Reconsideration of the History
55.朝鮮半島を帝政ロシアより防衛せよ!! 日韓裏面史-其の参-(1999.6.7)

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申政変の翌年 ── 明治18(1885)年1月9日、日朝両国は「漢城(ハンソン)条約」を締結しました。これによって日朝両国はようやくクーデターの政治決着を図りました。更に、4月18日には日清両国の間に「天津(テンチン)条約」が締結されました。これによって、ようやく日清両軍は朝鮮半島から撤兵し、又、重大事態に伴い朝鮮半島に軍を派遣する場合、日清両国は互いに事前通告する事としたのです。ここで言える事は、甲申政変が結果的に朝鮮半島から外国軍隊(この場合、日清両軍。特に清軍)の撤兵を可能にしたと言う事です。この後、清朝による軍事的圧力と言う「おもし」が取れた李朝が、自らの手で近代化を推進していれば、歴史はもう少し変わったかも知れません。しかし、折角のチャンスを李朝は自ら「台無し」にしてしまったのです。

城条約が締結された明治18(1885)年、李朝は極東ロシアの軍事都市・ウラジオストック(浦塩斯徳)へ国王・高宗の密使を派遣しました。密使の目的、それは、何とあろう事か李朝が帝政ロシアの保護下に入る密約を締結する為だったのです。

朝露密約の概要
  1. 金玉均がウラジオストックに渡った際には、ロシア官憲が逮捕し朝鮮側に身柄を引き渡す。
  2. 朝鮮の対日賠償金について、ロシアは日本に対して要求しないよう圧力を掛ける。
  3. 第三国が朝鮮半島を侵略した際には、ロシアが軍事力を行使して朝鮮を保護する。
  4. ロシアは皇帝の勅命を受けた大臣を漢城(ソウル)に駐在させる。
  5. 朝鮮の海域はロシア海軍の軍艦が防衛の任に当たる。
  6. 朝露両国間に陸路での通商を開く。

方、清朝より李朝に派遣されていた外務協弁のメルレンドルフが謝罪使(甲申政変時、漢城在住の日本人が朝鮮人暴徒と清兵によって略奪・暴行・殺害された事に対しての)として、2月下旬、来日した際、帰国する4月初旬迄のほとんどを、駐日ロシア公使館書記官スペールとの秘密交渉に費やしました。この交渉でメルレンドルフは、ロシアに対し軍事教官を李朝に派遣するよう打診したのです。つまり、李朝は日清両国と言う「圧力」が無くなり、「自主独立」を歩める素地が出来たにも関わらず、今度はロシアの勢力下に入ろうとしたのです。しかし、この朝露密約は幻に終わりました。天津条約によって、李朝は自主防衛の責任を負うと同時に、外国人武官を教官に招聘出来る事が条項に盛り込まれると、ロシアではなくアメリカから軍事教官を招聘する事を決定したのです。しかし、そんな事とは知らないロシア書記官スペールは、漢城に到着後、外務督弁の金允植(キム・ユンシク)に協約締結を迫ったのです。しかし、閔妃一派とメルレンドルフ等による独断専行だった為に、金允植は協約締結を拒否。この過程で、朝露密約が露見したのです。

露密約を知った日本は、それ迄コリアを巡って対立関係にあった清朝との協力(対露共闘路線)に傾き、李朝への柔軟路線(懐柔策)へと転換しました。しかし、この一件で日本は新たな戦略構築を迫られたのです。地図を広げてみれば分かる事ですが、朝鮮半島は大陸にぶら下がる形で位置しています。日本はその朝鮮半島の南側に下から覆い被さる様に国土を構えています。一見、何の変哲も無い様に見えますが、戦略上、これは非常に重要な事なのです。日本から見ると、朝鮮半島は喉元に突きつけられたナイフの様なものなのです。そして、この事が日本のコリア政策の一つの大きな要素となっているのです。朝鮮半島の後ろには清朝・ロシアと言う二大大陸国家が控えています。その内の一つ、清朝とは天津条約を締結し、朝鮮半島から撤兵させました。問題はロシアです。もし、朝露密約が現実のものとなり、コリアがロシアの勢力下に入ったら・・・日本はまさに喉元にナイフ(ロシアの軍事力)を突きつけられた形となるのです。

本にとってコリア ── 朝鮮半島は海洋国家(シーパワー:日本)と大陸国家(ランドパワー:シナ・ロシア)との「緩衝国家」である事が理想でした。つまり、海洋国家・大陸国家双方の支配を受けない「自主の邦」である事が好ましかったのです。その為に日本は日朝修好条規を締結し、李朝をれっきとした「独立国」として扱い、「開化派」をして近代化させようとしたのです。しかし、李朝はあくまでも大国清朝、日本、そして、ロシア)の保護下に甘んじようとしたのです。結果的に日本は、「李朝は自主独立を放棄した。李朝が(清朝や)ロシアの勢力下に入る事は日本の安全保障上、断固阻止しなくてはならない。従って日本は(清朝や)ロシアに代わって逆に李朝を勢力下に収めなくてはならない・・・」と言う主張が出てきたのです。これが朝鮮半島・遼東半島・満蒙へと続く陸軍の「北進論」へと繋がっていったのです。そして、明治27(1894)年、日本は清国と朝鮮半島の権益を巡って日清戦争を戦い、明治37(1904)年には、ロシアと朝鮮半島の背後・遼東半島と南満州の権益を巡って日露戦争を戦ったのです。この様に、二度に渡って東アジアの超大国を敵に回しての無謀な大戦争をした日本が、常に念頭に置いていたもの、それは、朝鮮半島の「ロシア化」であり、ロシアの南進(南下政策)に対する異常な迄の「恐怖心」だったのです。


参考文献


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