Reconsideration of the History
10.蘇我入鹿とは何者か? 「大化改新」秘史-其の壹- (1997.6.8)

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化改新。645年、宮中太極殿で、中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌子(後の藤原鎌足)・蘇我倉山田石川麻呂(蘇我氏の傍流)らによって、権勢著しい蘇我入鹿が暗殺された政変。日本史では必ず教えられる事件ですが、実行犯については比較的詳しく教えられるのに対して、暗殺された蘇我入鹿については単に「暗殺された」と言った程度ではなかったでしょうか? この政変は、権勢著しい「蘇我氏」によって「天皇家」が滅ぼされる・・・蘇我氏の血を引かない中大兄皇子自身が殺されると言う危機意識によって引き起こされたとされています。「天皇家を守る」と言う大義の下に、「蘇我氏を滅ぼした」と言う論法ですが、もし、蘇我入鹿が「天皇」だったとしたら、どうでしょうか? 私は「もし」と書きましたが、蘇我入鹿は本当に「天皇」だったのです。現在の『皇統譜』(天皇家の系図)にも、様々な辞典にも載っていない「蘇我入鹿天皇」について、実証していきましょう。それによって、大化改新の「真の原因」も明らかになる筈です。

蘇我入鹿暗殺図
▲宮中太極殿に於いて暗殺される蘇我入鹿(奥の女性は皇極天皇)

我入鹿。又の名を林太郎・鞍作(くらつくり)。父は大臣(おおおみ)蘇我蝦夷(えみし)。祖父は大臣蘇我馬子。蘇我氏は、馬子の父・稲目(いなめ)より代々、大臣として天皇家の臣下としては、大連(おおむらじ)の物部氏と共に最高位を世襲してきた一族。そして、入鹿はその名門・蘇我氏の当主。物部氏が聖徳太子・蘇我馬子らの崇仏派によって滅亡した後は、「天皇家に次ぐ権力者」として国政を左右したと言われています。しかし、その実はと言えば、私たちが考える以上に蘇我氏の実力は強大でした。明治維新後の絶対天皇制に象徴された「天皇家」のイメージで当時の天皇家を見ると大きな間違いを犯す事になります。当時の天皇家は有力諸豪族による「連合政権」の「盟主」的な存在で、その地位は諸豪族のパワーバランスの微妙な天秤と言う「薄氷」に乗る存在でしかありませんでした。ですから、豪族間のパワーバランスの拮抗が崩れると、天皇家にも大きな影響を及ぼしました。そして、そのパワーバランスを崩したのが、物部氏の滅亡でした。

我氏と共にパワーバランスの双璧を為していた物部氏の滅亡(587年)が意味する物、それは、蘇我氏による幕府体制の成立でした。真の主君である筈の「天皇家」ではなく、「天皇の臣下」ではあるが、天皇家以上の権勢を誇る蘇我氏による政治。これはまぎれもなくプレ「幕府」体制と言える物でした。そして、蘇我氏の権力が確立した後は、天皇家と言えども、蘇我氏に逆らう事は出来なくなっていたのです。それを物語るのが、崇峻天皇の暗殺(『日本書紀』に592年とされている)、歴代天皇后妃に蘇我氏の女性がなった事なのです。こう言った事が何年も何十年も続くと、蘇我氏自身にある野望が芽生えたのも当然でしょう。すなわち、「蘇我氏自身が天皇家」になる!!

我氏自身が天皇家になる!!」。いや、「なった」と言う方が正確でしょう。その証拠に、例えば、

  1. 蘇我蝦夷の邸宅を「上の宮門」(かみのみかど)、子の入鹿の邸宅を「谷の宮門」(はざまのみかど)と呼んだ。
  2. 蘇我入鹿の子らが親王に準じた扱いを受けた。
  3. 聖徳太子・蘇我馬子らによって編纂された『国記』(くにつふみ)・『天皇記』(すめらみことのふみ)と言った史書が蘇我氏の邸宅に保管されていた。
等が挙げられます。まず、1ですが、「宮門」と言う語。これは「御門」・「帝」とも書かれますが、意味する所は、「天皇の住む処」すなわち「御所」です。そして、2ですが、これは言わずもがなでしょう。最後の3ですが、国の歴史を記す官撰史書を保管していた事実。一豪族が保管を許されるようなシロモノではないのです。これらの事実が指し示す物は一つ、当時、蘇我氏が「天皇」又は「天皇に準じる扱い」を受けていたと言う事なのです。

こまで書いても、「いやいや、そんなバカな事がある筈がない!!」と思われる方もいるでしょう。そんな方は下の文章の「□」を文字で埋めてみて下さい。

□□□天皇御世乙巳年六月十一日、近江天皇(中大兄皇子、後の天智天皇の事)林太郎□□を殺し、明日を以て其の父豊浦大臣(とゆらのおとど 蘇我蝦夷の事)子孫等皆之を滅ぼす
これは、『上宮聖徳法王帝説』と呼ばれる史書の中の一文で、大化改新の記事ですが、「□」を埋められたでしょうか? まず、最初の「□□□」ですが、ここに蘇我入鹿の別名「林太郎」を、次に「□□」に「天皇」を入れてみると・・・どうでしょう。前述の「宮門」等と合わせても、辻褄が合う事にお気づきでしょう。「これでも信じられない」と言う方、考えてみて下さい。なぜ、「□」の部分だけが欠損していたのかを。これが自然に「虫食い」と言うならば、あまりにも偶然すぎるとは思えないでしょうか? もし、故意に欠損させたならば、なぜ、「天皇」の名を欠損させたのか? 「林太郎大臣」と書かれていたのならば、なぜわざわざ「大臣」の部分を欠損させたのか? 理由に苦しみます。しかし、これが「林太郎天皇」と記されていたとするなら、すべての謎は解けるのです。

後に一つ、蘇我入鹿が「天皇」又は「天皇に準ずる扱い」を得ることが出来た最大の理由について。それは、蘇我入鹿が、当時の「天皇」・皇極女帝愛人であり、最大のパトロンだった事です。そして、中大兄皇子ら一派が最も恐れた事、言うなれば、大化改新の「真の原因」は、すなわち、「林太郎天皇」蘇我入鹿と皇極女帝との間に「皇子」が誕生し、その「皇子」が、中大兄皇子ら「天皇家の正統なプリンス」を差し置いて、後継天皇になると言う「悪夢」だったのではないでしょうか?


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