Reconsideration of the History |
210.コリアンに問う!! 民族固有の名前を捨て去ったのは自分達ではなかったのか? (2009.6.6) |
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大韓帝国(以下、単に「韓国」と略)の首都・漢城(ハンソン;現ソウル)に於いて、寺内正毅(てらうち-まさたけ)韓国統監と李完用(イ-ワニョン)韓国首相により『韓国併合ニ関スル条約』(通称「日韓併合条約」)が調印され、実際に韓国が大日本帝国(以下、単に「日本」と略)に併合(合邦)された明治43(1910)年8月22日から、米戦艦ミズーリ号上に於いて日本政府全権・重光葵(しげみつ-まもる)外相と大本営全権・梅津美治郎(うめづ-よしじろう)陸軍参謀総長が連合国に対する降伏文書に調印、日本の朝鮮半島統治が名実共に終焉(しゅうえん)した昭和20(1945)年9月2日迄の期間を、コリアでは大日本帝国による植民地支配 ── 「日帝36年支配」(実際には「35年と11日間」なのだが、彼らは「36年」と称している) ── と称しているのですが、その日本統治の罪状として挙げている「日帝七奪」の一つに「創氏改名」を挙げています。即(すなわ)ち、「創氏改名」とは、朝鮮人が名乗っていた民族固有の姓名を、日本式の名前に無理矢理改めさせられたもので、自分達の朝鮮民族としての誇りとアイデンティティを奪ったと言うものです。然(しか)し、果たしてコリア人が主張する事は本当に正しいのか? 私から見れば、数ある「日帝七奪」の中でも「創氏改名」程(ほど)、欺瞞に満ちた「言い掛かり」は無いですし、抑(そもそ)も日本が「創氏改名」する遙か以前、既に「創氏改名」が為されていたでは無いか、と反論せざるを得ないのです。と言う訳で、今回は日本の罪業(ざいごう)の一つとされる「創氏改名」に付いて書いてみたいと思います。
先(ま)ず、第一に指摘しなければならない事があります。それは「創氏改名」 ── 朝鮮人が名乗っていた民族固有の姓名を、日本式の名前に無理矢理改めた ── を日本は強制して等いなかったと言う事です。その最たる根拠の一つが日本軍人、然(しか)も将官となった朝鮮人の中に、朝鮮名で通した者が少なからず居(い)た事です。例えば、昭和21(1946)年9月26日、マニラに於いて連合国により戦犯として処刑された洪思翊(ホン-サイク,こう-しよく)陸軍中将や、満州国建国に関わり満洲国共和会にも参加した白洪錫(ペク-ホンソク,はく-こうしゃく)陸軍少将、帝国軍人に対する最高の栄誉、金鵄(きんし)勲章を授与された金錫源(キム-ソグォン;金山錫源 かねやま-しゃくげん)陸軍大佐等。彼らは「天皇陛下の軍隊」である皇軍(日本軍)に於いて朝鮮民族固有の姓名の儘(まま)、幹部に迄登った訳で、若(も)しも、「創氏改名」が強制的だったとしたら説明が付きません。又、帝国議会に於いても、昭和7(1932)年の衆議院議員選挙に東京4区より出馬し当選、代議士を2期務めた朴春琴(パク-チュングム,ぼく-しゅんきん)や、貴族院の朝鮮勅任(ちょくにん)議員 ── 「勅任」とは即ち天皇陛下により任命された事を意味する ── となった韓相龍(ハン-サンリョン,かん-そうりゅう)伯爵・李埼鎔(イ-ギヨン,り-きよう)等の人士が居(お)りました。これらを一体どう解釈すれば良いのでしょうか? 詰まり、「創氏改名」とは、朝鮮人が日本式の名前を名乗る事を「許可した」と言う意味であり、「強制した」訳では無かったと言う事なのです。
「日帝時代」に朝鮮式の姓名を貫いた洪思翊・陸軍中将(左)、朴春琴・衆議院議員(中)、韓相龍・貴族院議員(右)の朝鮮民族三人士。彼らの存在こそ名前を日本式に改めたとされる「創氏改名」が強制で無かった事の証左である。 |
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「創氏改名」を促すチラシ。文面を読むと分かる事だが、朝鮮式の「姓」を其の儘、「氏」とする事が認められている。決して日本式の名前を強制して等いないのだ。(「民族問題研究所(韓国)『植民地朝鮮と戦争美術』(2004年)」より) |
ところで、皆さんはコリア人の姓の種類がどれ位あると思いますか? 実はたったの250程しかありません。日本の苗字が29万超あるのに比べると余りにも少なく、第1位の「金(キム)」姓だけで韓国人口の2割、上位5位で5割、上位20位に拡大すると何と8割を占めるのです。
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そのコリア人の姓ですが、皆さん、何かお気付きではありませんか? 実はその殆(ほとん)どが「一字姓」なのです。「二字姓」も無い訳ではありません。「南宮(ナムグン)」・「鮮于(ソヌ)」・「諸葛(チェガル)」・「皇甫(ファンボ)」・「独孤(トッコ)」・「司空(サゴン)」・「東方(トンバン)」・「西門(ソムン)」等がそれですが、圧倒的に少数派で出会う事の方が稀(まれ)です。そして、一字姓を見てみると、再び気付く事があります。例えば、「劉(ユ,リュ)」・「゙(チョ)」(「曹」の朝鮮に於ける異体字)・「孫(ソン)」・「李(イ,リ)」・「趙(チョ)」。これらは支那に於ける時代々々の国姓 ── 王家の姓(劉は漢朝、曹は三国魏、孫は三国呉、李は唐朝、趙は宋朝) ── なのですが、その他の姓も読み方(発音)こそ異なるものの、概(おおむ)ね支那人の姓と共通するものばかりなのです。これは一体どう言う事でしょう?
現代コリア人の姓は一字姓がその殆どを占め、更に支那人の姓と共通するものばかり。然し、昔からそうだった訳ではありません。朝鮮半島が新羅(しらぎ,シルラ)によって統一(676年)される以前の昔 ── 朝鮮半島に於ける三国時代(高句麗・百済・新羅) ── には複数字姓が存在していたのです。例えば、百済(くだら,ベグジェ)王家の姓は通常、一字の「余」(餘)とされていますが、正式には二字の「扶余」(プヨ,ふよ 扶餘)ですし、百済王を支えた臣下には、憶礼(おくらい)・鬼室(きしつ)・黒歯(こくし)・木羅(もくら 木пE木弼)・姐弥(さみ)・真慕(しんぼ)・阿乇(あとく)・汶休(もんく)と言った二字姓の者が名を連ねていました。又、伊梨柯須弥(いりかすみ)・伊梨渠世斯(いりこせし)・都須流金流(つするこむる)と言った現代コリア人とは明らかに異質な百済人の姓名が『日本書紀(やまとのふみ)』に残されています。他にも、任那(みまな)の蘇那曷叱智(そなかしち)・親智周智(しんちしゅうち)・己能末多(このまた)や、高句麗(コクリョ,こうくり)の久礼波(くれは)・久礼志(くれし)・須流枳(するき)・奴流枳(ぬるき)、新羅の微叱己知波珍(みしこちはとり)・毛麻利叱智(もまりしち)・伊叱夫礼智(いしふれち)等々。詰まり、古代の朝鮮半島では、現代コリア人に於ける「マイノリティ」の二字姓(を含む複数字姓)が主流だったと言う事になります。(詳しくは、末尾の「『日本書紀』に散見する朝鮮半島人の名前」を参照の事) それでは、何時頃(いつごろ)、コリア人の姓が一字になったのでしょうか?
コリア人の姓が二字から一字になったのは何時頃なのか? その答えは新羅が握っていました。前述の様に、新羅に於いても、微叱己知波珍(みしこちはとり)と言った現代コリア人とは異質の名前が存在していましたが、時代が下るにつれ、一字姓が増えていきます。そして、西の百済(660年)、北の高句麗(668年)を相次いで滅ぼし、遂に朝鮮半島が新羅一国によって統一されます。これが所謂(いわゆる)「統一新羅」なのですが、百済・高句麗の滅亡は新羅一国によって成し遂げられた訳ではありません。新羅は当時、東アジアに於ける超大国であった唐(支那)の全面的支援を受け、圧倒的な唐の軍事力を頼りに百済・高句麗を滅ぼしたのです。その為、唐にして見れば、百済・高句麗を滅ぼしたのは自分達、唐の功績。新羅は単なる「後方支援」でしか無く、新羅を含む朝鮮半島全域の支配権は唐にあるものと認識していました。それが証拠に、唐は新羅の事を「新羅国」では無く、唐の一地方行政地域「新羅郡」としてしか扱わず、その君主も「楽浪(らくろう)郡王・新羅王」の称号を以て呼びました。これに対して、新羅は当初、朝鮮半島の支配権を巡って抵抗しましたが、相手は超大国の唐。到底、軍事力では勝ち目はありません。其処(そこ)で、唐の属国(唐から見れば属領)に成り下がる事を飲み、独立国の証(あか)しであった新羅独自の元号を放棄、唐の元号と法制を受け入れ、唐への臣従を誓ったのです。此処(ここ)に、次代の高麗(コリョ,こうらい)・李氏朝鮮(李朝)と続く「中華」(支那)への従属関係が成立。以後、1897年の「大韓帝国」独立迄、実に1200年の長きに及んで、朝鮮半島は歴代支那王朝の支配を甘受する事となったのです。そして、この時、新羅は独自の元号・法制だけでは無く、自分達民族のアイデンティティを揺るがす一大変革を断行しました。それは、従来、朴(パク)・昔(ソク)・金と言った王侯貴族にしか見られなかった一字姓を、国民全体に迄拡大。
国民総出で支那風の一字姓に改める、文字通りの「強制的な創氏改名」
(創姓改名)を行ったのです。詰まり、この時(統一新羅時代)、其れ迄使われてきた民族固有の姓名が完全に捨て去られ、新たに支那風の姓名が名乗られる様になった事で、現代コリア人の姓は殆どが一字姓になってしまったと言う事なのです。それに比べると「日帝時代」、新たに戸籍上の「氏(うじ)」を創(つく)るに際して、日本風の氏(苗字)だけで無く、朝鮮の「姓(かばね)」を其の儘(まま)「氏」に用いる事を認めた日本の政策の何とも寛容だった事か。
繰り返しますが、コリア人が「日帝七奪」の一つに挙げる「創氏改名」は、「許可制」であり決して「強制」ではありませんでした。そして、日本による「創氏改名」を遡(さかのぼ)る事、1200年も昔の統一新羅に於いて、民族固有の名前を自ら捨て去る「強制的な創氏改名」が為されました。コリア人が殊更(ことさら)、日本の「創氏改名」を糾弾するのならば、何故、民族固有の姓名を支那風に改めさせられた統一新羅による「強制的な創氏改名」を話題にしないのか? その矛先を唐 ── 支那(中国)に向けないのか? 更に言えば、支那風の姓名を今尚、名乗っている事に何ら抵抗も疑問も抱かず、「大韓帝国」の独立や、「日帝」からの独立の際にも、自分達民族固有の姓名を復古しようと言う運動が見られなかった事。私はとても不思議でなりません。この私の疑問に答えられるコリア人が果たしているのか否か分かりませんが、コリア人と言葉を交わす機会があれば、是非共、質(ただ)してみたいですね。
余談(つれづれ)
蒙古服属以降の高麗王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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私は高麗王が高麗名の他に蒙古名を持っていた、その事を咎(とが)める積もりは毛頭ありませんが、其れを根拠にコリア人が蒙古人に「恨(ハン)」を抱いていると言った話を、とんと耳にした事がありません。中宗忠烈王以降は代々、元朝帝室から公主を王妃として迎え、代を重ねるにつれて名前ばかりで無く、其の血脈迄蒙古化していったにも関わらずです。それに対して、日本は大韓帝国を保護国化した後も、高宗太皇帝(コジョン 徳寿宮李太王)・純宗孝皇帝(スンジョン 昌徳宮李王)、そして、梨本宮方子(なしもとのみや-まさこ)女王殿下をお妃(きさき)に迎えられた懿愍太子(英親王李垠殿下 イ-ウン,りぎん)に至る迄、日本名を強(し)いた事は一度たり共無いのです。
唐(支那)や元(蒙古)が宗主国であった時代の「創氏改名」は問題視されず、殊更、日帝時代の「創氏改名」、然(しか)も「強制」では無く、飽く迄も「許可制」であった「創氏改名」を問題視するコリアの姿勢には辟易させられますし、其れ程、民族固有の名前に拘(こだわ)るのなら、1200年前に遡って「復古姓名」でも何でもしたら如何(どう)だろうと思うのですが・・・。 (了)
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