Reconsideration of the History
96.「琉求国征討」 ── 台湾領有のとんでも無い根拠 (2001.12.8)

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「中国の絶対不可分な神聖なる固有領土」。これは支那が、台湾の「領有権」を主張する時に必ず使う文句です。以前、私は『4.台湾は中国の一部ではない!』(1997.3.8)と言うコラムで、支那の台湾に対する領有権主張は不当なものであると書きました。しかし、四年を経た現在も、支那は台湾に対する領有権主張を取り下げてはいません。いや、むしろ、そのトーンを益々上げている様に思います。そこで、今回は、支那の台湾に対する領有権主張に対して、改めて反論してみたいと思います。

業6(610)年、琉求国征討。これは『隋書』の記事ですが、支那は、この中に登場する「琉求国」が台湾の事だとし、隋の時代、既に台湾は支那の領土になっていたと主張しています。いや、そればかりではありません。秦漢(前221-後8)の時代には「東【魚+昆】(こん)」、後漢・三国時代(25-280)には「夷洲」と呼んでいたとし、更には、『尚書』と言う古典に登場する「島夷」は台湾の事であり、四千年も前から台湾は支那の領土であるとまで主張し、その領有の根拠としているのです。正に驚くべき事です。しかし、「東【魚+昆】(こん)」にしろ、「夷洲」にしろ、更には「島夷」にしろ、それらが台湾を指していると言う明確な証拠は何一つありません。又、「島夷」に至っては、時には琉球(沖縄)、時には東南アジア諸国と領有権を争っている南沙諸島(スプラトリー諸島)や西沙諸島(パラセル諸島)と、その時々の政治状況に応じて、比定地をころころと変えているのです。この様な主張を信用する訳には、到底いかないのです。

湾は『尚書』の昔から、支那固有の領土である。この様な主張をする支那ですが、実は支那国内の書物には、それを肯定するどころか、逆に否定するものも多々見受けられるのです。例えば、清代に魏源が著した『聖武記』には「台湾は古(いにしえ)より支那に属せず」、同『康煕勘定台湾記』には「台湾は未だ支那の版籍に非ず」、藍鼎元 著『平台記略』には「台湾は宋元の前、ならびて人の知る無し」、施【王+良】(ろう) 著『靖海記事』には「台湾の一地は原(もと)化外(けがい:未開地)に属す。土蕃雑処して、未だ版図に入らざるなり」とし、いずれも支那固有の領土では無いと言っているのです。いや、そればかりか、『大清統一志』乾隆(けんりゅう)版に至っては、「台湾は古より荒服の地にて、支那と通ぜず、名は東蕃なり。明代の天啓年間(1621-1627)、紅毛荷蘭夷(オランダ)人に占拠さる」とし、更に続けて「台湾は元来、日本に属す」とさえ書いているのです。つまり、清代の支那に於いては、「台湾は支那固有の領土では無く、康煕帝の時代に清の領土に編入された。それ以前は、日本に帰属していた」と言った「歴史観」に立っており、これが清朝政府における「公式見解」だったと言えるのです。

て、以上の様に、台湾が「支那固有の領土」では無い事は歴然としています。だからと言って、私は『大清統一志』の記述「それ以前は、日本に帰属していた」」を楯に、台湾に対する日本の領有権を主張しよう等とは、さらさら思ってはいません。何故なら、日本は戦後、台湾の領有権を放棄しましたし、台湾の将来は現在台湾に暮らす住民自身が決める事だからです。だからこそ、台湾に対する支那の不当な領有権主張は捨て置けません。歴史的に見ても明らかな捏造であり、台湾の民意を蹂躙(じゅうりん)する様な支那の論理に対しては断固として「NO」と言うべきなのです。

後に一つ。元に戻りますが、支那が台湾に対する領有根拠の一つとして挙げている『隋書』の記述「琉求国征討」について書いてみたいと思います。

『隋書』「流求国伝」所見の「琉求国征討」記事

 〔帝紀〕
 
大業三年三月 遣羽騎尉朱寛使於流求國。
大業六年 武賁郎將陳稜・朝請大夫張鎭州撃流求破之獻俘萬七千口。
 
大業三年 拜武賁郎將。後三歳、與朝請大夫張鎭周、発東陽兵萬餘人、自義安汎海、撃流求國(陳稜傳)
 
 〔夷蛮伝〕
 
大業元年 海師何蠻等、毎春秋二時、天清風静、東望依希、似有煙之気、亦不知幾千里。
大業三年 煬帝令羽騎尉朱寛入海求訪異俗、何蛮言之、遂與蠻倶往、因到流求國。言不相通。掠一人而返。
明年 帝復令寛慰撫之、流求不従。

寛取其布甲而還。
【イ+妥】(たい)國使來朝、見之曰、「此夷邪久國人所用也」

帝遣武賁郎將・朝請大夫張鎭州率兵、自義安、浮海撃之・・・至流求。

虜其男女数千人。載軍實而還。自爾遂絶。

この「琉求国」が本当に台湾の事を指しているのか、はたまた、沖縄の別称である「琉球」の事なのかは別として、少なく共、一つだけ言える事があります。それは「征討」(ここでは、『流求国伝』所見の「撃流求國」(流求国を撃つ)を指す)と言う事は、つまり、隋 ── と言うよりも中華文明が、自らに服従しない「琉求国」に対して討伐軍を差し向け、「侵略」をしたと言う事なのです。もし、この様な論理が「領有権の根拠」となり得るのであれば、かつて、日本が「侵略」したとされる支那に対して、日本が「領有権」を主張する事も可能な筈です。しかし、現実に、この様な無茶苦茶な論理を振りかざして、日本が支那に対する「領有権」を主張したとしたら、支那を含めた国際社会は一体どの様な反応を見せるでしょうか? 答えは端から分かり切っています。この様なとんでもない論理を前提として、台湾に対する領有権を主張しているのが支那なのです。その意味では、歴史教科書問題で我が国に対して修正を要求してきたり、支那の価値観に基づく「正しい歴史認識」を強要したりと、内政干渉甚だしい姿勢で我が国に臨む前に、まず、支那自身が歴史観を改め、「正しい歴史認識」の上に立って、台湾への領有権主張を取り下げるべきとは言えないでしょうか?



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