Reconsideration of the History
4.台湾は中国の一部ではない! (1997.3.8)

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1996年。ある意味で、台湾にとって大きな年だったのではないでしょうか? 第一に中国海軍による台湾海峡での軍事演習。第二に史上初めての台湾総統直接選挙。蒋介石総統率いる中国国民党政権が台湾に進駐し、「中華民国」台湾政府を樹立してからはや半世紀。「一つの中国」を声高に叫ぶ中国政府、「一つの中国・一つの台湾」を標榜する初の「民選総統」李登輝。果たして、台湾は中国の一部なのでしょうか? それとも・・・

李登輝
▲台湾初の民選総統・李登輝

ず、台湾の歴史から見てみましょう。台湾が中国史に初めて登場するのは隋の時代。610年、隋が「流求国」を討ったと言う記事が史書に残っているのですが、この「流求国」が台湾の事だと言われています。しかし、その一件だけで台湾は中国史に登場しません。台湾が歴史の舞台に再び登場したのは、それから9世紀ものち、大航海時代まっただ中の1544年の事です。インドのゴアを占領し、マラッカ海峡を制し、マカオを占拠したポルトガル船によって台湾は「発見」されました。台湾を「発見」した船員が「ILHA FORMOSA!(イラ・フォルモサ)」(麗しき島)と感嘆したところから、欧米では現在でも、台湾を「フォルモサ」と呼ぶ事がしばしばあります。そして、このポルトガルによる台湾の「発見」が皮肉にも、台湾の他国支配の始まりだったのです。更に悲劇だったのは、「台湾」と言う名も悲劇でした。かつて、台南付近にいたシラヤ族は、移住民や外来者を「タイアン」(客人)と称していたのですが、皮肉にも、台湾はその「客人」達によって現在に至るまで支配される事となるのです。

ーロッパ勢力による支配は、1624年、オランダ艦隊による台湾南部・安平(台南付近)への上陸を皮切りに、1626年には、スペイン艦隊が台湾北部・三貂角(サンティアゴ岬)・基隆(鶏籠)に上陸し、台湾は南部をオランダが、北部をスペインが分割支配する事になりました。当時の台湾はマレー・ポリネシア系諸部族(大多数)と大陸から移住してきた中国人(主に官憲の追跡を逃れてきた犯罪者等)が住んでいたのですが、部族数が多かった事、言語・風俗習慣等部族ごとに独自な社会を形成していた事等から、台湾全島を統一するような政権が誕生せず、それが災いして、ヨーロッパ勢力に対抗できなかった訳です。ちなみに、戦国日本を統一した「関白」豊臣秀吉も台湾に注目し、1593年、原田孫七郎を使者に、入貢(要は日本の属国になるようにと言う内容)を促す書簡を、「高山国」(台湾)の「王」に届けさせようとしましたが、前述のように、「統一」されておらず、しかも「国王」もいなかったので、結局、実現せずじまいに終わりました。その後、台湾は北部を支配していたスペインが撤退し、オランダによる全島支配が完成すると、従来以上の過酷な植民地支配に住民は苦しめられました。そんな中、新たな「支配者」が登場します。そして、そのきっかけは意外な所に端を発していました。

州に勃興した清朝の南下により、押されつつあった明王朝は、1628年、東シナ海沿岸の海賊衆の首領鄭芝龍に兵力と軍資金を与え、清軍撃滅を要請しました。鄭芝龍には、長崎平戸に滞在中、日本人女性との間に「福松」と言う名の男子をもうけました。この「福松」、のちの「鄭成功」こそ、台湾の新たな「支配者」となるのです。明王朝は、1644年、最後の皇帝崇禎帝が自決し、ここに明の時代は終わりを告げます。こののち、約20年、明王室に連なる王子が相次いで「皇帝」を称しますが、これが「南明」と呼ばれる地方政権です。そして、南明政権を支援したのが鄭成功でした。しかし、南明政権は中国本土の要衝を次々と攻略した清朝に抗すべくもなく、1661年、滅亡します。主(皇帝)を失った鄭成功は明王朝復興の悲願を胸に、大陸の拠点を撤退し、新たな拠点に移ります。それが台湾だったのです。

1661年、鄭成功は大軍をもって台湾に侵攻しました。オランダの台湾長官はバタビアの東インド会社に救援を求めますが、積年の圧政に苦しめられていた住民が鄭成功の軍を支持したので、翌年、オランダ軍は降服し、ここにヨーロッパ人による支配に終止符が打たれました。その後、台湾は、鄭成功より三代にわたって鄭氏による支配が続きましたが、1683年、清朝に降服し、鄭氏政権も終わりを告げます。台湾を明王朝は領有しませんでしたが、清朝は領有しました。しかし、清朝は消極的支配に徹しました。ですから、台湾は近代に至るまであまり開発されませんでした。その台湾が急速な近代化を遂げたのが、日本による統治時代でした。

1895年、日清戦争の終結により、台湾は清朝から日本に「割譲」されました。直ちに日本は「台湾総督府」を設置し、植民地支配を開始します。ちなみに台湾「総督府」の庁舎は、台湾「総統府」として今なお、台湾行政の中心に位置しています。この辺は、撤去解体の運命をたどった「朝鮮総督府」とは対照的です。日本統治下の台湾は、「土皇帝」の別称を持つ歴代台湾総督による独裁政治が続きました。しかし、この間に台湾はインフラの整備が進み、急速な近代化を遂げるのです。そして、終戦時、日本本土が至る所焦土と化したのに対し、台湾はほとんど戦争被害を受けませんでした。更に、日本統治時代、多部族・多言語だった台湾に「日本語」教育が導入されため、部族間の「公用語」として日本語が通用するようになり、ひいては、「台湾人」としての共通意識が醸成されていきました。つまり、現在の台湾の発展の基礎は、皮肉にも日本統治時代に整備されたと言えます。

1945年、日本は終戦に際して台湾を放棄しました。つまり、植民地支配を脱して、台湾は「独立」する好機が訪れたのです。この時、台湾軍(旧日本陸軍)参謀らは台湾財界人の一部と共に、「台湾独立計画」を企図していましたが、遂にこれは実現しませんでした。1661年、大陸から鄭成功が大陸への反攻の拠点として台湾に進駐したのと同じく、蒋介石率いる国民党が共産党への反攻の拠点として台湾に進駐してきたからです。そして、国民党による独裁政治から早半世紀。二代にわたる蒋氏支配のあとを受けて、台湾人の李登輝が総統に就任しました。

登輝総統は、表向き「台湾独立」とは口にしませんが、行動を見れば一目瞭然です。明らかに「中華民国 台湾」から「台湾共和国」への脱皮を図ろうとしています。これが、台湾の「領有権」を主張する中国を刺激して、昨年の台湾海峡での軍事演習に繋がった訳ですが、ここまで、お読みになって、もう、お分かりでしょう。明の時代、中国(明)は台湾を領有しませんでした。次の清朝は台湾を領有しましたが、清朝は満州人が中国を「征服」して建てた国なので、中国が領有していた訳ではありません(満州が領有していたと言うのなら、話は別)。その清朝は日清戦争に負けた際、台湾を日本に「割譲」しました。ここまで見てくると、中国が台湾を「領有」した事実は一切ありません。つまり、中国の「領有権」主張は、不当なものなのです。


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