Reconsideration of the History
69.天皇恐るべし!! 「無力な王」の大いなる力(2000.4.7)

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応3(1867)年12月9日、「王政復古の大号令」が発せられ、徳川慶喜は将軍職を正式に辞任、源頼朝以来、675年間続いてきた武家支配は幕を下ろしました。その後、戊辰戦争から廃藩置県に至る歴史の流れの中で、日本は封建制から中央集権制へと脱皮を図っていく訳ですが、その中で最も大きな役割を果たしたのは、実は「無力な王」でしかなかった「天皇」の存在だったのです。と言う訳で、今回は明治維新を通して、「無力な王」 ── 天皇の「恐るべき力」について書いてみたいと思います。

治維新。結論から言うと、この「革命」 ── 「明治維新」は、天皇の存在無しには、到底あり得なかったのです。なぜなら、「最後の将軍」・徳川慶喜は、幕末擾乱(じょうらん)の時世にあっても、尚、相当の軍事力を保持していたからです。いくら、薩長主体の倒幕派が勢いを得たとは言っても、慶喜が本腰で「征薩長」(薩長征伐)に乗り出したら、薩長同盟が大打撃を受ける事は、火を見るよりも明らかでした。よしんば、薩長同盟が列強の支援を受け、幕府と互角に戦ったとしても、それはそれで「列強の代理戦争」となり、事態の長期化による国力の疲弊と、列強による植民地化への道を開く事となったでしょう。しかし、「歴史」はそうなりませんでした。軍事的には必ずしも「優勢」とは言えなかった薩長同盟が幕府を倒し、「明治維新」を達成してしまったからです。なぜ、薩長同盟は倒幕に成功したのか? それこそ、今迄「無力な王」でしかなかった天皇の「恐るべき力」が発揮されたからなのです。

皇の「恐るべき力」。それを端的に示しているのが、「錦旗」 ── いわゆる「錦の御旗」(にしきのみはた)と呼ばれる代物です。これは、天皇の象徴である「菊の御紋」が刺繍された幟旗(のぼりばた)でしたが、天皇から下賜された物でも、ましてや、勅命(天皇の命令)で作られた物でもありませんでした。実は、長州藩の大村益次郎が個人的に作らせた物で、言わば「フェイク」(贋作)だったのです。しかし、何とこの「フェイク」が、戊辰戦争の勝利を薩長同盟(新政府)側に導いたのですから、「歴史」とは実に皮肉であり、ある意味、不可解共言えます。さて、大政奉還によって政権を朝廷に返上した慶喜ですが、その後の王政復古・小御所会議と言った一連の流れの中でも隠忍自重していました。しかし、薩摩が江戸市中擾乱(じょうらん)を起こすに及び、遂に自ら「討薩長」の軍を率いて、明治元年(1868)1月3日、鳥羽・伏見において、薩長同盟軍と激突したのです。これが世に言う「鳥羽・伏見の戦い」であり、「戊辰戦争」の始まりでした。この戦闘で慶喜軍は決して劣勢ではありませんでした。しかし、ある代物の登場で、慶喜軍は戦意を喪失、総崩れとなり、薩長同盟軍に大敗を喫してしまったのです。その代物こそが「錦旗」だったのです。「たかだか、旗キレじゃないか・・・」と思われる方もおありでしょう。そう、確かに、それは単なる「幟旗」でした。しかし、その単なる「幟旗」によって、「朝敵」の汚名を恐れた慶喜軍は大敗を喫したのです。そして、緒戦における「錦旗」の威力に味をしめた薩長同盟軍 ── 官軍は、その後も、「錦旗」を最大の武器に、東へ東へと進軍して行き、戊辰戦争に勝利したのです。

皇の「恐るべき力」。次に発揮されたのは、「廃藩置県」の時でした。明治2(1869)年6月17日、明治新政府は、全国諸藩の「版(領地)と籍(領民)の奉還を許可する」と言う名目で「版籍奉還」を実施し、藩主を藩知事に任命しました。この間、諸藩の持つ「自治権」を次第に骨抜きにし、明治4(1871)年7月14日、「廃藩置県の詔書」を発布。ここに、幕藩体制(封建制)の遺物であった「藩」は遂に廃止、新たに「道・府・県」が設置され、日本は中央集権国家を完成させたのです。しかし、この大改革 ── 廃藩置県も、「天皇の威力」無しには実現不可能でした。仮に中世ヨーロッパ諸国やシナで、この廃藩置県と同様に、中央政府が封建領主から既得権益である「自治権」を接収し、中央集権国家を作ろうとしたら・・・果たしてこれ程スムーズに事が運んだでしょうか? おそらく、百年もの時間が必要だったのでは無いでしょうか? そして、日本がこの「廃藩置県」と言う大改革を短期間で達成し得た最大の武器こそ、「廃藩置県の詔書」と言う「天皇の威力」だったとは言えないでしょうか?

皇の「恐るべき力」。その後も「天皇の威力」は 歴史の場面々々で発揮されました。

歴史の局面で発揮された「天皇の威力」(昭和天皇の場合)

時  期 歴史的事件 解   説
昭和11(1936)年
2月26日
2・26事件 決起した皇道派青年将校達は、「玉」(天皇)を確保し、「天皇の威力」を以て「昭和維新」を断行しようとした。
昭和20(1945)年
8月15日
終戦の日
(終戦の詔勅)
「玉音放送」(天皇の肉声)によって、日本軍は整然と武装解除に応じ、進駐軍(連合国軍)を日本本土に迎えた。
終戦直後 天皇不訴追・
天皇制存続
大東亜戦争における敗戦国・大日本帝国の元首であり、軍最高司令官の地位にあった昭和天皇は、終戦後、連合国から「戦犯として裁かれるべきだ」と言った要求が出たが、結果的に訴追を免れた。又、敗戦国の「皇帝」だったにも関わらず、退位する事無くそのまま在位し、更に、「天皇制」も政治的権力を喪失しただけで存続した。

これ以外にも、昭和天皇の危篤から崩御に至る間の内外の過敏な迄の報道。そして、厳かに行われた「大喪の礼」。国家元首でも無く政治的権力も無い「象徴天皇」 ── 今上天皇の「即位の礼」に参列した世界各国の首脳・・・。「無力な王」の筈の天皇が時折、垣間見せる言葉では言い表せない不思議な力・・・正に、「天皇、恐るべし!!」の一言です。


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