Reconsideration of the History
119.「カシミール問題」の当事国は印パ両国だけでは無い (2003.4.22)

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カシミール関連地図 さんは、「カシミール問題」をご存じでしょうか? インド亜大陸の北西端に位置する地域「カシミール」(カシミア Kashmir)の帰属を巡って、インド(以下、「印度」と略)とパキスタンが係争している問題で、両国は二度にわたって全面戦争(印パ戦争:1947〜1949,1965〜1966)をしており、この問題は今尚、両国間に刺さった棘(とげ)として対立の火種を残しています。しかし、この「カシミール問題」に、印パ両国とは別に、もう一つの「当事国」が介在している事はあまり知られていません。と言う訳で、今回は、カシミール問題に於ける印パに次ぐ第三の「当事国」について書いてみたいと思います。

シミール問題に於ける印パに次ぐ第三の「当事国」とは一体何処なのか? それを明らかにする前に、先ず、カシミール問題の概略について、ざっと見てみましょう。そもそもの発端は、昭和22(1947)年8月、英領印度がヒンドゥー教徒を主体とする「印度」と、イスラム教徒を主体とする「パキスタン」(独立当時は、「西パキスタン」(現パキスタン)と「東パキスタン」(現バングラディシュ)から構成されていた)とに分離独立した事に始まります。この時、カシミール地方が印パ両国どちらに帰属するのかが焦点になりました。印パ両国が独立してから2ヶ月後の昭和22年10月、パシュトゥーン人(アフガニスタンに於ける多数派民族)がカシミール渓谷に侵入してきたのを見た、当時のジャンムー-カシミール藩王国の藩王(マハー-ラージャ)・ハリ=シング ── 彼はヒンドゥー教徒だったのですが ── は、パシュトゥーン人の背後にパキスタンの支援があると見て取り、印度に対して自領の編入を求めると同時に、パシュトゥーン人侵入者の排除を求めました。これに対して、印度はカシミールに軍隊を派遣、パシュトゥーン人侵入者に対する掃討軍事作戦を実施し、カシミールのほぼ全域を制圧、印度への編入に踏み切りました。しかし、カシミール住民の約77%がイスラム教徒(ヒンドゥー教徒は約20%)で、「民意」がパキスタンへの編入を求めた事から、昭和23(1948)年5月、今度はパキスタンが軍事介入、カシミール地方の帰属を巡って、建国間も無い印パ両国が全面戦争(第一次印パ戦争)を戦う事となったのです。結局、「第一次印パ戦争」は、同年12月末、国連安全保障理事会の調停によって停戦が実現、印パ両国の実効支配線を「停戦ライン」(暫定国境)としたカシミール地方の暫定的分割領有と、「最終的な帰属は将来の住民投票による」事を以て、一応の決着が図られたのです。

和23年12月末、「第一次印パ戦争」は、印度寄りの三分の二が印度領「ジャンムー-カシミール州」、パキスタン寄りの三分の一がパキスタン領「アーザード-カシミール州」(北部地区)として、印パ両国による分割領有で決着が図られた訳ですが、これはあくまでも「暫定的」措置であって、印パ両国共にカシミール地方「全域」の領有を諦めた訳では無く、対立の火種は以前残ったままでした。その後、昭和40(1965)年4月初めにカッチ湿原で印パ両軍が衝突、5月初め、印度政府がジャンムー-カシミール州首相・シャイフ=アブゥドゥッラーを分離独立(イスラム国家建設)運動の扇動者として逮捕、8月初め、パキスタン側からイスラム武装ゲリラがカシミール渓谷に侵入する等の事件が続発し、印パ両国の対立は益々激化していったのです。そして、9月1日、遂にパキスタン軍が印度領のチャンブを攻撃、これに対して印度軍が6日にパキスタン領のラホールを報復攻撃した事から再び全面戦争に発展(第二次印パ戦争)したのです。結局、「第二次印パ戦争」も、米英両国や国連安保理の停戦圧力により、9月22日、印パ両国が国連安保理の停戦決議を受諾、翌昭和41(1966)年1月、コスイギン・ソ連首相(閣僚会議議長)の調停で、印パ両国は中央アジアの枢要都市・タシュケントでの首脳会議を経て、開戦以前の状態に復す事で決着が図られました。しかし、皆さんもテレビや新聞でご存じの様に、今現在も印パ両国は「カシミール問題」で対立しており、平成10(1998)年の印パ両国による核実験と、その後の核武装・各種ミサイル発射実験は、記憶に新しい所です。さて、この様にカシミール地方を巡る印パ両国の対立史を見てきた訳ですが、冒頭で書いた通り、「カシミール問題」の当事者は印パ両国だけではありません。実は、もう一つの国が絡んでいたのです。そして、「カシミール問題」に於ける第三の「当事国」とは、何と支那(中国)だったのです。

和37(1962)年10月12日、「チベット問題」等で対立してきた印度・支那両国が、隣接する国境線全域にわたって大規模な軍事衝突を起こしました。これが、所謂「中印戦争」(中印国境紛争)と呼ばれるものです。10月19日、セラ峠を占領した支那軍が全面攻撃を開始、戦線各地で印度軍が敗退した事により、「中印戦争」の雌雄は決しました。この「中印戦争」によって支那は、暫定印度領「ジャンムー-カシミール州」の北東部に位置する「ラダック」地方の一部、「アクサイ-チン」(Aksai Chin)地区を占領、自国領に併合したのです。又、印度・支那両国は、互いに「アジアの老舗」(大国)としてライバル関係にあり、昭和22年の独立以来、印度に対して常に軍事的劣勢にあったパキスタンを支那が軍事支援してきた事と、「敵(印度)の敵(支那)は味方」と言う論理に基づいて、暫定分割線よりも北側の印度側占領地の内、パキスタンが占領(奪還)した地域を、昭和38(1963)年、パキスタンから割譲されています。つまり、カシミール地方は、印度(ジャンムー-カシミール)・パキスタン(アーザード-カシミール)・支那(アクサイ-チン)の三国によって三分割されていると言う訳です。

印パ・支那に三分されているカシミール地方

カシミール関連地図

て、この様に、印パ両国だけが「当事国」だと思われていた「カシミール問題」に、実は支那も一枚噛んでいたと言う事を書いた訳ですが、この地域の問題に支那が絡んだ事で、引き起こされたもう一つの問題についても書いておきたいと思います。それは、平成10年、世界中に衝撃を走らせた印パ両国による「核実験」と、その後の弾道ミサイル発射実験についてです。一般に、印パ両国の核武装は、互いの国に対する軍事的優位を保つ為とされ、特にパキスタンについては、通常戦力で常に印度に劣勢である以上、それを挽回する為に核武装に走ったとされています。まあ、この認識は基本的に正しいと思います。しかし、印度の核武装、と言うよりも核実験については疑問を抱かざるを得ません。何故なら、印度はパキスタンに対して通常戦力に於いて常に優位にあり、パキスタンに先んじて核実験を強行する必要等無かったからです。印度が核実験を強行した事が引き金となり、パキスタンも支那の技術支援を受けて核実験を強行、遂には両国共に核武装する事となった訳で、印度が核実験に踏み切らなければ、パキスタンも無理して迄追随する事は無かったでしょうし、その後の両国核武装による「核による均衡」等と言う事態を招く事もなかった事でしょう。しかし、現実に印度は核武装の道を選びました。では、印度をして核武装に走らせたものとは一体何だったのか? 実は、印度が核武装した直接の要因は、支那にあるのです。どう言う事かと言うと、米露の軍事偵察衛星の情報によって、印度国内の少なく共、90都市が支那の核弾道ミサイルの照準を合わされている事が判明したのです。そこで、印度が考えた事は、「核に対しては、核を以て対抗する」、つまり、印度も軍事対抗上から核武装し、支那の諸都市に対して核ミサイルの照準を合わせる、と言う事だったのです。でなければ、軍事的優位にある印度がパキスタンを刺激し、核武装に走らせる事を百も承知の上で、わざわざ、核実験強行と言う愚を犯す筈がありません。

上見てきた様に、「カシミール問題」・印パの核武装共に支那が関わってきた訳で、これは裏を返せば、支那が「印度の敵」パキスタンを支援してきた事で、印パ両国の対立を煽り、ひいては南アジア地域の「不安定材料」を常に提供してきたと言う事でもある訳です。まあ、支那にしてみれば、印パ両国が和解し、南アジア地域が平和になると言う事は、「地域大国」印度がパキスタン対抗の為に削いできた国力(主として軍事力)を、自国(支那)に振り向けて来る事が必至なので、いつ迄も印パ両国の対立を煽っているのでしょう。その様な見方 ── 支那を「要素」の一つとして加える ── をする事で、初めて「カシミール問題」を初めとする印パ両国の対立の構図が、よりはっきりと見えてくるのです。


   余談(つれづれ)

和22年の独立以来、半世紀以上にわたって係争されてきた「カシミール問題」。二度に及ぶ印パ戦争、核実験強行、弾道ミサイル発射実験・・・その間、印パ両国が注ぎ込んだ「国力」は途轍も無いものがあります。印パ両国共、政治・宗教の違いや、互いの国の「民意」や「面子」(メンツ)もあり、表面的には「退くに退けない」状況にあります。しかし、その内実は、「カシミール問題」が両国にとって「お荷物」になっている現実に突き当たります。それを如実に物語っているのが、平成12(2000)年8月、ジャンムー-カシミール州の夏の州都・スリナガルに於いて、パキスタンへの帰属を求めて分離運動を展開してきた同国最大の反政府イスラム軍事組織「ヒズブル-ムジャヒディーン」が、初めて印度政府当局と会談した事です。一説に、パキスタンは印度国内の分離運動支援の為に年間1千万米ドルを、印度政府もその鎮圧軍事費に4千万米ドルをそれぞれ支出、両国共にその莫大な財政負担が国家財政を圧迫しており、本音では事態の早期沈静化・全面的和平を求めていると言えます。要は、印パ両国それぞれの面子が保たれる上で決着可能な「落とし所」さえ用意すれば良い訳です。

えば・・・少々突飛な考えかも知れませんが・・・印パ両国にカシミールの領有権を放棄させる、と言うのも一つの手です。印パ両国共に国家の面子がある以上、互いに相手国への帰属等絶対には認められるものではありません。かと言って、これ以上の対立は、下手をすると両国の「共倒れ」にも繋がりかねません。ならば、いっその事、嘗(かつ)て、カシミール地方が「藩王国」であった歴史に鑑(かんが)みて、印度でも無く、パキスタンでも無い、「カシミール」と言う一つの主権国家として独立 ── 民族・宗教の違いを超えた印パ両国間の「緩衝国家」とする「第三の道」もあるのでは無いでしょうか? そして、支那とは異なり、印パ両国どちら側にも与(くみ)せず、敵対関係に無い日本にこそ、その仲介・調停の任が最も相応(ふさわ)しいと思うのですが・・・。


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