.5 ノモンハン事件(ハルハ河会戦)
:モンゴル人民共和国(外蒙古)・満州国境での、日ソ両軍による軍事衝突。結果は機械化部隊を擁するソ連陸軍に、精鋭を誇った関東軍が大敗し、軍部内の「対ソ開戦論」は大きく後退した
1939.9 蒙古連合自治政府樹立
1941.7 関東軍特別大演習(関特演)
:大本営発動により、満州に陸軍兵力70万人の大軍を集結させた。表向きは「演習」だが、実態は独ソ戦開始に伴い、来るべき対ソ戦に対する準備だった
1941 蒙古自治邦(内モンゴルの自治国化)
1941.12 ハワイ真珠湾攻撃(大東亜戦争開戦 〜1945.8)

て、冒頭の命題に戻りましょう。「南進論」と「北進論」へと誘(いざな)った「何か」ですが、私はユングやフロイト等(心理学者)が言う所の「集団的深層無意識」だったのではないかと思うのです。つまり、「日本人」と言う民族共同体の心の奥底に眠っていた「あるもの」が「覚醒」したのではないかと。その「あるもの」とは、日本人のルーツ−つまり、原郷への憧憬だったのではないでしょうか?

本人は様々な場所からやって来た人達(移民)による「合衆国」です『43.「大和民族」等幻想の産物だ!! 「日本合衆国」のススメ』。例えば、「縄文人」と「弥生人」。「彼ら」は、ルーツを異とする人種でしたが、日本列島という「空間」で混血し、現在の「日本人」となった訳です。するとどうでしょう。「南進論」と「北進論」と言う相反する「国策」を推進させた「集団的深層無意識」の正体も見えてくるのです。つまり、こう言う事だったのではないでしょうか?

大日本帝国えた相反するつの国策
「南 進 論」 「北 進 論」
南方(海洋)への執着 北方(大陸)への執着
祖先が南方の出自
(琉球・台湾・東南アジア・オセアニア etc.)
祖先が北方の出自
(朝鮮・満州・モンゴル etc.)

「集団的深層無意識」や「心理学」と言った類(ティベットにおける「転生ラマ」等にも言えるが、何しろ科学では「証明」しようがないですからね・・・)を信用されない方は仕方ありませんが、少なく共、私自身はこれが、相反する二つの国策を推進した「原動力」ではなかったかと思うのです。


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