Reconsideration of the History
67.「江戸の皇帝」と「京都の皇帝」 欧米列強の見た幕末日本 (2000.2.21)

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永6(1853)年6月3日、江戸湾(現・東京湾)は浦賀沖に突如として四隻の軍艦が現れました。米国東インド艦隊司令長官・ペリーが率いたいわゆる「黒船」です。

太平の 眠りをさます上喜撰(じょうきせん)

たった四杯(しはい)で 夜も眠れず

と、黒船来航を詠(よ)んだ狂歌が当時、江戸市中で流行しましたが(「上喜撰」は上質な茶の銘柄で、「蒸気船」にかけている)、鎖国体制の中、平和を謳歌してきた当時の江戸市民にとって、濛々(もうもう)と黒煙を上げながらやって来た「鋼鉄の黒い軍艦」は、正に惰眠の中にあって平和を享受してきた自分達を驚かせるに足る存在だったのです。そして、この四隻の黒船によって、日本は徳川家康以来の「祖法」である鎖国体制を解き、帝国主義渦巻く「世界」と言う荒波に漕ぎ出して行く事となったのです。

て、黒船で来航した米国側が要求した事、それは皆さんもご存じの「開国」です。米国は日本の開国によって、米国船の「補給基地」(水・石炭・食糧等)として日本の主要港を開港させ、それによって清国(支那)諸港への定期航路を開き、清国との本格的な貿易に参入しようとした訳です。その為に、米国は「砲艦外交」で、強引に『日米和親条約』(1854年)や、『日米修好通商条約』(1858年)を締結させた訳です。しかし、これら条約が調印される迄の交渉期間は長く、米国側を常に苛立たせました。この「時間の長さ」を米国側は、「幕府の怠慢」であるとか、日本流の「日和見外交」であるとか、と色々と批判してきました。確かにそう言った点も日本側にあった事でしょう。しかし、私は、当時の米国が見落としていた(あるいは「無知」)と言うか、日本に対する重大な「認識不足」が、かくも長い条約交渉期間を生んだのでは無いかと思っています。と言う訳で、今回は、幕末の日米交渉における米国側の「認識不足」について書いてみたいと思います。

「江戸の皇帝」と「京都の皇帝」。ずばり言えば、米国側に最も欠けていたものは、これに尽きると思います。当時の欧米列強は、徳川将軍を「Tycoon」(タイクーン:大君)と呼び、諸王(諸大名)の上に君臨する日本の「皇帝」(Emperor)として、幕府を「Shogunate」(ショーグネイト)と呼び、日本を代表する唯一合法かつ正統な政府(Government)として認識していました。その観点からすれば、「日本の首都」である江戸に赴き、「日本の皇帝」である徳川将軍の裁可が得られさえすれば、対日条約 は簡単に調印出来る、と米国は高を括っていたのかも知れません。まして、「黒船」と言う軍事力をちらつかせれば・・・と。しかし、結果的には予想以上の交渉期間を米国側は強いられる羽目になった訳です。

かに、慶長8(1603)年の「江戸開府」(幕府発足)以来、江戸時代265年間を通じて、江戸が政治の中心地として機能し、徳川将軍が事実上の「日本の皇帝」として君臨してきた事は紛れもない事実です。隣国の李氏朝鮮も、将軍の代替わりや慶事に際して、江戸に「朝鮮通信使」を12回も派遣しています。それを見た諸外国からすれば、将軍こそ「日本の皇帝」であり、諸国(藩)を束ねる最高権力者であると思ったのも当然の事でしょう。しかし、徳川将軍の権力はあくまでも「日本の真の皇帝」である天皇によって委任されたものであって、唯一絶対的な専制君主ではなかったのです。それが証拠に、徳川五代将軍・綱吉は生母である桂昌院に「従一位」(じゅいちい)の位を賜る為に、朝廷(つまりは天皇)に対して様々な根回しと莫大な献金を行いました。これが物語るものは、最高権力者として君臨する徳川将軍がたとえ事実上の「日本の皇帝」だったとしても、最高権威者である天皇が「日本の真の皇帝」として上位に控えていたと言う事なのです。そして、この将軍と天皇と言う権力の「二重構造」が欧米列強 ── 特に米国に誤った認識をさせ、ひいては幕末の混乱を起こしてしまったのです。

国側が日本側と条約交渉を重ねるにしたがって、気が付いた事。それこそ、「天皇」の存在(意義)だったのです。彼ら米国側は、日本側と交渉を重ねる中で、「日本の皇帝」徳川将軍が実は日本の真の主権者では無い事を初めて知ったのです。日本側は、早期の調印を要求する米国側に対して、「条約の調印は幕府(将軍)の独断では出来ない。朝廷の勅許(天皇による裁可)が無ければ無理」と説明しました。朝廷?天皇? 米国側にとっては、当初、日本側の説明が理解出来ませんでした。なぜ、最高権力者である徳川将軍が裁可出来ないのか? なぜ、「日本政府」である幕府が調印批准出来ないのか? しかし、時間が経つにつれて、米国側も日本の「国体」をようやく理解する事が出来たのです。つまり、日本には「江戸の皇帝」徳川将軍と「京都の皇帝」(天皇)と言う二人の主権者がおり、徳川将軍は「日本の絶対君主」では無かったのだと。結果的に、幕府と朝廷・将軍と天皇、と言う「二重構造」(ある種の矛盾?)が、幕末の動乱と幕藩体制の崩壊を招いた訳ですが、それと同時に、欧米列強 ── 特に米国に対して、「理解困難な異質の国」と言う、現代に至る日本観(日本異質論)を生んだのではないでしょうか? そう言う意味では、「黒船来航」に始まる日米関係は、そもそも「出会い」の際のお互いの認識不足を引きずったまま続いてきた、とは言えはしないでしょうか。


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