Reconsideration of the History
53.朝鮮を独立させたのは「日帝」だった!! 日韓裏面史-其の壱-(1999.5.7)

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後、コリア(韓国・北朝鮮両国)は、戦前の日本植民地時代 ── いわゆる「日帝36年支配」を事ある毎に引っぱり出して来ました。それに対して日本も、これ又事ある毎に歴代の総理(政権)が「謝罪」を繰り返してきました。しかし、考えてみればある意味でこれは非常におかしな事なのです。なぜなら、コリアは、668年の新羅(シルラ,しらぎ)による朝鮮半島統一から ── 1897年、大韓帝国(旧称・李氏朝鮮)の成立に至る1200年間、実は「独立国」ではなかったからです。こんな事を言うと、コリア人は逆上するかも知れませんが、残念ながらこれは「事実」です。百済(ベグジェ,くだら)、次いで高句麗(コクリョ,こうくり)を滅ぼし朝鮮半島を統一(668年)した新羅は、その過程で東アジアの「超大国」唐の軍事力を利用しました。それが災いして、「戦後」、唐は新羅一国となった朝鮮半島を自らの領土にしようとしたのです。つまり、「新羅をも滅ぼして朝鮮半島を我が領土に」と言う訳です。しかし、新羅の抵抗等によって唐は朝鮮半島の領有(直接統治)を断念せざるを得ませんでした。ただ、その過程で新羅に対して、唐は自らの「属国」になる事を呑ませました。つまり、唐は新羅と言う「属国」を通して朝鮮半島を実効支配(間接統治)する道を選んだのです。こうして、唐に始まる歴代支那王朝(政権)を「宗主国」と仰ぐ「属国」コリアと言う関係 ── いわゆる「朝貢関係」が成立したのです。

て、こうして始まった「宗主国」支那と「属国」コリアの関係ですが、これは現代コリア人が考える以上に非常に厳しいものでした。例えば、国王。コリア(新羅・高麗李朝の歴代王朝)では、たとえ「世子」(皇太子)だったとしても、支那皇帝の承認がなければ王位を継承する事が出来ませんでした。又、コリア王の地位は、支那皇帝は元より、朝鮮駐箚(ちゅうさつ)(支那がコリアに派遣した駐在官で、コリアの政治・軍事全般を監督させた)よりも、「下位」でした。

朝貢制度におけるコリア王の地位
(江戸時代の日本・清朝李氏朝鮮> 三国を例として)

 清朝皇帝 
(支那皇帝)
日本天皇
朝鮮駐箚官
(コリアを監督)
朝鮮国王
(コリア王)
(朝鮮通信使を派遣) 徳川将軍
(日本国大君)

に元号(年号)。日本では一般に「大化」に始まった(実際にはもっと起源は古いのだが・・・)日本独自の元号が連綿と現代迄続いていますが、コリアでは支那の元号を使わなくてはなりませんでした。と同時に、政治・文化全般においても、支那の「国教」とも言える儒教思想を規範としなくてはなりませんでした。更に、朝貢制度によってコリアは支那に定期的に使節団を派遣、支那皇帝への忠誠を再確認させられると共に、膨大な貢ぎ物を献上しなくてはなりませんでした。こう言った事が数百年も続くと恐ろしいもので、いつしか「屈辱的」共言える朝貢制度に何らの疑問も持たなくなり、自らを「小中華」と号し、「本家」支那以上の「中華主義」に徹したのです。そして、支那(明王朝)が満州族の建てた清朝に征服され、漢民族の「中華」が死滅すると、「中華主義の本家(明王朝)が滅んだ以上、中華主義を厳格に守るのは我々しかいない!!」と言う変な使命感を抱き、ますます「小中華」に徹してしまったのです。そして、時代は激動の19世紀を迎えたのです。

米列強による植民地獲得競争の波は、19世紀の中頃ともなると東アジアに迄広がって来たのです。まず、その標的となったのは東アジアの「超大国」清朝でした。阿片戦争(1840-1842)において清朝がイギリスに敗れた事により、「眠れる獅子」がその実、「張り子の虎」である事が白日の下に晒(さら)されてしまったのです。この事件が契機(衝撃)となり、日本は幕末・明治維新と言う難産を経て、近代国家への離陸を果たす事となったのですが、清朝は相も変わらず鈍重な「眠り獅子」を決め込み、その「属国」である李氏朝鮮(以下、「李朝」と略)も時代遅れな「小中華」に浸ったままだったのです。

代国家へ変貌を遂げた明治日本は、欧米列強による東アジア植民地化を阻止する為、隣国である李朝に「開国維新」を迫りました。つまり、日本と李朝が連携して一足先に近代化を達成し、清朝をも加えて東アジアから欧米列強勢力を駆逐しようと考えたのです。しかし、「小中華」に腰からどっぷりと浸かり、両班(ヤンバン:コリアにおける特権階級貴族)による政治腐敗の極致にあった当時の李朝は、世界情勢 ── 東アジアの植民地化の波が目の前に迫っている事が理解できず、日本との連携を拒絶してしまったのです。これによって日本は「対話」から「砲艦」(軍事的圧力)による問題解決 ── いわゆる「征韓論」へと方針を転換、明治8(1875)年の江華島(カンファド)事件を契機に、翌明治9(1876)年、日朝修好条規を締結し、李朝を「開国」させたのです。

朝修好条規を締結した日本は、李朝をれっきとした「独立国」として承認しました。よくコリア人は、「日帝(日本帝国主義)は朝鮮の独立を奪い、挙げ句の果てには韓国併合(日韓併合)と言う暴挙に出た」と声高に主張します。しかし、当時、清朝李朝に対する「宗属関係」(宗主国と属国の関係)を主張し、欧米列強も李朝を「独立国」として認めず、清朝の「属国」・「属領」として認知していました。そんな中、日本だけが唯一、李朝を「独立国」として承認したのです。そんな気持ちを知ってか知らずか、李朝は相も変わらず清朝を「宗主国」として仰いだのです。その後、日本は朝鮮半島政策を巡って、「宗主権」を主張する清朝と対立、明治27(1894)年、遂に日清戦争へと発展したのです。結果は日本の圧倒的勝利に終わり、清朝は遂に李朝に対する「宗主権」を放棄、明治30(1897)年、李朝は国号(国名)を「大韓帝国」、国王を「皇帝」と改称し、遂に「独立」を達成したのです。言い換えれば、日清戦争における日本の勝利が無ければ、李朝は「独立国」となれなかった(裏を返せば、「属国」のまま)訳で、コリア人はその事実を直視すべきだと思うのです。


   余談(つれづれ)

リアは、伝説の三韓(馬韓・弁韓・辰韓)時代から日韓併合に至る長い歴史の中で、二人の「皇帝」を輩出しました。李氏朝鮮 改め 大韓帝国の高宗(第26代 徳寿宮李太王:在位 1863-1907)・純宗(第27代 昌徳宮李王:在位 1907-1910)父子です。しかし、この二人の「皇帝」も、コリア人の憎むべき存在 ── 「日帝」(日本帝国主義)李朝を「独立」させなかったとしたら、この世に存在し得なかった訳で・・・「歴史」とは、何とも皮肉なものです。


参考文献


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