Reconsideration of the History
111.アメリカによる広島・長崎への原爆投下こそ「人道に対する罪」 (2002.12.21)

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和21(1946)年5月3日に開廷し、昭和23(1948)年11月12日に閉廷した極東国際軍事裁判 ── 所謂「東京裁判」については、以前のコラム『1.東京裁判は法律上成立しない』において、その違法性と判決の無効について書きました。その「東京裁判」の中で、日本の罪状として挙げられたものは、第一に、既に確立していた戦時国際法に基づいた「通例の戦争犯罪」、第二に、侵略戦争の計画・準備・開始・遂行等を犯罪とする「平和に対する罪」、そして、第三に「人道に対する罪」でした。

人道に対する罪
(『欧州戦争犯罪人裁判に関するロンドン協定附属 国際軍事裁判所条例』第6条より)

戦前又は戦時中に於ける全ての一般人民に対する殺人・殲滅(せんめつ)・奴隷化・強制的移送及びその他の非人道的行為、もしくは政治的・人種的又は宗教的理由に基づく迫害の事。

の中でも、特に「人道に対する罪」は、昭和20(1945)年8月に成立した『ヨーロッパ戦争犯罪人裁判に関するロンドン協定及び国際軍事裁判所条例』に於いて明文化され、昭和23年12月、国連総会に於いて『集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約』 ── 所謂『ジェノサイド条約』として採択(昭和26(1951)年1月発効)されたもので、前述の通り、「敗戦国」日本は「東京裁判」に於いて、この「人道に対する罪」で断罪された訳です。もっとも、私自身は、「平和に対する罪」にしろ、「人道に対する罪」にしろ、それらが戦後になって成立した「事後法」であった以上、そもそも、それらの罪状で日本が過去に遡って断罪されるいわれは全く無いと思っています。又、「敗戦国」日本を「人道に対する罪」で裁いたのなら、「戦勝国」米国の犯した「人道に対する罪」についても同様に断罪されて然るべきでは無いか共思っています。何故なら、米国は日本以上に「人道に対する罪」を犯していたのですから。そこで、今回は、米国が日本以上に犯していた「人道に対する罪」について書いてみたいと思います。

昭和20年8月6日 広島上空で炸裂した原爆「リトル-ボーイ」 国の犯した「人道に対する罪」とは一体何なのか? 結論から言えば、それは、広島・長崎に対して行われた「原子爆弾」(以下、「原爆」と略)の投下です。そもそも、米軍が原爆開発に着手するきっかけを作ったのは、「特殊相対性理論」で知られるアインシュタイン博士等、ナチス(ドイツ第三帝国)の迫害から逃れたり、あるいは国外追放されたりして、米国に亡命したユダヤ系科学者達でした。昭和14(1939)年、シラード・テラー・ウィグナーと言ったユダヤ系科学者等から、「核分裂が軍事利用される危険性があり、それをナチスが開発する可能性が非常に高い」との警告を受けたアインシュタイン博士が、その事についての手紙を書き、当時の米国大統領・ローズヴェルトに送った事で、米国の原爆開発はスタートしたのです。さて、ここで非常に重要な点が一つあります。それは、亡命ユダヤ人の警告と提言によってスタートした米国の原爆開発は、そもそも、ナチスに対して使う事を目的にしていたと言う事です。この点は非常に重要ですので、覚えておいて下さい。

昭和20年8月9日 長崎上空で炸裂した原爆「ファット-マン」 て、この様にして米国の原爆開発がスタートした訳ですが、研究段階から二つの核物質による二種類の原爆が開発されていた事を皆さんはご存じだったでしょうか? 一口に「原爆」とは言いますが、昭和20年8月6日の広島と、同月9日の長崎とでは使われた「原爆」が全く異なっていたのです。広島に投下された暗号名「リトル-ボーイ」(Little boy:チビ)と呼ばれた原爆は、「ウラン235」235U)を原料にした「ウラニウム爆弾」、長崎に投下された暗号名「ファット-マン」(Fat man:デブ)と呼ばれた原爆は、「プルトニウム239」239Pu)を原料にした「プルトニウム爆弾」だったのです。この二種類の原爆開発に関する話はここでは割愛し、話を進めます。

イツ第三帝国が、早い段階からカイザー-ヴィルヘルム研究所に於いて原爆研究を開始し、昭和14年9月には核分裂実験に必要なウランと重水(D2O:酸化ジュウテリウム)の市販禁止措置を執った事は事実です。しかし、ヒトラー総統の強い意向が働いた事で「実戦兵器としての原爆」開発は中止、第三帝国自体も昭和20年5月7日、連合国に対して無条件降伏した事で、ナチス製原爆は遂に日の目を見る事無く終わったのです。一方、米国の原爆が、「対ナチス用兵器」として研究開発されていた経緯を考えれば、第三帝国の崩壊によってその存在理由は無くなった筈でした。しかし、それは実戦に使われました。イタリア・ドイツが相次いで連合国の軍門に下った後も、尚、対米戦争を継続していた日本に対して。

和20年8月6日、広島上空で、同月9日には長崎上空で、米軍の新型爆弾 ── 「原爆」が炸裂しました。この市街地に対する原爆投下について、米国は一貫して、

日本本土上陸作戦(通称「オリンピック作戦」)が実行されていたとすれば、米兵に膨大な数の死傷者が出ていただろうし、終戦自体も遅れていた事だろう。又、広島や長崎が「市街地」とは言っても、双方共に「軍事都市」であり、当時、日本の軍需生産が町工場で市民を動員しての家内制手工業的手法を採っていた以上、「市街地」全体が巨大な軍需工場だった共言え、原爆投下は止むを得なかった。

広島に原爆を投下したB-29戦略爆撃機「エノラ-ゲイ」 と主張し、戦争の早期終結に寄与した、と迄言っています。しかし、この米国の主張には疑義を挟まざるを得ません。例えば、もしも、米国が原爆を投下せず、昭和20年8月15日に「終戦」を迎えなかったとしても、終戦がほんの数ヶ月、場合によっては一ヶ月先に伸びる程度だった事でしょう。又、当時の日本の国力を考えれば、最早、大規模な反攻作戦(攻勢)等とても出来無かったでしょうし、米国がその気になれば、日本本土上陸作戦等せず共、日本本土近海を四方八方から海上封鎖し、蟻の子一匹たり共抜け出せない状態にした上で、戦略爆撃機B-29による主要都市への空襲を継続、執拗に降伏を勧告していさえすれば、例え原爆投下が無かったとしても、御前会議に於いて昭和天皇が『ポツダム宣言』を受諾したであろう事は想像に難くありません。古来、様々な兵法家が戦争について論じていますが、「戦わずして敵に勝つ」事が最も上策とされていた事を考えると、多少、時間がかかったとしても、海上封鎖と、決して迎撃される虞(おそれ)の無い高々度からの空爆によって日本を締め上げ、じり貧になって降伏を受け入れる迄待つ方が、上陸作戦をするよりも、味方の損失が格段に少なく、正に「上策」だった筈です。それをせずに、原爆投下に踏み切ったと言う事は、全く別の「意図」があったと見るべきなのです。それでは、その「別の意図」とは一体何なのか? それは、「原爆」そのものにあったのです。

広島に投下されたウラニウム爆弾「リトル-ボーイ」 々の知る「歴史」に於いて「原爆」=核兵器が実戦、しかも市街地に対して使用されたのは、広島・長崎が最初で最後です。そして、米国が開発した「原爆」が、「ウラニウム爆弾」と「プルトニウム爆弾」の二種類であった事は先述しました。その事を踏まえた上で、改めて広島・長崎への「原爆」投下を見つめ直すと、「別の意図」もはっきりと浮かび上がってきます。つまり、こう言う事です。

米国は、ヒロシマと言う実際の都市を使って、「原爆投下実験」を行った。しかも、米国が開発した「原爆」は二種類だったので、ナガサキを使って、二度目の「原爆投下実験」を行う必要があった。

広島への原爆投下によって、米国はその計り知れない威力と、膨大な数の死傷者が出た事を知った筈です。又、原爆投下が早期終戦を目的とした日本に対する「示威」に重点が置かれていたのだとすれば、軍から実情報告を受けた政府・大本営、そして、昭和天皇に強い衝撃を与え、日本から『ポツダム宣言』受諾を引き出すのに充分だった筈です。それを、日本の「反応」『ポツダム宣言』受諾表明)を見る時間的猶予を与えず、最初の原爆投下から僅か三日後、長崎に対して別種の「原爆」を投下したとなれば、米国に「別の意図」があったと見るのが自然です。しかも、原爆投下直後に行われた日本人科学者や報道カメラマンの調査資料は元より、被爆者の日記や、病院の診断書等迄をも、戦後、進駐してきた米軍が押収した事や、米軍自体も現地で様々な調査を行った事を考えると、矢張り、「別の意図」があったと考えざるを得ず、米国が一貫して主張してきた「公式見解」は「別の意図」(本音)を隠蔽する為の「建前」でしか無いと言わざるを得ないのです。

長崎に投下されたプルトニウム爆弾「ファット-マン」 て、ここで話を、米国が犯した「人道に対する罪」に戻します。繰り返しますが、「人道に対する罪」は、

戦前又は戦時中に於ける全ての一般人民に対する殺人・殲滅・奴隷化・強制的移送及びその他の非人道的行為、もしくは政治的・人種的又は宗教的理由に基づく迫害の事。

と謳(うた)っています。そして、米国による広島・原爆に対する原爆投下は、一般市民に膨大な死傷者が出た事から、「戦時中に於ける全ての一般人民に対する殺人・殲滅」に合致し、正に「人道に対する罪」 ── 明確な「戦争犯罪」と言えるのです。又、平成14(2002)年6月、赤十字国際委員会(ICRC)駐日代表部職員で、昭和20年8月30日、原爆投下後の広島を視察したフリッツ=ビルフィンガー氏の原爆機密報告書(緊急電報を含む)がICRC文書館で発見された事も、それを補強する有力な材料となっています。『ビルフィンガー報告書』には、

「(広島の状況は)筆舌に尽くし難い」
「病院での状況は想像を絶する」

等と書かれており、更に、

「原爆の殺傷能力は他の兵器とは比較にならない」

共指摘。ICRCが、組織として「核兵器の使用禁止を訴えるべき」であると迄提言しています。ICRCが「中立」的立場にあるにも関わらず、ビルフィンがー氏がその一線を越え、敢えてこの様な提言を本部に対して行ったと言う事、これこそが「原爆」が如何に「残虐な兵器」であり、「戦時中に於ける全ての一般人民に対する殺人・殲滅」どころか、「非人道的行為」そのものであったかを証明している訳で、米国による原爆投下を「人道に対する罪」と言わずして、一体何を「人道に対する罪」と言うのか? と言わざるを得ません。

後に、昭和天皇の『終戦の詔勅』(大東亜戦争終結ノ詔書)を引用して、このコラムを締め括りたいと思います。

(前略) 先ニ米英二國ニ宣戰セル所以(ゆえん)モ、亦(また)実ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾(しょき)スルニ出テ、他國ノ主權ヲ排シ、領土ヲ侵スカ(おかすが)(ごと)キハ、固(もと)ヨリ朕(ちん)(が)(こころざし)ニアラス(あらず)。然(しか)ルニ交戰巳(すで)ニ四歳ヲ閲(けみ)シ、朕カ(が)陸海將兵ノ勇戰、朕カ(が)百僚有司ノ勵精(れいせい)、朕カ(が)一億衆庶ノ奉公、各ゝ(おのおの)最善ヲ盡(つく)セルニ拘ラス(かかわらず)、戰局必ス(かならず)シモ好轉セス(せず)、世界ノ大勢、亦我ニ利アラス(あらず)。加之(しかのみならず)敵ハ新(あらた)殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ、頻(しきり)ニ無辜(むこ)ヲ殺傷シ、慘害ノ及フ(およぶ)所、眞(しん)ニ測(はか)ルヘカラサル(べからざる)ニ至ル。(しか)モ尚、交戰ヲ繼續(けいぞく)セムカ。終(つい)ニ我カ(わが)民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス(ならず)、延(ひい)テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ(すべし)。(後略)


   余談(つれづれ)

回、広島・長崎への原爆投下を例に、「大東亜戦争」(太平洋戦争)に於ける米国が犯した「人道に対する罪」について書いた訳ですが、米国が犯した「人道に対する罪」は、何もこれだけに限りません。皆さんもよくご存じの「東京大空襲」を始めとする日本各地に対する米軍 ── 戦略爆撃機B-29による空爆も、「人道に対する罪」に該当する米国が犯した「戦争犯罪」の一つです。日本軍の高射砲が届かず、迎撃戦闘機も辿(たど)り着けない高々度の上空から、遙か眼下の市街地に向けて、日本に多かった木造建築物の焼失に極めて効果的な焼夷弾をばら捲き、都市全体を住民諸共焼き殺した「本土空襲」。軍事施設も住宅地も全く関係なく、只々、敵国民である「ジャップ」(日本人)を皆殺しにする事のみを目的とした無差別爆撃は、「原爆」に勝る共劣らない「人道に対する罪」です。しかし、もっと驚くべき事があります。その「本土空襲」(戦略爆撃)の張本人であった米空軍参謀総長・カーティス=ルメイ大将に対して、昭和39(1964)年12月4日、日本政府から「勲一等旭日大綬賞」(勲章)が贈られていると言う事実です。何でも、航空自衛隊(空自)創設の功績が認められての事だそうですが・・・戦時中の「戦争犯罪」と空自創設の「功績」とを天秤にかけた時、果たして、どちらにより「重み」があったか等、考える迄も無い事であり、勲章なんぞを贈った当時の日本政府が、如何に「愚か」であったかを物語るエピソードの一つと言えます。(了)


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