Reconsideration of the History
160.足利簒奪、南朝革命、それでも「万世一系」は成立する ── 男系皇位継承の奇跡(2006.1.15)

前のページ 次のページ


「万(ばんせい)一系、125代の天子様の皇統が貴重な理由は、神話の時代の初代・神武天皇から連綿として一度の例外もなく『男系』で今上(きんじょう)陛下まで続いてきているという厳然たる事実です」

これは、以前のコラム156.『皇位継承は男系男子維持を!! ──「寛仁親王発言」に見る有識者会議の不遜』に於いて取り上げた、寛仁(ともひと)親王殿下の御発言の一部ですが、昨今、この「万世一系」 ── 詰まりは、初代・神武天皇から現125代・今上天皇に至る迄、男系による一つの血統によって、皇統(王朝)が維持されてきた事 ── がよく取り上げられます。詰まりは、その間に一度の革命も王朝交替も無く、連綿と一つの王朝が続いてきた、と。然(しか)し、私は嘗(かつ)て発表したコラムを通じて、日本の皇統に幾度もの激変が襲いかかった事を論じてきました。そして、今回、読者の方から、

 伏見宮系の旧皇族に皇位を継承させた場合、維新時に正統の南朝系に戻された皇統が、再び足利義満の子孫に渡ることになり、甚(はなは)だ不都合であると思います。

維新時に行われたように、(困難であっても)再び南朝の御子孫を探し出して皇位を継承して頂かなければ、我々も後世に「逆賊足利義満の子孫に皇位を簒奪(さんだつ)させ、皇統を廃絶させた朝敵」と呼ばれることにならぬものか、大変懼(おそ)れます。

とのコメントを頂きました。なる程(ほど)、確かに嘗てのコラムからすると、日本の皇統は、所々、スパッ、スパッ、と切られ、王朝が交替している ── 詰まりは、「万世一系」=「男系によって連綿と続いてきた単一の皇統」とは到底言えない ── と言う事になります。そうすると、昨今、「皇統が男系によって連綿と続いてきた」事を前提に書いてきたコラム、ひいては私の論理の整合性が問題になるのは当然の事です。然し、此処(ここ)で敢えて言います。私が嘗てのコラムで論じてきた様に、たとえ、「蘇我王朝」が存在していようが、足利氏が北朝皇統を「簒奪」していようが、明治維新に於いて「南朝」末裔の大室寅之祐(おおむろ-とらのすけ)が、孝明天皇の皇子・睦仁(むつひと)親王とすり替わって「明治天皇」として即位していようが、「男系によって連綿と続いてきた日本の皇統」は、聊(いささ)かも揺るがないのです。と言う訳で、今回は、嘗てのコラムと「万世一系」の整合性について論じてみたいと思います。

(ま)ずは、系図1 をご覧下さい。これは『皇統譜』に基づく歴代天皇の系図です。

図1.『皇統譜』に基づく歴代天皇御系図(一部、加筆・補正)

だかんだ言っても、初代・神武天皇から、現125代・今上天皇に至る迄、神武天皇の血が男系によって継承されてきた事が一目瞭然です。これが、寛仁親王殿下をして、「神話の時代の初代・神武天皇から連綿として一度の例外もなく『男系』で今上陛下まで続いてきている」と言わしめた

万世一系

なのです。然し、私は、『皇統譜』に書かれている皇統の系譜に疑義を挟み、南北朝時代に足利氏が北朝皇統を簒奪したと言い、明治維新に際しては、今度は、孝明天皇・睦仁親王父子が暗殺され、南朝の末裔が「明治天皇」として即位した、と唱えました。それでも、「万世一系」は成立するのか? それが成立するのです。

註:「蘇我王朝」については、時の女帝・皇極天皇との、ある種の「共同統治」体制を私は想定している関係で、今回は論じません。又、「壬申の乱」に於いて、天智天皇の子・弘文天皇を倒して皇位に即いた天武天皇に対する疑念、所謂「天武系諸帝」の非正統論については、天武系皇統が称徳天皇を以て断絶、天智天皇の孫・光仁天皇の即位によって天智系皇統が復活している事から、男系による皇統継承が為されたものと判断、こちらについても論じません。

れでは最初に、南北朝時代、室町幕府第3代将軍・足利義満によって北朝皇統が簒奪された一件 ── 仮に「足利簒奪」と呼ぶ事にします ── について論じます。先ずは、系図2 をご覧下さい。

図1.『皇統譜』に基づく歴代天皇御系図(一部、加筆・補正)

れは、足利将軍家の系図でして、ご覧頂ければお分かり頂ける事ですが、「足利氏」とは清和天皇に端を発する源氏、所謂(いわゆる)「清和源氏」の流れを汲む「皇別氏族」です。(一般に「清和源氏」と呼ばれる源氏の祖は、実は陽成天皇であり「陽成源氏」と呼ぶのが妥当との説もある) 因(ちな)みに、没後、朝廷から「鹿苑(ろくおん)院太上天皇」或(ある)いは「鹿苑院太上法皇」の尊号を追贈された「簒奪」の張本人・足利義満は、系図で見ると、清和天皇から数えて18代目に当たります。(「太上天皇」尊号奉呈については、義満の子で、当時の将軍だった義持によって辞退されたが、相国寺(しょうこくじ)等には同尊号を明記した位牌が残されている)

まり、足利義満の「簒奪」によって、以後、孝明天皇・睦仁親王に至った北朝系皇統や、同じく足利義満の子・貞成(さだふさ)親王 ── 子の彦仁王が第102代・後花園天皇として即位した事から「後崇光(ごすこう)院太上天皇」の尊号を奉られた ── によって「簒奪」された伏見宮家、ひいては、そこから派生し、昭和22年に「皇籍離脱」(実際は「剥奪」)した旧宮家は、清和天皇→源経基(つねもと)→足利義康→尊氏(たかうじ)→義満のラインを通じて、須(すべから)く、初代・神武天皇へと繋がっていた訳です。ですから、「足利簒奪」によっても、孝明天皇迄は正に「万世一系」だったと言えるのです。

に、幕末維新の動乱期に、公卿(くぎょう)岩倉具視(いわくら-ともみ)と長州勢によって、孝明天皇・睦仁親王が暗殺され、南朝の末裔・大室寅之祐が、睦仁親王にすり替わって「明治天皇」として即位した一件 ── 仮に「南朝革命」と呼ぶ事にします ── について論じます。先ずは、系図3 をご覧下さい。

図1.睦仁親王と明治天皇 (『三浦皇統家』記録明記の南朝系図より)

れは、戦後、「熊沢天皇」として一世を風靡した熊沢家、「明治天皇」を輩出した大室家と共に、南朝の末裔を称した「三浦皇統家」の記録に明記された後南朝の略系図を基とした系図です。この系図によれば、「明治天皇」として即位した大室寅之祐は、南朝初代・後醍醐天皇の末裔と言う事となり、明治以降、大正・昭和・今上の諸帝は、維新によって復興された南朝皇系の天皇と言う事になります。

(さて)維新によって復興された南朝皇系ですが、その初代は第96代・後醍醐天皇に行き着きます。そして、その後醍醐天皇の祖父で大覚寺(だいかくじ)統の祖、第90代・亀山天皇の兄で持明院(じみょういん)統の祖、第89代・後深草(ごふかくさ)天皇の曾孫(ひまご)から北朝皇統が始まっており、当然の事ですが、南北両朝 ── 持明院・大覚寺両統 ── は、その祖、後深草・亀山両帝の父、第88代・後嵯峨天皇を通じて、初代・神武天皇へと繋がっています。

して、更に世代を遡(さかのぼ)ると、南北両朝皇系は、平安時代初期の、第58代・光孝天皇へと行き着き、その兄、第55代・文徳(もんとく)天皇の子である清和天皇から、北朝皇統を「簒奪」したとされる足利義満が輩出している訳です。詰まり、結局の所、後醍醐天皇に始まる南朝も、北朝四代も、孝明天皇に至る「足利朝」も、そして、維新によって復興された明治以降の南朝系皇室も、皆、何処(どこ)かどうかで、初代・神武天皇に「男系」で繋がっており、日本の皇室は、幾多の動乱・激変に見舞われたにも拘(かかわ)わらず、

万世一系

が維持されてきた事になります。これは、正に驚く可(べ)き事であり、人智の及ばざる崇高な存在 ── 皇祖神である天照大神(あまてらすおおみかみ)や初代・神武天皇 ── に護(まも)られてきたとしか言い様がありません。そして、此処迄、「万世一系」=「男系によって連綿と続いてきた単一の皇統」が維持存続されて来たとなると、最早(もはや)、理屈等抜きに、日本の皇統の「伝統」である「男系継承」を今後も護っていかねばならない、と私は強く思った訳ですが、皆様は一体どう感じられたでしょうか?


   余談(つれづれ)

泉総理の肝煎(きもい)りで組織された「有識者会議」が、「女性天皇」(女帝)・「女系天皇」共に容認の答申を出し、その答申に沿った形で、政府・与党が次期国会に『皇室典範』改正法案を上程、小泉自民党は所属議員に「党議拘束」を掛けて迄して、何が何でも可決成立させようとしている様ですが、(も)しも、「万世一系」=「男系によって連綿と続いてきた単一の皇統」が、人智の及ばざる崇高な存在によって護られてきたのだとしたら・・・小泉総理の「野望」がそう簡単に実現されるとは到底思えません。小泉総理は、外堀を埋め、内堀を埋め、本丸を攻め落とさんと張り切っていますが、所詮は「人間」のする事です。「神慮」(神様のご意志)には到底及ばざるものと思いますし、「有識者会議」の答申に反対する一人としては、小泉総理と「有識者会議」の面々に、「神罰」が下る事を強く願っています。



関連コラム


前のページ 次のページ