Reconsideration of the History
244.河村たかし名古屋市長は正しい! くどいようだが「南京大虐殺」等無かった!! (2012.3.10)

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左から金日成・金正日・金正恩
河村たかし名古屋市長を表敬訪問した劉志偉南京市委員(左)
平成24(2012)年2月20日、名古屋と友好都市関係を結んでいる「中国」南京市の劉志偉(リウ=チーワイ)中国共産党南京市委員会常務委員ら訪問団一行が名古屋市役所に河村市長を訪ねた。この際、河村市長が発した「爆弾発言」がその後、大きな問題として発展していく事となった。
の発端は日本有数の大都市首長のざっくばらんな発言でした。そして、それは、平成24(2012)年2月20日、名古屋市と友好都市関係を結んでいる「中国」(支那)は南京市から、劉志偉(リウ=チーワイ)中国共産党南京市委員会常務委員を団長とする訪問団が、名古屋市役所に河村たかし市長を表敬訪問した際に起きました。河村市長と劉委員が互いの名刺を交換し、両者和(なご)やかな雰囲気の中、「あの」河村市長がやおら「爆弾発言」をしたのです。曰(いわ)く、

「(南京では)通常の戦闘行為があったのは残念だが、南京事件(所謂「南京大虐殺」)はなかったのではないか?」

と。そして、河村市長は父親の河村テ男(かねお)が帝国陸軍第101師団歩兵第101旅団の伍長として支那大陸で終戦を迎え、その後、南京市内の仏教寺院、栖霞寺(せいかじ) ── 此処(ここ)は昭和12(1937)年の日本軍による南京攻略戦の際、2万人もの難民が避難した寺としても知られている ── に暫く滞在した折りの話として、

「(南京)事件から8年しか経(た)っていないのに、南京の人達は日本の軍隊に優しくしていたのは何故か?」

と付け加えました。この河村市長の発言に対し劉委員は苦笑いし、

「南京の人々は平和を熱愛している。我々は歴史を学び、何時迄(いつまで)も恨みを持ってはならない」

と述べるに留めましたが、河村市長は更に、

「南京で歴史に関する討論会をしても良い。私は南京の人に感謝している。互いに言う可(べ)き事を言って仲良くしていきたい」

共述べました。まあ、「あの」河村市長の発言ですから特段悪意があった訳でも無いでしょうし、思った事を其の儘(まま)ストレートに述べたに過ぎなかったのでしょうが、この発言は、その後、両国に大きな波紋を広げていく事となります。

村発言を知った「中国」のネットユーザーやメディアは、劉委員を会談で「弱腰」な対応を取ったとして猛烈にバッシング。(劉委員には何とも気の毒な話だが) そして、翌21日には、南京市が名古屋市との交流の一時停止を発表、河村市長に対し発言の撤回と謝罪を要求してきました。これに対し、所謂「親中」(実際には「中国」に媚(こ)び諂(へつら)う「媚中」なのだが)派で、お膝元名古屋に在る大村秀章・愛知県知事、中日新聞が反河村発言や報道を展開。兎(と)に角、「南京大虐殺」の事実は二の次に、

中国様がお怒りで御座います

と恐懼(きょうく)、河村市長に対して南京市当局の「鸚鵡(おうむ)返し」よろしく発言の撤回(大村知事は発言の「修正」と言った表現をしていたが、実際には「撤回」と同義である)と謝罪による交流再開を要求したのです。とは言え、相手は「あの」河村市長です。本論を発表した今日現在、謝罪はおろか自身の発言の撤回に対しても拒否。今迄、河村市長の事を良く思っていなかった人達の間にすら、今回の発言に対し拍手喝采を送る風潮が生まれ、一気に「男」を上げた感があります。(因(ちな)みに、河村氏が公の場で「南京大虐殺」を否定したのは今回が初めてでは無い。昨年(平成23=2011年)12月5日、李g(リー=チー)南京市副市長と会談した折にも否定発言をしている)

(さて)、私は平成12(2000)年発表の小論『83.「日本軍国主義」の象徴 ── 「南京大虐殺」等あり得ない!!』に於いて、「中国」が喧伝し、朝日新聞を筆頭に日本国内の親中派が尻馬に乗って煽(あお)っている所謂「南京大虐殺」が虚構(フィクション)である事を論じました。そして、その思いは発表から12年経つ現在も何ら揺らいではいません。実際、この間、「中国」が主張する「日本軍による市民3O万人の虐殺」が白髪三千丈よろしく到底あり得ない数字である事は、日本国内に於いて一般にも定着しましたし、最近では肯定・支持派が分(ぶ)が悪くなった為か、市民(民間人)虐殺から捕虜に対する虐殺へと論旨をすり替えている共聞きます。そこで、先ずは、改めて復習の意味も含め、「南京大虐殺」が虚構である理由からを大まかに説明しましょう。

「南京大虐殺」の被害者数は、「中国」が喧伝している「30万人」以外にも、東京裁判(極東国際軍事裁判)では「員数不詳な数万」・「概略26万人」・「数万」・「我が同胞27万9586人」等とちぐはぐな主張が検察側から為され、判決文に於いても「総数は20万人以上であった」・「十万人以上の人々が殺害され」等と矢張りちぐはぐ。結局、連合国の日本に対する私刑(リンチ)でしか無かった「東京裁判」に於いて、虚構である「南京大虐殺」の被害者数を立証確定する事等出来なかった訳です。まあ、それもその筈で、昭和12(1937)年時点での南京の人口は外国人記者の記録で15万人、最も多く見積もっても25万人だったとされ、その内の3万人から5万人は籠城していた国民党蒋介石軍の将兵。詰まり、市民自体は概ね20万人だったと言う事になります。ところが、「中国」は30万人も虐殺されたと喧伝しています。それでは、実際の人口20万人と虐殺されたと言う30万人の差である10万人はどう考えれば良いのでしょう? 然(しか)も、12月13日の南京陥落から僅(わず)か一ヶ月後の調査で人口は25万人。実際の人口を大きく上回る30万人が虐殺され人っ子一人いなくなった南京に、僅か一ヶ月で25万人もの人々が余所(よそ)から移住してくるでしょうか? 何と言っても、同胞30万人を虐殺した日本軍が占領し続けているにも関わらずです。到底あり得ない話です。そう考えれば、陥落時よりも人口が5万人増えた理由は一つ。「南京大虐殺」等無かった。日支両軍の戦闘で避難していた住民が、日本軍による占領で治安が回復した南京に戻ってきた事と、新生児の出生により5万人増加したと考えるのが妥当である訳です。他にも「南京大虐殺」に対する疑問はあります。一体どうやって膨大な人数を殺害したのか? 例えば、「中国」主張する所の30万人を銃殺したとして、一人に銃弾一発消費したとしても、それだけで30万発。いやいや、銃剣で刺殺するなり軍刀(日本刀)で斬殺したとしても、たった数人殺(あや)めただけで、刀が刃毀(はこぼ)れにより使い物にならなくなる事を考えれば、一体どれだけの刀を消費したのか? 縦(よ)しんば、膨大な人数を殺害したとして、死体はどう処理したのか? その辺りにほったらかしにしておけば、間違い無く腐敗により市内の衛生状態は悪化、疫病蔓延の元となります。それが30万人共なれば尚の事、自分達(日本軍)の安全の為にも、死体を何らかの方法で処理しなくてはなりません。然し、そんな事に時間と労力を費やしていれば、敵(国民党軍)との戦いどころではなくなります。結局の所、実際に30万人にしろ其処(そこ)迄いかないにしろ、途方も無い人数を虐殺した場合、メリットよりも遙かにデメリットの方が大きく、やるだけ無駄と言う結論に達します。寧(むし)ろ市民を虐殺する位なら、生命の安全を保障した上で懐柔し、日本軍に協力させる事の方が余程(よほど)、利口な人間のする事です。詰まり、ごく普通に考えただけでも、如何(いか)に「南京大虐殺」があり得ない話であるかがお分かりでしょう。それでも、「中国様の仰有(おっしゃ)る事が正しい」と言うのであれば、其れは最早(もはや)一種の「宗教」、いや「カルト」と言っても差し支(つか)え無いのではないでしょうか?

ころで、最近では「南京大虐殺」肯定派は前述の通り、「市民に対する虐殺」から「捕虜に対する虐殺」へと論旨をすり替えてきています。其処で言われるのが、降伏投降してきた国民党軍兵士や便衣兵を日本軍が虐殺した、と言うものです。『ハーグ陸戦法規』では、戦闘に参加する者は必ず相手から兵士と一目で分かる恰好 ── 詰まり軍服を着用していなければならないとされている。「便衣兵」とは民間人の恰好で戦闘行為に及ぶ者で所謂「ゲリラ」である。正規兵は投降した場合、原則として捕虜としての待遇を保障されるが、便衣兵はその限りでは無い) 詰まり、彼等は市民だろうが、兵士だろうが殺害した行為自体がけしからんと言っている訳です。然し、戦時国際法に於いて違法である便衣兵は捕虜としての正当な待遇を保障されませんから、其れこそ「煮るなり、焼くなり」如何様(いかよう)にされようと文句は言えない立場ですから、当時の日本軍が問答無用で処刑したとしても、其れを非難する事は出来ません。では、もう一方の正規兵に付いては如何(どう)か?と言う事になります。「南京大虐殺」に付いては、降伏投降してきた国民党軍兵士(正規兵)を殺害した行為も戦争犯罪であると言います。然し、降伏投降したからと言って捕虜としての待遇が保障されるかどうかは、残念乍(なが)ら相手の出方一つにかかっているとしか言いようが無いのが実情です。

満州国南部に広がる緩衝地帯(『大東亜戦争への道』より)
満州国南部に広がる緩衝地帯(『大東亜戦争への道』より)
北支、満洲国と中華民国の緩衝地帯として昭和10(1935)年に成立した冀東(きとう)防共自治政府の首都、通州で昭和12(1937)年7月29日、事件は起きた。反乱を起こした自治政府保安隊が日本軍守備隊が駐屯していた通州城を襲撃。兵士だけで無く日本国籍居留民260名を虐殺した。この事件により日本国内の対支那感情が急速に悪化した。事件後、反乱軍は鎮圧され、自治政府より日本側に正式な謝罪と120万円の賠償金が支払われて決着したが、現在、日本はおろか、当の「中国」ですら、この事件は教えられていない。因みに、この虐殺事件は「中国」が糾弾して已(や)まない所謂「南京大虐殺」の5ヶ月も前の出来事である。
通州事件で虐殺された日本人男性
通州事件で虐殺された日本人男性
済南事件で虐殺された日本人男性(上)
2枚ある内、上の白黒写真は、昭和3(1928)年5月3日に起きた済南事件の際、国民革命軍(蒋介石軍)兵士によって虐殺された日本人男性の死体を検分している場面を収めたものだが、これが「中国」(支那)の手に移ると、何時(いつ)の間にか旧日本軍731部隊による支那人男性に対する細菌実験の場面にすり替わっている。(下のカラー写真は、731部隊記念館に展示されている蝋人形) こう言う事こそ「歴史の歪曲・捏造」と言うのだ。
えば、嘗(かつ)ての日本陸軍に於いて知らぬ者が居ない程(ほど)有名な訓令がありました。その名を『戦陣訓』と言いますが、その中の一節に、

「生キテ虜囚(りょしゅう)ノ辱(はずかしめ)ヲ受ケス(ず)、死シテ罪禍(ざいか)ノ汚名ヲ残スコト勿(なか)レ」

と言うものがあります。此(これ)は、敵に降伏し捕虜となる可(べ)からず、潔(いさぎよ)く自決す可し、と言う事を兵士に強(し)いたのだと言う人がいますが、実際は違います。日清戦争(明治27(1894)年7月-翌明治28(1895)年3月)の際、清国兵に捕らえられた日本兵は捕虜としての待遇を受けるどころか、逆に極めて残虐な形で処刑されました。その実情を踏まえて、当時の第一軍司令官・山縣有朋(やまがた-ありとも)

「敵國側ノ俘虜(ふりょ)ノ扱ヒ(い)ハ極メテ殘忍ノ性(しょう)ヲ有ス。決シテ敵ノ生擒(せいきん)スル所トナル可(べ)カラス(ず)。寧(むし)ロ潔(いさぎよ)ク一死ヲ遂ケ(げ)、以(もっ)テ日本男兒(だんじ)ノ気象ヲ示シ、日本男兒ノ名誉ヲ全(まっと)ウセヨ」

と述べています。これが上記『戦陣訓』の一節の元となったと言われていますが、それ以外にも、「南京大虐殺」に先立つ事9年前の昭和3(1928)年5月3日に起きた「済南事件」では、現に蒋介石率いる国民革命軍(南軍)兵士による日本人居留民虐殺事例(死者12(男10、女2)、負傷後死亡した男性2、暴行侮辱を受けたもの30余、陵辱2他)が見られましたし、「南京大虐殺」と同じ年の7月29日に起きた「通州事件」(通州大虐殺)では、冀東(きとう)防共自治政府保安隊(支那兵)が北平(北京)の東方、日本軍守備隊が駐屯していた通州を襲撃し、日本軍の留守部隊兵は言うに及ばず、其処に居た日本国籍居留民(日本人及び朝鮮人)260名 ── 詰まりは民間人でさえ極めて残虐な方法で殺害した「前科」(下記証言参照)や、更に古来より支那には身の毛もよだつ「凌遅(りょうち)」 ── 罪人を大の字に仰向けに寝かせる等して、一寸毎(ごと)に手足を切り刻んでいく極刑。罪人は初め手足の指を関節部分で切断され、次いで手足本体を切り刻まれ、体から手足が無くなると、更に体を切り刻まれていく。部位を切断される度に失神するが、再び切断されると意識が覚醒する。その繰り返しで、長時間苦痛に喘(あえ)ぐ事になる。手足が体から無くなったからと言ってもなかなか死ねず、最後は骨盤を粉砕されて漸(ようや)く絶命したと言う例もある。尚、清末には、左右の胸口(みぞおち)、左右の二頭肌(上腕筋)、左右の大腿(ふともも)、肘(ひじ)より先、次いで膝下の順に切断し、最後に首を斬り落とす、と言った具合に簡略化された ── と言う残虐な処刑法迄あった位ですから、敵に捕まり長時間苦痛を伴う形で処刑される位ならば、思い切って自決した方がましだと言う思想が生じても、まあ当然と言えば当然でしょう。(映画『戦場にかける橋2/クワイ河からの生還』では、日本軍将校により英軍捕虜が軍刀で斬首されるシーンがあったが、支那人の処刑・虐殺方法に較(くら)べれば、一瞬の内に絶命する斬首刑の方が遙かに「人道的な処刑法」と言えるだろう)

     ◆昭和3(1928)年5月 済南事件 目撃者口述書 (抜粋)◆

   1.佐々木中佐の証言
「予は病院において偶然その死体の験案を実見したのであるが、酸鼻の極だった。手足を縛し、手斧様の物で頭部・面部に斬撃を加え、或(あ)るいは滅多切りと為(な)し、婦女は全て陰部に棒が挿入されてある。或る者は焼かれて半ば骸骨となっていた。焼け残りの白足袋で日本婦人たる事が分かる様な始末である。我が軍の激昂(げきこう)はその極に達した」

   2.外務省公電
「腹部内臓全部露出せるもの、女の陰部に割木を押し込みたるもの、顔面上部を切り落としたるもの、右耳を切り落とされ左頬より右後頭部に貫通突傷あり全身腐乱し居れるもの各一、陰茎を切り落としたるもの二」

     ◆昭和12(1937)年7月 通州事件 目撃者口述書 (抜粋)◆

   1.桜井文雄・支那駐屯歩兵第二連隊小隊長の証言
「『日本人は居(い)ないか』と連呼しながら各戸毎に調査してゆくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の屍体が其処々々(そこそこ)の埃箱(ちりばこ)の中や壕(ほり)の中等から続々出てきた。
 ある飲食店では一家悉(ことごと)首と両手を切断され惨殺されていた。婦人という婦人は14、5歳以上は悉く強姦されて居り、全く見るに忍びなかった。
 陰部に箒(ほうき)を押し込んである者、口中に土砂を詰めてある者、腹を縦に断(た)ち割ってある者等、見るに堪(た)えなかった。
 東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせて其れに八番鉄線を貫き通し、一家6名数珠繋(つな)ぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。池の水は血で赤く染まっていたのを目撃した」

   2.萱島・天津歩兵隊長の証言
「旭軒と言う飲食店に入ると、40から17、8歳迄の7、8名の女が皆裸体にされた上で強姦され、陰部を露出した儘(まま)射殺されて居(お)り、その中の4、5名は陰部を銃剣で突き刺されていた。商館や役所に残された日本人男児の屍体は殆(ほとん)ど全(すべ)てが首に縄を付けて引き回した後があり、血潮(ちしお)は壁に散布し、言語に絶したものだった」

   3.桂鎮雄・第二連隊歩兵隊隊長代理の証言
「近水楼入口で女将(おかみ)らしき人の屍体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙が掛けてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥(は)がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、四つ五つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物で抉(えぐ)られたらしく血痕が散乱していた。
 帳場(ちょうば)や配膳室は足の踏み場もない程(ほど)散乱し、掠奪(りゃくだつ)の跡をまざまざと示していた。女中(じょちゅう)部屋に女中らしき日本婦人の四つの屍体があり、皆藻掻(もが)いて死んだ様だった。
 一年前に行った事のあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸(すっぱだか)の女の屍体があった。その裏の日本人の家では親子2人が惨殺されていた。子供は手の指を揃えて切断されていた。
 南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の屍体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内蔵が散乱していた」

詰まり、「中国」は虚構の「南京大虐殺」を持ち出してきますが、その「中国」の方こそ、日本軍兵士はおろか民間人(日本国籍居留民)にさえ極めて残虐な戦争犯罪を行っていた訳であり、此が彼等言う所の「人道に対する罪」で裁かれない事の方が寧ろ私に言わせれば不思議でなりませんし、実際に断罪される可きでは無いのか? そう、私は思う訳です。加えて、先の大戦を繙(ひもと)けば、ソ連による戦争終結後の日本軍兵士シベリア抑留も「捕虜虐待」の部類ですし、戦時中の米軍にしても、投降した日本兵を捕虜として遇する事無く、問答無用で射殺した例は幾らでもあります。其れを一方的に日本だけ断罪しようと言うのは、正直フェアとは言えません。

「南京事件」に付いて、私は民間人に全く犠牲者が出なかった等と言う積もりは毛頭ありません。実際に便衣兵として疑われ殺害された民間人も残念乍ら居た事と思います。然し、半ば真実の如く一人歩きしている「30万人虐殺」等は到底あり得ない数字ですし、それをきちんと事件を検証し、互いに討論しようと促した河村市長の発言は非難されるどころか、寧ろ正当に評価されて然る可きものであると私は考えます。縦(よ)しんば、その民間人犠牲者に付いて「数では無い。30万人だろうが、1人だろうが関係無い」と言うのであれば、イラクやアフガニスタンでの対テロ戦争で多くの民間人を誤爆、誤殺している米軍等はとうの昔に「人道に対する罪」で裁かれていなくてはならないでしょう。然し、米国が其の責めを負ったと言う話は今に至る迄とんと聞いた事がありません。はてさて、何故でしょう?

の様に考えると、何が何でも「南京大虐殺」で日本を貶(おとし)めようとしている日本内外の輩(やから)は、旧日本軍以外の「戦争犯罪」に対しては見て見ぬ積もり。まるで目も呉(く)れず、例えれば、同じ捕鯨国であり乍ら、かたや有色人種の日本は攻撃し、かたや同じ白人のノルウェーに対してはスルーする国際反捕鯨団体と言う名のテロリスト「シー-シェパード」と似たりよったりだと言えますし、日本が何時迄(いつまで)も「中国」 ── 中国共産党政権 ── の振りかざす「南京大虐殺」に付き合う必要等無いのです。そして、余りにもグダグダと相手が言ってくる様であれば、彼等にとって極めて都合が悪い問題を蒸し返す。その位の事を日本はもっと積極的にしても良いのでは無いか? そう私は思いますし、今の日本には第二、第三の「河村たかし」が必要なのでは無いかと思うのです。(了)


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