Reconsideration of the History
144.『竹島の日』(日本)と『対馬の日』(韓国)を同列に扱う事勿れ!!(2005.4.13)

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回のコラムで、平成17(2005)年3月16日、島根県議会本会議で『竹島の日』条例が賛成多数で可決・成立した事について論じました。今現在、韓国による侵略支配を受けている「竹島」(韓国では「独島(トクト)」と呼んでいる)は、抑(そもそ)も正当な日本の領土ですから、管轄権を持つ島根県が『竹島の日』条例を施行した所で、別にどうこうと言う問題では無い筈です。しかし、これに対して、もう一方の当事者である韓国は、やれ「独島は韓国固有の領土だ!!」とか、やれ「侵略・植民地支配を正当化している!!」だとか、日本側にしてみれば辟易する様な言辞を弄し、ヒステリックに反日デモを繰り返し、日本製品不買運動に走る始末。まあ、「反日」で溜まった鬱憤をガス抜きしてきた民族ですから、今更、驚くに値しませんが、ここへ来て共同通信から以下の様なニュースが配信されてきました。

「対馬の日」条例を公布 韓国・馬山市長が決裁

共同通信

【ソウル6日共同】韓国南部の慶尚南道馬山市の黄喆坤市長は6日記者会見し、市議会が島根県議会の「竹島の日」制定に対抗して「対馬の日」条例を公布する書類を決裁したことを明らかにした。近く公報に掲載し正式発効する。

 馬山市議会は倭寇討伐を目的として対馬に大軍を送った1419年6月19日(日本でいう「応永の外寇」)を根拠に、6月19日を「対馬の日」とする条例を先月18日に可決。韓国の外交通商省は「心情は十分理解するが、不必要な混乱を誘発する可能性がある」として条例撤回を求めていた。

 馬山市は地方自治法の規定で、20日以内に公布するか議会に再審議を求めるかの選択を迫られていた。

URL:http://www.excite.co.jp/News/world/20050406132208/Kyodo_20050406a338010s20050406132210.html

詰まり、島根県による『竹島の日』条例に対して、韓国・慶尚南道(キョンサンナムド)馬山(マサン)市も『対馬の日』条例で対抗すると言っている訳です。然(しか)し、これには一つの伏線がありました。それは、韓国外交通商省が馬山市の『対馬の日』条例に対して「待った」を掛けた事です。島根県の『竹島の日』条例に対して、日本政府は韓国側の猛抗議と撤回要求にも関わらず、

「地方自治体の権限に属する問題であり、国(中央政府)は介入出来ない」
として、韓国側の要求を拒否しました。それに対して、韓国側は自らが地方自治体の制定しようとしている条例に「待った」を掛ける事で、暗に
「我々が『対馬の日』条例に「待った」を掛けたのだから、日本も『竹島の日』条例を撤回すべきだ」
と言うボールを投げてきた訳です。まあ結果的に、韓国当局の撤回要求にも関わらず、当の馬山市は条例公布を強行する様ですが・・・。扨(さて)、此処(ここ)からがいよいよ本題です。島根県の『竹島の日』と、それに対抗して制定される韓国馬山市の『対馬の日』。一見、非常によく似てはいますが、本質は正に似て非なるものと言わざるを得ません。そして、『対馬の日』にこそ、韓国のエゴが凝縮されている共言えるのです。と言う訳で、今回は、『対馬の日』を通して、常日頃から日本を糾弾して止まない韓国の「化けの皮」を剥(は)ぎ取ってみたいと思います。

故、『竹島の日』は2月22日に定められたのか? それは、明治38(1905)年2月22日の島根県告示によって竹島が正式に島根県の一部となったからです。(実際には明治維新の遙か以前から、竹島は日本が統治していたのだが) それでは、『対馬の日』が6月19日に定められた根拠は何なのか? 馬山市議会の言に従えば、それは、

世宗元(1419 日本:応永26)年6月19日、李氏朝鮮が倭寇討伐を目的として対馬に大軍を送ったから」
だそうです。この事件は、日本では「応永の外寇」(対馬では「糠嶽(ぬかだけ)戦争」、朝鮮では「己亥東征(ギヘドンジョン,きがいとうせい)」と呼んでいる)と呼ばれていますが、要は

朝鮮国軍が対馬に攻め入った日

朝鮮が対馬(=日本)を「侵略」した日

と言う事です。「倭寇討伐」にしろ何にしろ、理由は何であれ、朝鮮が対馬を「侵略」した事には変わりありません。その「侵略記念日」である6月19日を韓国馬山市は『対馬の日』に選んだ訳です。独立建国以来、一貫して日本に対して、「過去の植民地支配」・「日本軍国主義」云々と糾弾してきた韓国(の地方自治体)が、よりにもよって、自国が他国を「侵略」した日を以て『対馬の日』に定めた訳で、怒りを通り越して、最早(もはや)、苦笑すると言うか・・・呆れると言うか・・・そんな感情しか沸いてきませんし、自ら墓穴を掘って世界から失笑を買ったな、と言うのが私自身の感想です。

、何故、6月19日をして馬山市が『対馬の日』に定めたのか?と言う疑問は解けましたが、そうすると、この様な主張を日本がする事も可能となります。例えば、太閤秀吉による朝鮮征伐(「文禄・慶長の役」共呼ばれ、朝鮮では文禄の役を「壬辰倭乱(イムジンウェラン,じんしんわらん)」、慶長の役を「丁酉倭乱(ジョンユウェラン,ていゆうわらん)」とそれぞれ呼んでいる)に因(ちな)んで、小西行長(こにし-ゆきなが)麾下(きか)の一番隊(以下、「小西隊」と略)1万8700名が釜山浦(プサンポ)に上陸した文禄元(1592)年4月12日、若(も)しくは、同じく小西隊が朝鮮の首府・漢城(ハンソン;現ソウル)を無血占領した同年5月1日を記念して

『朝鮮の日』

を制定したり、又、日韓併合に因んで、明治43(1910)年8月22日の『日韓併合条約』(韓国併合に関する日韓条約)調印、若しくは、同月29日の『日韓併合に関する宣言』を記念して

『韓国の日』

を制定する事も是となります。然し、その様な事を日本がすれば、韓国(朝鮮)が一体どの様な反応を示すか? 答えは考える迄も無い事で、間違い無く強硬に反発するでしょう。とは言え、その様な事(『対馬の日』制定)を平然とやってのけているのも又、韓国である訳です。自分達がされたら顔を赤らげて罵詈雑言(ばりぞうごん)の限りを尽くして反発する癖に、同じ事を相手には平然と出来るその神経。正に厚顔無恥と言っても過言では無いでしょう。

ころで、前回のコラムの余談(つれづれ)でも触れましたが、本来、「日本の領土」であって然るべき鬱陵島(うつりょうとう,ウルルンド)の「独島博物館」(竹島博物館)の屋外展示場に

「對馬島本是我國之地(対馬島は元々我が国の地)
と大きく刻まれた標石が建立されています。何でも、李氏朝鮮第4代国王・世宗(セジョン)の事績を記した『世宗実録』第4巻の一節だそうで、その他にも、標石の左右面には、
「対馬が慶尚道に属した朝鮮の領土であり、元々、馬を育てる場所であった事を明らかにして、 倭寇の侵略によって島を奪われた」
と記した『世宗実録』第11巻・第104巻・第116巻及び、『三国史記』中の「新羅本紀」等の記述が彫られているそうです。然し乍(なが)ら対馬は、「邪馬台国」で有名な彼(か)の『魏志倭人伝』(正確には『魏志東夷伝』中の「倭人条」)にも「對馬國(対馬国)」の名で登場しており、古代から倭国=日本を構成する主要な国の一つ(古代から明治維新に至る迄、一貫して「対馬国」或いは「対州」と称された)であった事は疑う可(べ)くもありません。その「日本の領土」である対馬を、「慶尚道に属した朝鮮の領土であり、『倭寇の侵略』によって島を奪われた」等とは、これこそ正に、彼らコリアが日本を糾弾する際に用いる常套句「歴史の歪曲・捏造」に他なりません

討伐」と称して軍事侵攻したり、歴史的に見て紛(まぎ)れも無い日本の領土であるにも関わらず「元来、朝鮮領だった」等と嘯(うそぶ)く、その様な事が罷(まか)り通るのならば、文禄元(1592)年から慶長3(1598)年にかけて日本軍が朝鮮に出兵した「朝鮮征伐」や、明治43(1910)年の「日韓併合」から昭和20(1945)年の終戦(大東亜戦争終結)にかけて大日本帝国が朝鮮半島を併合統治した彼ら言う所の「日帝三十六年」、いや、それどころか遙か古代、『記紀』(『古事記』と『日本書紀』の総称)に登場する神功(じんぐう)皇后の所謂(いわゆる)「三韓征伐」説話や、高句麗長寿王2(414)年に建立され、朝鮮半島で倭国(日本)・高句麗(こうくり)両軍が戦戈(せんか)を交えた事を刻む歴史的遺物「高句麗好太王碑」を根拠に、日本が朝鮮半島全域の領有権を主張する事も充分可能となります。とは言え、この様な事を日本が真顔で主張して、韓国が受け入れるかと言えば、あり得ない話です。その様に考えれば、韓国は、本来、「日本の領土」であり乍ら占拠している竹島(旧松島)及び鬱陵島(旧竹島)の即時無条件返還、『対馬の日』廃止及び、「對馬島本是我國之地」標石撤去等、「目に見える形」で自らが犯した歴史の歪曲・捏造について反省し、日本に対して謝罪すべきものと言えます。


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