Reconsideration of the History
2.ラストエンペラー(愛新覚羅溥儀)は本当に戦犯か? (1997.2.21)

前のページ 次のページ


愛新覚羅溥儀(満州国皇帝時代) 1959年、一人の男性が中国は撫順刑務所を出所しました。彼の名は愛新覚羅溥儀。ベルナルド・ベルトリッチ監督の映画「ラストエンペラー」の主人公その人です。

は戦時中、日本の建設した「傀儡国家」満州国の皇帝として国家(中国)に反逆し、中国人民を抑圧したと言う理由で、1950年、「戦犯」として、中国共産党によって撫順刑務所へ送られました。そこで、「思想再教育」を受け、1959年、「特赦」により出所したのです。しかし、彼は本当に中国国家に対する「反逆者」であったのでしょうか?

は1906年、当時の清朝の皇族として生を受けました。そして、3才の時、かの西太后の指名により、清朝最後の皇帝(宣統帝)に即位します。しかし、1912年、孫文等の辛亥革命により退位、清朝は滅亡してしまいました。その後、馮玉祥により紫禁城を追われ、北京の日本公使館から天津租界へと移り、満州事変後、日本軍によって、長春(新京)に迎えられ、1932年、満州国の執政(国家元首)に就任します。更に1934年には、1912年以来、再び皇帝(康徳帝)に即位します。ここまででは、彼が「戦犯」だったのかどうか判断を下せません。そこで、「満州国」と言うキーワードでこれを解いてみたいと思います。

州国。この国は満州(現在の「中国東北部」)に戦時中、存在した帝国です。中国はこの満州国を、中国と言う国家を分断し建国した傀儡国家と言う意味で、「偽満州国」と称しています。しかし、中国の主張は正しいのでしょうか? そこで満州の歴史について触れてみます。

州は古くは粛真・女真・女直等と呼ばれ、中世以来、靺鞨渤海と言った北方民族系国家が興亡した地域で、満州と中国本土が統合されたのは、の時代です。では、満州が中国に「併合」されたのかと言いますと、そうではないのです。はモンゴル人が政権を握る国で、当時の中国はモンゴルに「征服」されたと言えます。満州は中国本土同様、モンゴル人に征服された訳で、中国人に征服された訳ではありません。続く明の時代には、政治的・軍事的に明(中国政権)の影響を受けますが、明の領土ではありませんでした。そして、いよいよ清朝の出番です。

は南満州−当時、建州女直と呼ばれていた地域の一部族の王、太祖ヌルハチが、1616年、全満州を統一して建てた国です。その後、清朝は2代太宗ホンタイジの時にモンゴルを併合し、3代世祖順治帝の時に中国本土の征服を開始します。そして、4代聖祖康煕帝の時に中国全土の征服を完成します。つまり、ラストエンペラーに至る清朝とは、満州人が中国本土を「征服」した国だった訳です。その清朝が革命によって滅亡した際、中国本土は「満州」から「独立」したと言えます。

の後、幾多の変遷を経て、ラストエンペラーが満州国を建国する訳です。ここまで読まれた皆さんは、もうお分かりの事と思いますが、ラストエンペラーは満州人として、自らの故郷に独立国を建てただけなのです。満州は古来より一度たりとも中国人に征服された歴史はなく、「国家(中国)の分断」や「中国人民の抑圧」と言った中国側の主張は何一つ当てはまらないのです。つまり、ラストエンペラーは「冤罪」だった訳です。又、終戦のどさくさの中、併合され、「中国東北部」と改称された満州にしても、中国による不法占拠であって、ソ連(現在はロシア連邦)に不法占拠された北方領土と何ら変わらないのです。


前のページ 次のページ