Reconsideration of the History
54.幻に終わった「朝鮮維新」〜甲申政変 日韓裏面史-其の弐-(1999.5.22)

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回のコラム53.朝鮮を独立させたのは「日帝」だった!!李氏朝鮮(以後、李朝と略)の時代遅れの「小中華主義」に触れましたが、問題は更に根深かったのです。コリアは新羅から高麗を経て李朝末期に至る迄、なんと日本の平安時代よろしく両班(ヤンバン)による貴族政治が連綿と続いてきました。このコリア版貴族「両班」ですが、元々は「武班」と「文班」を総称して「両班」と言っていたのですが、「武班」が蔑まれた事も手伝って、「文班」のみをさして「両班」と呼ぶようになりました。現代風に言えば、軍人の地位が低下し、官僚の地位が向上したと言う事になるのでしょうが、これがコリアの近代化を遅らせる大きな遠因となったのです。

班による貴族政治体制は、コリアに封建時代 ── 日本で言えば、戦国時代を招きませんでした。日本や支那の場合にも言えますが、戦国時代は戦乱に明け暮れると言うマイナス面も確かにありますが、それ以上に地方の独自性が顕著に発達すると言うプラス面もあります。しかし、コリアにはとうとう封建時代は訪れませんでした。その結果、恐ろしい程の強固な中央集権体制が完成してしまったのです。現代日本にも言える事ですが、中央集権体制は確かに国土を一元的に管理するのには非常に効率的な政治システムです。しかしそれが長く続くと、弊害として汚職・政治の硬直化等を招くのも確かです。そうです。李朝も末期になると、両班による中央集権体制の弊害がこれでもかと言わんばかりに顕著になっていったのです。

班政治の悪弊。具体的に挙げると、日本では江戸時代に東海道等に代表される街道(現代の国道に相当)が整備されたのに対して、李朝では末期に至る迄、「道」(街道)と言えるものは遂に整備されませんでした。あったのは「径」(こみち:畦道のような細い道)だけです。こんな具合ですから、物資はおろか隣同士の村でさえ、人的な交流はほとんど皆無でした。又、徴税システムが完全に崩壊していました。中央(国王)に納められる筈の税金(及び物品等)のほとんどが途中で消えてしまっていたのです。つまり、中継ぎの役人の手を経る毎に次々と横領されていき、中央に着く時にはそのほとんどが無くなっていたのです。更に、当時の国民のほとんどを占めた農民は、制度化されている税金以外に、当地の役人達が勝手に設ける「私税」をも無理矢理徴収され、現在の北朝鮮よろしく慢性的な食糧不足の中、正に「この世の地獄」を生きていたのです。そこへ現れたのが、明治維新で一足先に近代化の道を歩みだしていた日本の「黒船」だったのです。(詳しくは前回のコラム参照)

華島事件(1875年)日朝修好条規(1876年)を経て新たに始まった日朝関係の中で、腐敗しきった両班を横目に、欧米列強のアジア進出と李朝の現状を直視する若者達が現れたのです。彼ら中堅青年官僚達 ── いわゆる「開化派」(「独立党」共呼ばれ、1874年頃結成)は、日夜権力闘争に明け暮れ、自国李朝が置かれている現状を省みない両班支配体制と、荒廃しきった国土を憂え、更に、いずれは列強の植民地になるだろうと言う危機感の中、その活路を新興国・日本に求めたのです。

「開化派」は、国王・高宗の許可を得て度々日本を訪れました。そして、日本に着いた彼らが目の当たりにしたものは、今迄、「中華」である支那や「小中華」であるコリアよりも「格下」であるとして、侮蔑していた日本の驚くべき発展ぶりでした。そこには、李朝には無いありとあらゆるものがあったのです。たかだか十年前は髷(まげ)を結い、刀を差していた日本人が、今ではアジア一の近代国家へと変貌を遂げている・・・。彼らは日本の現実を目の当たりにした事で、初めて「近代化」の何たるかを知ったのです。そして、彼ら「開化派」は、旧態依然たる「守旧派」が相も変わらず清朝を頼るのに対して、新たなパートナーとして新興国・日本を選んだのです。

金玉均 朝政府内での開化・守旧両派の抗争は次第に激しくなっていきました。守旧派は清朝の「属国」としての立場を堅持するとして、清朝より派遣されているメルレンドルフ等の駐箚官に国政全般の監督を委ね、益々、清朝への依存を深めていきました。一方、開化派は金玉均(キム・オクキュン 写真)をリーダーに、福沢諭吉・井上馨・大隈重信・渋沢栄一・大倉喜八郎・榎本武揚・副島種臣・内田良平等、日本政財界のキーマン達と親交を深め、日本の支援によって李朝の政治体制を変革する ── 李朝版「明治維新」を断行しようとしたのです。

1884(明治17)年12月4日(甲申10月17日)夕刻、高宗の内諾と、日本の軍事支援を受けた金玉均率いる「開化派」は遂に決起しました。世に「甲申(カプシン)政変」と呼ばれるクーデターです。彼ら「開化派」が目指したのは、日本同様に国王を中心に戴く近代立憲君主国家でした。その為、守旧派による国勢専横と、清朝の政治軍事全般に渡る強圧的な干渉に強い不満を持っていた高宗は「開化派」に大きな期待を持っていました。電撃的に断行されたクーデターは日本の2.26事件とは違い、「玉」である国王を手中にしていました。その点、「開化派」にとっては非常に有利だったと言えます。しかし、運命は皮肉なものです。高宗の后である閔妃(明成皇后)等の邪魔、高宗の心変わり(弱気)、そして、最も恐れていた清軍の出動によって、事態は一気に流動化したのです。

「開化派」を支援していた日本でしたが、いざ、クーデターが断行されると二の足を踏みました。その最大の誤算は清仏戦争清朝と仏印=ベトナムとの戦争)の決着でした。「開化派」・日本政府双方共、清仏戦争の継続を望んでいました。清仏戦争さえ続いていれば、いかに清軍とて南北(ベトナムと朝鮮半島)双方に派兵はしないだろうと踏んでいたからです。しかし、清仏戦争の決着によて、清朝はクーデターの漢城(ソウル)に軍を出動させたのです。クーデターには日本軍も開化派兵士として加わっていました。その日本軍と清軍が王宮を舞台に対峙してしまったのです。清朝との前面武力衝突を何としても回避したい日本は、ここでクーデターからの「撤退」をしてしまったのです。日清戦争(1894年)を遡る事十年。日本は、依然腐ってもなおアジアの「超大国」として君臨する清朝との全面戦争はやはり避けたかったのです。富国強兵に邁進しているとは言え、未だ近代化の途上にあった日本にとっては、致し方ない選択だったと言えます。12月7日、「開化派」による新政府は崩壊、親清・事大主義者(守旧派)による臨時政府が樹立され、「維新」は僅か3日で幕を閉じたのです。

うして、コリア版「明治維新」は失敗に終わりました。その結果、李朝は今迄以上に清朝の干渉を受ける事となり、「開化派」が目指した「自主独立」の夢は遂に潰(つい)え去ったのです。その後、コリアは日本・清朝・ロシア三国の係争地となり、日清戦争(1894)・日露戦争(1904〜1905)を経て、1910(明治43)年、遂に「日韓併合」へと至るのです。

方、クーデター失敗後、日本に亡命していた「開化派」のリーダー・金玉均は、清朝の北洋大臣・李鴻章(「甲申政変」後の朝鮮半島管理監督最高責任者。後に日清戦争講話交渉時、清国全権)との対話を求めていました。1890(明治23)年、彼は李鴻章の養子で駐日公使として日本に赴任した李経方を通じて、「日本・朝鮮清朝三国の連携を以て、南下政策を進めるロシアと、アジアを蚕食する欧米列強勢力に対抗すべきだ」との持論を主張しています。国を逐われて尚、祖国の将来を憂えた「愛国の士」金玉均でしたが、「運命の女神」は彼に過酷な運命を課したのです。クーデターの恨みが消えぬ「守旧派」は、彼を日本官憲の影響が及ばない上海に誘い出し、1894(明治27)年3月28日、刺客・洪鐘宇(ホン・ジョンウ)をして暗殺、翌4月、屍体を斬り刻んだ上、「謀反大逆不道の罪人玉均、当日楊花津頭にて時を待たず凌遅の斬に処す」と書いた木札を掛けて、漢城市内に晒(さら)したのです。金玉均、享年43歳。誰よりも国を愛し、誰よりも国を憂えた志士の、それはあまりにも早過ぎる死でした。


   余談(つれづれ)

玉均に対する屍体凌遅刑が執行された翌5月、甲午農民戦争(東学党の乱)が勃発。それを契機に日清両国が朝鮮半島に派兵 ── 日清戦争へと発展したのです。もし、李朝が「開化派」を受け入れ、自力で維新近代化の道を歩んでいたなら ── 金玉均が「首相」として政治改革を主導していたなら ── コリアはもっと早く清朝から「独立」した事でしょう。ひょっとしたら、朝鮮半島を舞台にした日清戦争も起きなかった事でしょう。いや、コリアが日本に伍す近代国家になっていたら、「日韓併合」もなかった事でしょう。そう言う意味では、コリアは自らの手で自らの首を絞めたとも言えます。

参考文献


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