Reconsideration of the History
118.世界最大の建造物「万里の長城」こそ「中国」の限界 (2003.4.7)

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界最大の建造物は?と質問されたとしたら、大抵の方は、エジプト・ギザの三大ピラミッド、大阪の大山(だいせん)古墳(仁徳天皇陵と言われている)、そして、「万里の長城」が思い浮かぶ事と思います。その中の一つ、「万里の長城」は、人類史上最大の建造物で、月面からも「見える」とまことしやかに言われたものですが、まあ、それは嘘にしても、東は渤海湾に面した河北省山海関から、西は砂漠地帯の甘粛省嘉峪関(かよくかん)に至る総延長2400Kmにも及ぶ大城壁で、正に「万里の長城」の名に相応(ふさわ)しい建造物である事は確かです。しかし、この日本からも多くの観光客が訪れ、実際に目の当たりにする「万里の長城」の「意義」について知っている人は意外と多くありません。そこで今回は、「万里の長城」を通して「中国」(支那)を論じてみたいと思います。

「万里の長城」は前述の通り、総延長2400Kmにも及ぶ大城壁な訳ですが、その歴史は、今から二千数百年前の春秋・戦国時代(紀元前770年〜221年)に迄遡(さかのぼ)ります。元々、殷王朝(紀元前1500年頃〜1111年頃)は黄河流域を領有していたに過ぎなかったのですが、版図が拡大するにつれて、周辺異民族との接触の度合いも多くなっていきました。特に、北方の草原地帯にあって厳しい環境の下、遊牧・狩猟を生きる糧としていた遊牧騎馬民族にとって、肥沃な黄河流域を次々と開墾し、農耕社会を発展させていった殷・周(紀元前1111年頃〜256年)と言った支那諸王朝は、正に「巨大な食料庫」として映った訳で、以後、支那は幾度と無く北方遊牧騎馬民族の南侵に晒(さら)されています。その南侵を防ぐ為に構築されたのが、後に「万里の長城」と呼ばれる事となった城壁なのです。

「万里の長城」の元となった「長城」(城壁)を最初に建造したのは、春秋・戦国時代、現在の山東省にあった斉国と言われていますが、以後、韓(河南省)・趙・魏(共に山西省)・燕(河北・遼寧省)・楚(華南地方)・秦(陜西・甘粛省)と言った列国が次々と建造を始めたのです。これらの長城は、あくまでも列国が自国の防衛目的で勝手に構築していった物で、位置も規模もバラバラだったのですが、秦の始皇帝によって支那全土が統一されると、列国の長城の内、北方にあった趙・燕の長城を連結補完し、東は遼寧省遼陽から西は甘粛省臨さんずい+兆(りんとう)に至る最初の「万里の長城」(以下、「長城」と略)が完成、漢代には西端が甘粛省玉門関迄延長されたのです。ちなみに、秦漢時代の長城は現在よりも北に位置していました。

て、この様に、秦漢時代に一応の完成を見た長城ですが、これらは単に北方の脅威であった匈奴(きょうど)・鮮卑(せんぴ)と言った遊牧騎馬民族に対する防御目的から構築された訳ではありません。実は、長城にはもう一つの側面があったのです。それは、司馬遷が著した『史記』「匈奴列伝」のこんな一節が物語っています。

「先王の制に、長城以北は弓を引く国」
つまり、当時の支那(秦・漢)は、長城の北側は「弓を引く国」 ── 匈奴・鮮卑と言った遊牧騎馬民族の国であると言っている訳で、長城とは支那と遊牧騎馬民族国家との「国境線」でもあった訳です。その後、五胡十六国時代に長城を越えて匈奴・鮮卑・羯(けつ)と言った北方遊牧騎馬民族が南侵、五胡によって建国された列国が淘汰されて南北朝時代を迎えた5〜6世紀にかけて長城は南に移り、ほぼ現在の位置に定まったのは隋の時代の事です。とは言っても、その後も増改築が繰り返され、現在の長城が完成したのは、何と15〜16世紀、明の時代の事なのです。つまり、現在、我々が目にしている長城は、支那人によって営々二千年以上にもわたって造営されてきた訳で、そこには物凄い執念が感じられるのです。それと同時に、これらは裏を返せば、支那人がいかに北方遊牧騎馬民族に対する畏怖を抱いていたかをも表しており、「ベルリンの壁」よろしく、何としても自分達(支那人)と野蛮人(遊牧騎馬民族)とを隔絶したいと言う強い思いが働いていた共言えるのです。

は変わりますが、「国」(國)と言う漢字の外側の「囗」(くにがまえ)が一体何を表しているか皆さんはご存じでしょうか? 実は、「囗」は城壁を表しており、「国」とは城壁(長城)に囲まれた「内側の世界」を意味しているのです。余談ですが、支那の長安(西安)・洛陽と、日本の平城京(奈良)・平安京(京都)はかつて両国を代表した「都城制」に基づいた首都でしたが、両者には決定的な相違点がありました。それは「城壁」の有無です。日本の平城京・平安京は確かに長安・洛陽と言った支那の都城制に倣(なら)って造営された首都でしたが、外部からの侵入を防ぐ為の城壁がありませんでした。それに対して、長安・洛陽、いや、「南京大虐殺」の舞台になったとされる南京でさえも、かつての支那の主要都市は城壁に囲まれていました。それにしても、何故、この様な事をわざわざ言うのか?と思われる方もおありでしょう。それは、支那における「国」の概念を知って頂きたかったからなのです。

「国」と言う漢字が、城壁(「囗」)に囲まれた内側の世界を表している事は前述の通りです。そして、長城が、支那人自らの意思によって構築された城壁である以上、長城に囲まれた内側(南側)が、元来、彼らの考えていた「中国」だと言えるのです。すると、こう言う事になります。長城の外側(北側)にあって、支那自身が「潜在的中国領」と考えている沿海州や外蒙古(モンゴル国)は元より、現在領有している満州(中国東北部)・内蒙古(内蒙古自治区)・ウイグル(新疆ウイグル自治区)でさえも、元来、「中国」の領土では無かったと言う事になるのです。

かに、支那の歴史を繙(ひもと)くと長城の外側をも支配した時代がありました。しかし、それは、突厥(テュルク)を平定して一時的に蒙古平原を支配した唐(ただし、皇帝李氏が鮮卑系だったのを始めとして支配層の多くが非漢人)を除くと、(契丹族)・西夏(タングート族)(女真族)(蒙古族)(満州族)と、何れも非漢民族系であり、非漢民族が漢民族の国を征服支配した時代だった訳です。又、南北朝時代に終止符を打って支那を再統一したにも関わらず、長城を越えての高句麗遠征に何れも失敗して滅亡した隋や、皇帝(英宗正統帝)自らが総兵力50万人もの大軍を率いて蒙古の瓦剌(オイラート)親征を敢行したにも関わらず、逆に包囲され大軍は全滅、皇帝自らも捕虜として抑留される事となった明(1449年 土木の変)等、支那側が長城の外側をまともに支配した例(ためし)が無いのです。

つて、ソ連のフルシチョーフ首相は、中ソ国境紛争で対立していた1969(昭和44)年、支那(中華人民共和国)に対してこの様な発言をしました。

「中国の国力の限界は長城迄である」

「古来中国の国境は、長城を越えた事が無かった」

つまり、フルシチョーフ首相は長城に対して、前述したのと同様の認識を持っていた訳です。そして、もしも、「国家」にも「適正規模」と言うものがあるのだとすれば、支那の適正規模はあくまでも長城の内側では無いかと思うのです。その長城を越えて満蒙疆(満州・内蒙古・ウイグル)に迄拡張し、更に、現在も拡張し続けようとしている巨大帝国「中国」は、膨らましに膨らましたゴム風船の様に、いつか、破裂(分裂滅亡)する運命にあるとは言えないでしょうか? それは、過去の歴史において、長城を越えて拡張しようとした王朝が、その後、何れも国力が衰退し滅亡している事が図らずも証明しているのです。


   余談(つれづれ)

「中国」は、「解放」の名の下に満州・内蒙古・ウイグル(新疆)・チベットと、周辺諸民族・地域を侵略支配しています。その「中国」に問いかけたい事があります。それは、何故、「同胞」として「解放」(侵略併合)した筈の周辺諸民族の地域に長城が存在するのか?と。それら長城が誰からの強制でも無く、支那人自らの意思によって営々と構築されてきたと言う歴史的事実や、どの様な経緯で構築されてきたのかと言う事を考えると、支那人が、

「中国人」である我々は、絶対に「野蛮人」(周辺諸民族)とは同化したくは無い。

と考えてきたと言う結論にしか達しないのです。その様な「中国」 ── 「ベルリンの壁」よろしく長城を構築してきた支那が、周辺諸民族に対して「同胞」と呼びかけ、「祖国」・「中華大家庭」への復帰と称して、「中国」への帰属を執拗に求める姿勢には反発を覚えると言うよりも、最早、呆れて物も言えない、開いた口が塞がらない、いや、救いようが無い、と言うしかありません。 (了)


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