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徳川慶喜 1837-1913

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徳川慶喜 戸幕府最後の将軍(在任 1866-1867)。父は烈公・水戸藩主徳川斉昭、母は有栖川宮登美宮吉子。幼名は七郎麿。弘化4(1847)年、御三卿の一・一橋家を相続し、後に第12代将軍・家慶(いえよし)より一字を賜(たま)わり、慶喜と改名した。第13代将軍・家定が生来病弱で子が無かった事から、保守派が推す慶福(よしとみ 後の家茂)の対抗馬として、改革派に次期将軍候補として担がれた。しかし、将軍継嗣問題で慶福に敗れ、安政6(1859)年、隠居謹慎を命じられた。その後、大老・井伊掃部頭直弼(かもんのかみ-なおすけ)が「桜田門外の変」で暗殺されると許され、文久2(1862)年、一橋家を再相続し、将軍後見職に就任、かつてのライバルだった将軍・家茂を補佐。同3(1863)年冬の上洛の際には、朝議参豫に就任。翌元治元(1864)年には参豫・将軍後見職を辞し、禁裏御守衛総督(京都御所防衛司令官)に就任。慶応2(1866)年、将軍・家茂の急死に伴い徳川宗家を相続、次いで将軍宣下(せんげ)を受け、第15代将軍に就任した。同3(1867)年10月14日、大政奉還を上奏・将軍職の辞表を提出、12月9日、正式に辞任し、ここに江戸幕府は終わりを告げた。戊辰戦争においては「朝敵」とされたが、その後許され、華族・公爵に列せられた。


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