Reconsideration of the History
9.「日出づる処の天子」は聖徳太子ではない!! (1997.5.15)

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少女コミックに「日出づる処の天子」とか言うタイトルのものがありましたが、その中では、聖徳太子が「日出づる処の天子」として登場します。日本史の教科書にも出てくる名文

「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや・・・」

大業3年(隋の年号 西暦607年)、時の「倭王」が隋の煬帝に出した国書の一文ですが、歴史家の多くはこの「日出づる処の天子」聖徳太子として紹介しています。しかし、「日出づる処の天子」は言われている様に、果たして聖徳太子なのでしょうか? 私はそうは思いません。では、どうして聖徳太子ではないのかを以下に書いてみようと思います。

ぜ、「日出づる処の天子」が聖徳太子ではないのか? 簡単な事です。「日出づる処の天子」を名乗った人物は「倭王」、つまり「国王」だったからです。一方の聖徳太子は、「国王」である推古天皇を補佐する「摂政兼皇太子」。たとえ実力が「国王」級だったとしても、日本の歴史書「古事記」「日本書紀」には「摂政」としか出てきません。決して、聖徳「天皇」とは書かれていないのです。そして、もっと重要な事は、「日出づる処の天子」の「天子」の称号です。「天子」と言うのは、「天なる父」(天帝)より地上の支配権を委託された者の事で、「皇帝」と同義です。日本で「皇帝」と同列なのは「天皇」ですが、では、当時の天皇、推古天皇が「日出づる処の天子」だったのでしょうか?

出づる処の天子」は推古天皇か? これもNOと言わざるを得ません。なぜなら、「倭王」の国書が隋の煬帝に届けられた後、隋は裴世清と言う人物を「倭国」に派遣しており、「日出づる処の天子」を名乗った「倭王」とも会っています。その事は隋側の史料にちゃんと書かれています。さて、裴世清が会った「日出づる処の天子」が、もし、推古天皇だったとしたら、隋側の史料にはちゃんと「女王」として書かれた筈です。しかし、なんらその様な記載は見受けられません。三国志の時代から中国側の史料には「倭王」の名前は何人か登場しますが、卑弥呼壱与と言った「女王」の時は、きちんと「女王」と書かれています。なぜなら、中国は「皇帝」・「国王」イコール「男性」だからです。中国の歴史上、女性が「皇帝」・「国王」を含めて名実共にトップに君臨したのは、則天武后ただ一人です。そんなお国柄の中国ですから、相手が「女性」だったとしたら、卑弥呼や壱与同様、「女王」と書いた筈です。

は「日出づる処の天子」とは一体何者なのでしょうか? 私は「失われた九州王朝」や「古代は輝いていたV 法隆寺の中の九州王朝」等の著者・古田武彦氏同様、九州の大王だったと思います。その理由は、『隋書』記載の倭国の描写に、

阿蘇山有り。其の石、故無くして火起こり天に接する者、俗以て異と為し、因って祷祭を行う・・・」

と書かれているからです。阿蘇山と言えば、熊本県の阿蘇山です。まさに九州な訳です。更に、

倭国は百済(くだら)・新羅(しらぎ)の東南に在り。水陸三千里、大海の中に於いて、山島に依って居る。魏の時、訳を通ずるもの三十余国、皆自ら王と称す。(中略)其の地勢は東高くして西下り、邪靡堆(ヤマタイ)に都す、則ち魏志の所謂(いわゆる)邪馬臺なる者なり。・・・」

とも書かれています。この記述からすると、倭国の位置は、百済・新羅、つまり朝鮮南部の東南で、しかも海を隔てた所に在ったと書かれており、地図を広げるまでもなく、そこには九州があります。そして、その倭国は魏志(三国志)の時代から中国とは行き来があり、首都はヤマタイと言い、昔の邪馬台国だと言うのです。つまり、「倭国」とは、奈良・京都・大阪と言った近畿地方を拠点とした天皇家や大和朝廷とは別の国だった訳です。

後に「日出づる処の天子」が聖徳太子推古天皇では無いと言う決定的な証拠があります。それは同じく、『隋書』の記述に、

「開皇二十年(西暦600年)、倭王あり。姓は阿毎(アメ 「天」)、字(あざな)は多利思北孤(タリシホコ 「北」は「比」の誤りか 「足彦」タラシヒコ)、阿輩鶏弥(オホキミ 「大王」)と号す。使を遣わして闕(隋の都・大興城)に詣る。」

王の妻は鶏弥(キミ 「王」・「君」)と号す。後宮に女六、七百人有り。太子を名付けて利歌弥太弗利(読み方不明)と為す。」

とあるのですが、上の二つの文章を読まれて分かる通り、第一に倭王には「阿毎」と言う姓(苗字)が有る事です。ご存じの通り、皇室には姓がありません。第二に、倭王は「多利思北孤」と言う名前だと言う事です。この名前からはどう転んでも、聖徳太子推古天皇との関連性が出てきません。第三に、「王の妻は・・・」のくだりですが、「妻」と言う以上、倭王は「男性」です。つまり、推古天皇ではあり得ません。そして、最後に皇太子は「利歌弥太弗利」と言う名前だと書かれています。この名前からは、推古天皇の「皇太子」だった聖徳太子の名前との接点は出てきませんし、聖徳太子の跡継ぎ「山背大兄王」(ヤマシロノオオエノオウ)の名前との接点も出てきません。どうひねっても、倭王が聖徳太子推古天皇だったと言う証拠は出てこないのです。

こまでの事をまとめてみると、

  1. 倭王は「日出づる処の天子」つまり「国王」である
  2. 倭王は「阿毎」と言う姓を持っている
  3. 倭王の名前は「多利思北孤」である
  4. 倭王には「妻」がいる。つまり「男性」である
  5. 倭王の皇太子は「利歌弥太弗利」である
  6. 倭国は朝鮮から海を隔てた東南にある
  7. 倭国には阿蘇山があり、首都はヤマタイと言う

と言った具合で、読まれてお分かりの通り、「日出づる処の天子」は、その地位・名前・性別・住んでいた場所等、いずれを取っても、聖徳太子ではあり得ないのです。


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