Reconsideration of the History
216.コリアだって日本を侵略したではないか!! ── 李氏朝鮮による「応永の外寇」 (2009.11.22)

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リアは、太閤(たいこう)・豊臣秀吉による文禄の役(天正20=文禄元(1592)〜文禄2(1593))と慶長の役(慶長2(1597)〜慶長3(1598))、明治43(1910)年8月22日の日韓併合から昭和20(1945)年8月15日の朝鮮建国準備委員会結成に至る所謂(いわゆる)「日帝三十六年」(但し、韓国は昭和23(1948)年8月13日、北鮮は昭和23年9月9日に夫々(それぞれ)独立建国)をして、日本によるコリア侵略と称していますが、私は以前の小論『66.「高麗襲来」─元寇に隠された側面』に於いて、元寇(げんこう;蒙古襲来) ── 文永の役(文永11(1274))と弘安の役(弘安4(1281))がその実、高麗(こうらい)が主体となって行われた対日侵略であった事を指摘しました。とは言え、コリア側から「あれは(蒙古)に脅されて仕方無くした事」との逃げ口上が出てくる事は想像に難(かた)くありません。然(しか)し、元寇から凡(およ)そ140年後、今度は明確にコリアが主体となって日本を侵略した出来事があったと言ったら、果たしてどうなるでしょうか? と言う訳で、今回はコリアによる文永の役・弘安の役に次ぐ3度目の対日侵略に付いて書いてみたいと思います。

リアによる文永の役・弘安の役に次ぐ3度目の対日侵略とは一体何なのか? これは時の元号、室町時代の応永26(1419)年を取って「応永の外寇」(日本側別称は「糠岳(ぬかだけ)戦争」)と呼ばれており、李氏朝鮮軍が軍船227隻、1万7千余の軍勢を以(もっ)て対馬(つしま)を襲撃してきた文字通り「対日侵略戦争」でした。因(ちな)みに、朝鮮軍を迎え撃った対馬勢の戦力は朝鮮軍の凡そ22分の1の8百余だったにも関わらず、戦死者は僅か20人。それに対して、朝鮮側の戦死者は2500人以上(日本側史料)に及び、侵略から僅か1ヶ月後、朝鮮軍は対馬(日本)側の和平提案に飛び付き、すごすごと巨済島(コジェド)へと全面撤退。結果は朝鮮側の大敗に終わったのです。(島根県が制定した「竹島の日」に対抗する形で「対馬の日」を制定した馬山市は、鎮海湾を挟んで巨済島の北にある)

(さて)、この「応永の外寇」に付いて、これが対日侵略であったか否(いな)かに付いて考えてみましょう。先(ま)ずは当時の日本側の受け止め方に付いてですが、朝鮮軍の対馬襲来の報を受けた室町幕府の反応が示唆に富んでいます。それは、当時、支那大陸に於いて王朝がから明(みん)に交替していたにも関わらず(因みに、は滅亡したのでは無く、モンゴル平原へと勢力が後退しただけ)、当初、これが「元寇の再来」では無いかと認識されていた事です。主体となる大国がから明に変わったにも関わらず、「元寇の再来」と見られた理由で考えられる事は唯一つ。それは、先の元寇が実は私が指摘した通り、矢張(やは)り、「高麗襲来」だったからに他ならず、今次の襲来も主役が高麗から李氏朝鮮に変わっただけで、実態は前回同様にコリアによる侵略だったと言う事なのです。

に「応永の外寇」に対する当時の李氏朝鮮の受け止め方についてですが、それを如実に表しているのが、「応永の外寇」の朝鮮側呼称です。朝鮮では時の干支(かんし)を取って「己亥東征(ギヘトンジョン;きがいとうせい)」と呼んでいますが、其処(そこ)には「東征」とある様に、明らかに「東(東南)への遠征」の意味が込められており、どう転んでも「防衛戦」の意図を読み取る事は出来ません。又、この「東征」を決めたのは、王位を世宗大王(セジョン-デワン 在位:1418〜1450)に譲った後も政治の実権を握り続けていた先王・太宗(テジョン 在位:1400〜1418)ですが、彼は当時、朝鮮半島沿岸を荒らし回っていた「倭寇(わこう)」討伐とは別に、

古書によれば対馬は慶尚道に隷属する

等と言う歴史的事実とは異なる主張を大義名分に掲げ、そして、侵略を実行に移しました。然し、対馬(往古(いにしえ)の「對馬國」)が『魏志倭人伝』(正確には『魏書』「東夷伝倭人条」と言う)の時代から、倭国(日本)を構成する一国だった事は明らかであり、「古書によれば対馬は慶尚道に隷属する」等と言う主張は正に「言いがかり」も良い所で、要は表向き倭寇討伐を名目に出兵し、あわよくば、対馬を占領し自国領に併合してしまおうと考えていたであろう事は火を見るよりも明らかな訳です。因みに、対馬への侵略は、同地の有力者が明国へと渡っている最中で、対馬の防衛体制が手薄だった時期を選んで行われましたが、これはその儘(まま)、韓国が日本の警備防衛体制の間隙を縫って竹島を襲撃、今に至る迄、占領し続けている事例と非常に良く似ています。(余談だが、韓国側が対馬を自国領とする根拠の一つは、なんと対馬を侵略した「応永の外寇」なのである。何とも呆れて物も言えない) この様に見てみると、「応永の外寇」は、正に文永の役・弘安の役に次ぐ、コリアによる3度目の対日侵略だった事が明白です。にも関わらず、それから凡そ170年後の「朝鮮征伐」(文禄・慶長の役の総称。当時の呼称は「唐入(からい)り」)を殊更(ことさら)取り上げて、日本の「朝鮮侵略」を糾弾するコリア側の態度は到底フェアとは言えません。言い方を変えれば、

先に侵略したのは貴国(コリア)の側ではないか?

共言える訳です。

は、戦(いくさ)を仕掛けておき乍(なが)ら大敗し、すごすごと引き上げていったコリアに対し、更に鞭(むち)打つが如く、「謝罪スルニダ!!」、「反省スルニダ!!」等と言う積もりはありませんが、少なく共、日本がコリアを一方的に侵略し、対するコリアは常に「被害者」であった等と言う歴史観だけは取り下げる可(べ)きでは無いのか? そう言いたい訳です。長い歴史の中で隣国同士、やった(攻めた)、やられた(攻められた)が無い方が寧(むし)ろ「奇蹟」と言えるでしょう。英仏然(しか)り。独仏然り。そして、支那(「中国」)と越南(ベトナム)然り。日本とコリアの間にだって、それはあった。その事迄(まで)も否定する積もりはありませんが、一方的にコリアは被害者、日本は加害者と言う固定観念だけでも捨て去ったら如何(いかが)なものか? そう、コリアの為政者、マスコミ、そして、国民に強く求めたいと思います。

   余談(つれづれ)

「倭寇図巻」 明末清初・17世紀
「倭寇図巻」 明末清初・17世紀 (東京大学史料編纂所所蔵)
支那大陸沿岸を荒らし回った「倭寇」を支那人画家が描いたもの。左側が明軍の兵士で、右側の「月代(さかやき)を剃った日本人」として描かれた集団が「倭寇」。然し、当時の「倭寇」の殆どが支那人だった事を考えると、日本人に成り済ました支那人だった可能性も拭い切れない。
「倭寇」と言うと、その字義から、朝鮮半島や支那大陸の沿岸を荒らし回った「日本人」海賊と言った印象を持つ方も多々おられる事と思いますが、実態は違います。彼らは単なる海賊では無く、多分に私貿易・密貿易を行う貿易商人でしたし、その構成員も、14世紀に活動していた所謂「前期倭寇」は日本人だけで無く、朝鮮人(高麗人)・支那人からなる多民族混成、16世紀に活動していた「後期倭寇」に至っては、何とその殆(ほとん)どが支那人だったと言われています。そう考えると、日本を意味する「倭」で一括(くく)りにされている「倭寇」と言う呼び方自体が、我々日本人からして見ればアンフェアと言えます。そして、こうも言えます。「応永の外寇」が起きた時代、朝鮮半島沿岸で活動していた「倭寇」は、果たして日本人単一構成だったのだろうか?と。当時の「倭寇」構成員が多民族混成だった事を考えると、倭寇討伐を名目に対馬=日本を侵略した李氏朝鮮の行動は明らかに過剰であり、逸脱した行為だったとは言えないでしょうか? 因みに、前期倭寇に参加していた日本人は、元寇=高麗襲来の際、高麗兵により虐殺された対馬・壱岐・松浦(まつら)・五島列島の住民が中心だったと言われていますし、の徐継畭(スー=ジーユ;じょ-けいよ)の『瀛環志略(えいかんしりゃく)』や李氏朝鮮の安鼎福(アン=ジュンボク;あん-ていふく)の『東史綱目(とうしこうもく)』には、

倭寇の原因は対日侵略行為を行った高麗朝鮮)人への報復である

とさえ書かれているのです。高麗が元寇高麗襲来)を行わなければ、ひょっとしたら、その後、日本人倭寇が朝鮮半島沿岸を襲う事も無かったのかも知れません。そう考えると「倭寇」による被害は、コリアの「自業自得(じごうじとく)」だった共言えるのです。(了)


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