Reconsideration of the History
68.「大統領」になり損ねた将軍 大政奉還の真実 (2000.3.7)

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聖徳記念絵画館蔵 『大政奉還の図』 応3(1867)年10月14日、徳川第15代将軍・慶喜は自らの持つ政権の返上を朝廷に申し出、翌15日、朝廷がこれを受理しました。世に言う「大政奉還」です。(右:聖徳記念絵画館蔵 『大政奉還の図』) これによって、建久3(1192)年、源頼朝が「征夷大将軍」(一般的には単に「将軍」と呼ぶ)に任ぜられ幕府を開いて以来、約700年続いてきた「幕府政治」(武家政治)は終焉を迎えたのです。しかし、「最後の将軍」徳川慶喜が「大政奉還」の向こうに見据えていたもの、それは彼なりの戦略に基づいた「新たな政権」への布石だったのです。と言う訳で、今回は「最後の将軍」慶喜が描き、そして潰(つい)え去った「新たな政権」について書いてみたいと思います。

ず、第一に知っておいて頂きたい事、それは、慶喜は「大政奉還」後も、依然として政治の中心であり居続けたと言う事です。決して「大政奉還」によって、「お役御免」 ── 「お払い箱」にはなっていないのです。それが証拠に、10月24日、慶喜が提出した「将軍職辞任の上表」は、朝廷によって「却下」されているのです。慶喜が実際に将軍職を辞任したのは、12月9日の「王政復古」の大号令の時) 確かに朝廷は、

従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し奉り、広く天下の公議を尽くし、聖断を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護せば、必ず海外万国と並立するを得ん」
と書かれた「大政奉還の上表」は受理しました。しかし、朝廷が政権を武家(幕府体制)に委(ゆだ)ねてから既に700年もの歳月が流れているのです。今更、将軍(幕府)から政権をヒョイと手渡されても、政治の実務(ノウハウ)に全く関与してこなかった公卿(くぎょう)達には、どうしたら良いのか、どこから手を付ければ良いのかすら分からなかった筈です。つまり、朝廷にとっては、ある意味で慶喜の提出した「大政奉還の上表」や「将軍職辞任の上表」は、甚だ迷惑な事だったのです。

て、「大政奉還」によって政権を朝廷に「返上」した筈の慶喜ですが、実は彼自身、何一つ失ってはいないのです。例えば、当時の列強諸国の認識動向です。慶喜は将軍に就任して以来、列強諸国から「日本の皇帝」(エンペラー Emperor)として承認されていました。その彼が、12月9日の「王政復古」の政変による幕府廃止に伴い、将軍職を辞任(と言うよりも更迭)させられた一週間後の12月16日、大坂城(大阪城)に各国公使を引見した際、慶喜は引き続き「自分自身が日本の主権者である」旨を宣言しており、公使達もそれを支持していたと言う事実です。更に重要な事は、「大政奉還」にしろ「王政復古」にしろ、朝廷=新政府(薩長主体の)には、発足当初、日本を統治する何らの実力も無かったと言う事です。「大政奉還」を受理した朝廷は、国家の重要案件や外交問題の処理については「衆議を尽くす」事、その他の案件については「召しの諸侯上京の上、御決定これあるべく」として、諸大名に対して朝廷から上京命令が発せられたのですが、譜代大名(徳川家の直接の家臣)の多くがこの命令を辞退(無視)し、朝廷より賜った官位を返上しようとした事実です。つまり、彼ら譜代大名にとっては、徳川家こそが自分達の主権者であり、外様(とざま)である薩長が主体の新政権=朝廷に指図を受ける筋合いは無い、と考えた訳です。だからこそ、上京命令無視・官位返上と言う挙に出ようとした訳です。これが意味するものは、例え将軍職(列強諸国が言う所の「エンペラー」)を辞したとしても、慶喜が「日本の主権者」である事に何ら変わりがなかったと言う事です。そして、その慶喜が最終的に目指したもの、それは将軍に代わる新たな地位 ── すわなち「日本国大統領」の座だったのです。

「日本国大統領」。慶喜は、自らの政治顧問である西周(にし-あまね)に『議題腹稿』を起草させています。これは言うなれば「憲法草案」と言えるものでした。(以下、概要)

『議題腹稿』に見る徳川慶喜の新国家構想

権 限 要 旨
政府の権
(行政権)
政府の首長は「大君」(大統領)と称し、官僚の任命、全国の行政権を行使する。又、藩政(地方自治体の政治)については、「議政院」(国会)で議決された法律に抵触しない限り、各藩(地方自治体)に任せる。
朝廷の権
(天皇権)
天皇は「議政院」(国会)において議決された法律を追認する。朝廷警備軍(近衛師団)は「大君」直領及び各藩から石高に応じて一定人数を割り当てて編成し、士官以上は政府より派遣する。又、武器携帯者は天皇の直領である山城国(京都府内)への入国を禁止する。
大名の権
(立法権)
立法機関として上下両院から成る「議政院」(国会)を設置し、法律・予算の議定、外交・和戦等の重要案件を協議する。上院は大名、下院は各藩一名ずつの藩士によって構成する。上院議長は「大君」の兼任とし、両院会議において決定しない案件の裁決権と、下院の解散権を有する。
軍事の権
(軍事権)
軍事権は当面の期間、諸大名に任せる。ただし、情勢が安定した後は、政府が全国の軍事権を接収統轄し、軍事統帥権は「大君」に帰すものとする。

この中に謳(うた)われている「大君」こそ、慶喜が将軍職に代わって新たに狙っていた地位なのです。確かにその名称は「将軍」の対外的呼称であった「大君」(タイクーン:Tycoon)と同じです。しかし、『議題腹稿』に定義されている新たな「大君」職は、行政府の長であり、立法府の長であり、尚かつ、軍最高司令官をも兼任する強大な権限を有しており、それはさながら、古代ローマ皇帝(元首:Princeps プリンケプス)か、アメリカ合衆国大統領(President プレジデント)と言った所でしょうか。そして、それを可能にする素地が実際にあったからこそ、慶喜は「大政奉還」の挙に打って出、将軍職を辞任しても何ら臆する事が無かったのではないでしょうか?

「列藩会議」。慶喜は、徳川宗家の持つ強大な軍事力、「前将軍」と言う知名度、そして、列強諸国から依然として「日本の主権者」として認知されている事実を最大の武器に、朝廷が諸大名を招集して開催するであろうこの会議において政治の主導権を掌握し、『議題腹稿』に則って「大君」 ── 事実上の「日本国大統領」に推戴される事を狙っていたのでしょう。しかし、歴史の歯車が狂い、戊辰戦争において「朝敵」の汚名を受け、遂に日本国初代大統領の座を掌中にする夢は潰(つい)え去ったのです。その後、日本は薩長土肥主体の明治新政府が成立、時をおいて内閣、そして議会が開設されていくのですが、私は、慶喜の思惑通り事が進み、例え『議題腹稿』に沿った新国家が成立していたとしても、我々の知る「歴史」とそれ程違った体制になったとは到底思えないのです。発足当初こそ大名主体だったとしても、時が経てば当然の事ながら民主化されたでしょうし、天皇も現在の地位である「日本国民統合の象徴」として定着した事でしょう。要は、「明治維新」と言うある種の「革命」があったかなかったか、改革が急進的だったか漸進的だったかの違いでしか無かったのでは無いでしょうか? もし、歴史に「if」が許されるのであるならば・・・そう考える時、慶喜が目指した新国家の「その後」の歴史が、実際どの様に推移していっただろうか?と、知りたくもあります。


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