Reconsideration of the History
83.「日本軍国主義」の象徴 ── 「南京大虐殺」等あり得ない!! (2000.12.8)

前のページ 次のページ


南京に入城する日本軍 和21(1946)年、東京市ヶ谷に開廷された「極東国際軍事法廷」 ── いわゆる「東京裁判」において、突如降って沸いたが如く、取り上げられた「日本の戦争犯罪」がありました。いわゆる「南京大虐殺」 ── 「南京事件」・「南京大屠殺」(支那側の呼称)共呼ばれる「事件」です。この「事件」は現在も、「南京を占領した日本軍が市民30万人を虐殺した」等と言われ続けており、「日本軍国主義」が起こした残虐行為の象徴(シンボル)として、支那にとっては、日本を断罪する際の有力な「カード」(政治的・外交的な道具)、左翼・反日日本人達にとっては、自虐史観を支える上での有力な「証拠」として使われています。しかし、敢えて言いましょう。そもそも、「南京大虐殺」等と呼ばれる「事件」は、当時の南京では起きていない ── つまり、「南京大虐殺」等と呼ばれる「事件」は、支那による意図的な「歴史の捏造」だと。と言う訳で、今回は、事ある毎に「正しい歴史認識」を主張して止まない支那による「歴史の捏造」 ── 虚構の「南京大虐殺」について書いてみたいと思います。(写真は、南京に入城する日本軍)

「南京大虐殺」。昭和12(1937)年12月13日、松井石根(いわね)・陸軍大将率いる日本軍が、南京城を陥落させた際、市民「30万人」を虐殺したと言われる事件。しかし、日本軍は本当に「30万人」もの南京市民を虐殺したのでしょうか? 実は、「東京裁判」において断罪された被害者数一つ採っても、「南京大虐殺」があまりにも「虚構」である事が分かるのです。この時、検察側が起訴状や陳述等に挙げた数字は、「員数不詳な数万」・「概略26万人」・「数万」・「我が同胞27万9586人」・「被殺害者確数34万人」・・・。そして、判決文でも、「総数は20万人以上であった」・「十万人以上の人々が殺害され」・・・。つまり、「虐殺」されたと称する南京市民の数が確定されていないのです。更に言えば、東京・世田谷区とほぼ同程度の面積だった、当時の南京の人口は、外国人記者の記録で15万人、最も多く見積もっても25万人だったとされ、その内、国民党軍蒋介石軍)の兵数が3万から5万人。と考えると、「市民」の数は20万人前後と言うのが妥当な数なのです。ここで、「30万人」と言う主張は早くも崩れ去ってしまいました。そして、更に追い打ちを掛けるのが、「大虐殺」後の南京の人口推移です。陥落直後の人口が20万人。しかし、その一ヶ月後には25万人と、何と5万人も増えているのです。もし、「大虐殺」が事実だとしたら、虐殺で当時の市民全員(20万人)が死んだ一ヶ月後に、各地から被害者数を上回る25万人もの人間が南京に移ってきた事になります。普通、一般的に考えてこの様な事があり得るでしょうか? 更に言えば、一口に「30万人」(別に「20万人」でも良いが)もの市民が虐殺されたと言いますが、例えば、日本軍が市民一人に対して、銃弾を一発使って殺害したとしましょう。すると、「30万人」で、実に銃弾「30万発」を消費した事になります。戦略物資が不足気味だった当時の日本軍が、市民を「虐殺」する為に、貴重な武器弾薬を「浪費」するでしょうか? 考えても見て下さい。戦時中、金属が不足して、お寺の梵鐘(かね)迄供出させた様なご時世です。国民党軍との戦闘ならともかく、「非戦闘員」である南京市民の虐殺の為に、武器弾薬を浪費する事等、到底あり得ないのです。

「南京大虐殺」は無かった!! 次に不自然な点は、「大虐殺」が起きたとされる当時、国民政府蒋介石政府)から国際連盟に対して、ただの一回も「提訴」されていないと言う事実です。もし、本当にその様な「大虐殺」があったのであれば、日本軍の攻勢で苦境に立たされ、首都を南京から内陸部の重慶に遷さざるを得なかった蒋介石にとって、国際社会に日本への「圧力」を強化させる絶好の「材料」(カード)になった筈です。しかし、蒋介石は、「南京大虐殺」の「な」の字も主張していないのです。又、南京攻略戦当時、現地に入った百人以上の従軍カメラマン・記者・文化人等の誰一人として、「大虐殺」について報告していないと言う事実です。イラク空爆やユーゴ内戦を見ても分かる様に、カメラマンや記者と言ったジャーナリストは、誰よりも早く「スクープ」をモノにしたいものです。もし、「大虐殺」が実際に行われたのであれば、「我先に」とスクープ合戦をするのが普通です。しかし、実際には、彼らは何一つ、報告していない・・・。やはり、考えられる事は一つ。「南京大虐殺」は無かった!!と言う事なのです。

「南京大虐殺」は無かった!! その最大の根拠、それは、「大虐殺」と言う行為そのものなのです。「南京大虐殺」の事を支那は「南京大屠殺」と呼んでいます。「屠殺」です。

 屠殺 (鳥獣等の)体を切り裂く。切り殺す。屠(ほふ)る。
そして、「屠殺」と称する支那には、古来より「屠城」なる思想があるのです。「屠城」 ── 文字通り、「城を屠る」事で、敵の城を陥落させた場合、敵対した軍隊は言うに及ばず、その城内(市内)に住んでいた市民も老若男女を問わず、残虐な方法で皆殺しにしてしまう事です。この「屠城」は支那の長い歴史の中で幾度と無く、繰り返されてきた「歴史的事実」です。対する日本はと言うと、しいて挙げるとすれば、織田信長の「比叡山焼き討ち」(元亀2=1571年)くらいです。あの戦国時代ですら、その程度なのです。又、前回のコラム『82.日本は「中国侵略」等していない!!』にも書きましたが、「義和団事件」の際、北京に進駐した日本軍の軍規の厳しさと秩序の良さは、列強諸国の中でも「折り紙付き」でした。その様な軍隊(日本軍)が、支那人よろしく「屠城」(南京市民を老若男女問わず虐殺)等する訳がありません。そう考えると、「南京大虐殺」とは、そもそも、「屠城」思想を持つ支那ならではの「風説」や「妄想」(南京が陥落した・・・きっと日本軍に「屠城」されたに違いない・・・)であり、正に「歴史の捏造」だと言えるのです。

   余談(つれづれ)

京市当局が、南京郊外の江東門近くに、「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」を建設中の事。半本氏ら日本の教科書是正グループ等が、同当局に対して、建設の中止を申し入れた際、同当局は、「日本社会党の田辺誠・書記が二度も頼みに来たので建設しているのだ。30万人と言う被害者数は、政治的数字だ」と返答したそうです。つまり、「30万人」と言う数字一つ採っても、「歴史的事実」では無く、「政治的数字」であると、支那側が自ら認めている訳です。又、世に「証拠写真」とされている物の多くが、国民党軍兵士による匪賊の処刑場面であったり、やらせ写真・合成写真であったり・・・この様な物を「証拠」として「南京大虐殺はあった!!」と報道するマスコミもどうかと思います。更に、南京陥落当時、入城する日本軍を市民が歓呼の声で迎えたと言う証言もあるのです。何故、南京市民は歓迎したのか? それは、「義和団事件」当時、北京に進駐した日本軍同様、治安を維持し自分達市民の安全を保障してくれると考えたからに他なりません。こう言った証言を封殺し、「南京大虐殺はあった!!」と主張する左翼・反日日本人達。彼らこそ、正に、百害あって一理無い「国賊」・「売国奴」の名に相応(ふさわ)しいとは言えないでしょうか?


前のページ 次のページ