Reconsideration of the History
52.「大東亜共栄圏」は軍部が発想したものではなかった!! (1999.4.22)

前のページ 次のページ


の大戦(大東亜戦争)において、日本は「大東亜共栄圏」なるスローガンを前面に押し出しました。その意味は、「欧米列強による植民地支配に代わって、共存共栄の新秩序を東亜(アジア)に樹立する」と言うものでした。言わば、アジア版「新世界(域内)秩序」と言ったものです。そして、その一環として、昭和18(1943)年11月、東京において、アジア版サミットと言える「大東亜会議」が開催されたのです『7.昭和18年の「東京サミット」、大東亜会議』参照)。しかし、戦後、日本が提唱した「大東亜共栄圏」は軍部が戦争遂行の為に作り出した単なる「方便」(プロパガンダ)に過ぎなかった等と一蹴されてしまいました。しかし、実態は全く異なり、「大東亜共栄圏」は軍部が独創したプロパガンダでも何でもなかったのです。そして、この構想(「大東亜共栄圏」)には、軍部を先んずる多くの先達がいたのです。と言う訳で今回は、「大東亜共栄圏」について書いてみたいと思います。

ずは、「大東亜共栄圏」の概略から ──。昭和12(1937)年7月7日の「廬溝橋事件」に端を発した「支那事変」(日華事変・日中戦争とも呼ばれる)の長期化が決定的となった昭和13(1938)年11月、第1次近衛文麿内閣(1937.6.4-1939.1.4)は、「日満華本・州・中民国)による『東亜新秩序』建設」声明を出し、第2次近衛内閣(1940.7.22-1941.7.16)発足に伴い、昭和15(1940)年7月に決定された「基本国策要綱」(日本の国家プラン)で、日満華に加え、東南アジアをも含む「大東亜共栄圏」構想が提唱されました ── 。と、ここ迄が一般に言われる所の「大東亜共栄圏」通史です。しかし、この構想には「雛形」(ひながた)が既に存在していたのです。

は幕末。福井藩の政治顧問として、政治総裁職・松平春嶽(慶永 福井藩主)に仕え、将軍後見職・徳川慶喜(後に将軍)のブレーンとしても、幕政改革に参画した政治思想家・横井小楠(しょうなん 1809-1869)。彼は当時、「攘夷」(日本に来る外国勢力を武力によって撃退排除する)・「征韓」(韓国=李氏朝鮮を武力によって征圧する)を説いた松下村塾の吉田松陰らの思想とは異なり、列強の要求が理に叶っていれば受け入れ、不合理であれば抵抗する ── と言う「是々非々論」を持っていました。又、彼はその為の方策として、列強に伍する為に、「日清朝本・国・鮮)三国による同盟・団結 ── 後の「東亜連盟」構想を提唱したのです。奇しくも、横井と同様の構想は、当時の朝鮮においても「三和主義」(日清朝の東亜諸国が協力して列強の侵略に抵抗する)として唱えられました。しかし、この構想は、明治2(1969)年、横井が暗殺され、日本が「日韓同盟」路線から「征韓論」へと国策を転換した事で幻に終わったのです。

いて、時は明治。明治14(1881)年3月、外国の首脳として初めて来日し、明治天皇と会見したハワイ国王・カラカウア1世が、「日本とハワイが天皇の下に合邦(連邦)し、更に、日本を盟主に『大アジア連邦』を創設、一丸となって列強に対抗する」と言う提案をしました『23.カラカウア王の提案〜幻に終わった日本・ハワイ連邦構想』参照)。先程の横井構想だけを見れば、日本人による発想とも言えますが、朝鮮における「三和主義」や、カラカウア王の提案も踏まえると、後の「大東亜共栄圏」構想は、あながち日本政府や軍部が戦争遂行の為のプロパガンダとして作り出した「方便」とは言えなくなるのです。つまり、「時代が要請したもの」と言えるのです。

に、時は昭和。陸軍に「昭和陸軍最高の戦略・戦術家」と称された一人の奇才がいました。彼の名は石原莞爾。統制派の東条英機(陸相、後に首相)と方針が対立し、予備役に編入(失脚)され軍の表舞台から逐われた石原は、世に「満州事変の立役者」として知られる人物ですが、彼自身も独自の構想を持っていました。彼は先ず、「東亜諸国民(民族)水平連合によって、欧米列強の覇道に対決する」と言う「東亜連盟」構想を唱えました。そして、その一環として満州事変(1931年)を起こし、満州に「五族協和の王道楽土」を標榜する「満州国」を建設(1932年)したのです。更に石原は、来るべき「世界最終戦争」(日米両国による史上最大にして最後の世界戦争。一種のハルマゲドン)の準備の為に、アメリカとは少なくとも十年間は、決して矛を交えないと言う「十年不戦論」をも展開しました。しかし、時代は石原の意図しない方向へと進みました。日本は支那事変が解決しないまま、南方への進出(仏印進駐)、更に最も懼(おそ)れていた対米開戦(大東亜戦争)へと突き進んでいったのです。そんな時代の趨勢を見ながら、石原は、大東亜戦争に突入した日本が唯一、「必敗」を免れる為に、「蒋介石と和睦して支那事変を解決し(日支和平)、次に東亜諸民族を糾合して「東亜連盟」を成立させ、東亜(アジア)が一丸となって英米に対抗する」 ── つまり、大東亜戦争の戦争目的を名実共に「アジア民族解放戦争」に転化させ(「日本 VS 米英」から「アジア VS 米英」へ)、アメリカの戦争目的を喪失させるべきと説いたのです。しかし、石原の意見は遂に叶う事無く、日本は米英に敗れさりました。ところが、結果的に日本は「肉を斬らせて骨を断った」とも言えます。米英(ら列強諸国)は日本に勝利したとは言え、自分達の「ドル箱」であったアジア(及びアフリカ等)の独立を認めざるを得なくなった訳で、列強諸国にとっては大いなる誤算だった共言えます(かの「大英帝国」は戦勝国にもかかわらず、戦後、植民地を次々と手放す羽目になり、「帝国」を解体せざるを得なくなった)

して、時は現代。「軍事大国」日本は米英列強に敗れ、「大東亜共栄圏」構想は頓挫しました。しかし、日本は奇跡とも言われる高度経済成長で焦土と化した国土を短期間で復興し、「経済大国」として復活しました。一方、目を東南アジアに転じると、そこは「東南アジア諸国連合」(ASEAN)を結成し、東南アジア域内に独自の「共栄圏」を作り出していました。又、ヨーロッパは新機軸通貨「ユーロ」で統合され、アメリカに匹敵する政治経済圏 ── 「ヨーロッパ合衆国」の実現へと一歩を踏み出しました。そんな中、ドル・ユーロに続く第三の国際基軸通貨として、日本の「円」に期待が持たれているのも事実です。時代は欧米に伍する為に、「大東亜共栄圏」から、「大東亜共圏」へ ── 再びアジアの統合を求めている共言えます。


参考文献


前のページ 次のページ