Reconsideration of the History
161.旧宮家の皇籍復帰は不可能なのか? ── 宇多天皇と醍醐天皇 (2006.1.20)

前のページ 次のページ


今の皇位継承問題に於いて、男系継承維持派の間で、必ずと言っても良い程、話題に上(のぼ)るのが、昭和22年に「皇籍離脱」(実際には「皇籍剥奪」)された旧宮家の方々の「皇籍復帰」に関する期待であり要求です。斯(か)く言う私自身も、旧宮家の方々の中に男子がおられる事に鑑(かんが)み、それらの方々に皇籍に復帰して頂き、その上で皇位継承資格を付与すべきものと考えています。然(しか)し乍(なが)ら、「女性天皇」(女帝)・「女系天皇」推進派は、

昭和22年の皇籍離脱から既に60年もの歳月が流れており、今更、一般国民(民間人)として過ごしてきた旧宮家の人達を皇籍に復帰させ、皇位継承資格を付与する等、非現実的だ。

等と主張し、旧宮家の皇籍復帰に否定的な主張をします。なるほど、確かに「旧宮家」と雖(いえど)も、一度、「皇籍離脱」=「臣籍降下」した訳だから、何を今更・・・と言う意見も分からなくはありません。然し、それでも、私は旧宮家の皇籍復帰を望みますし、皇位継承資格の付与も支持します。何故(なぜ)ならば、長い皇統の歴史の中で過去に、一旦、皇籍離脱したにも関わらず、その後、皇籍復帰を果たし、更には即位した天皇が存在していたからなのです。と言う訳で、今回は旧宮家の皇籍復帰問題を、嘗(かつ)ての先例を通して考えてみたいと思います。

は平安時代の仁和3(887)年、先帝(第58代・光孝天皇)の崩御に伴い、新帝が即位しました。これが後に「宇多(うだ)天皇」と追諡(ついし)される事となる帝(みかど)です。宇多天皇は、貞観9(867)年、第54代・仁明(にんみょう)天皇(在位 833-850)の第三皇子、時康親王 ── 後の光孝天皇(在位 884-887)の第七皇子として、この世に生を享(う)けました。御名を定省(さだみ)と命名された皇子は、元慶8(884)年、陽成(ようぜい)天皇(在位 876-884)の廃位に伴い、父・時康親王が55歳と言う高齢で即位すると、他の兄弟姉妹と共に皇籍離脱 ── 臣籍降下し、源姓を下賜(かし)され、以後、「源定省」と称する様になります。然し、父・光孝天皇が病に倒れると、仁和3年、父帝のたっての希望で皇籍復帰すると同時に親王宣下(せんげ)を受け、立太子の翌日、父帝の崩御に伴い即位しました。詰まり、「宇多天皇」は皇族に生まれ乍(なが)らも、皇籍離脱して「源氏」となり、後に皇籍復帰して即位した天皇であった訳です。然し乍ら、中には、

確かに「宇多天皇」は、一度、臣籍降下した後、皇籍復帰を果たした上で即位した天皇だが、宇多天皇が臣籍(現代風に言えば「一般国民」)にあったのは、たかだか3年間。それに対して、「旧宮家」は皇籍離脱してから既に60年もの歳月が流れており、比較対象にはならない。ましてや、元皇族の子孫となれば、生まれ乍らにして一般国民であり、彼らを皇族にする等と言う事は甚だナンセンスだ。

と言った主張をする人もいる事でしょう。御説ご尤(もっと)も。然し、それでも敢えて、私は「旧宮家」 ── 元皇族の御子孫をも含む皇籍復帰を支持します。それは何故なのか? 実は、それにも先例があるからなのです。

平9(897)年、宇多天皇は皇太子・敦仁(あつひと)親王に譲位しました。この時、即位したのが、後に「醍醐(だいご)天皇」と追諡される事となる帝です。醍醐天皇は、元慶9(885)年、源定省(後の宇多天皇)の長男として、この世に生を享けました。名は「源維城」。詰まり、

醍醐天皇は生まれ乍らの「源氏」

=非皇族であった訳です。そんな彼に転機が訪れたのは、仁和3年の事。父「源定省」の皇籍復帰・即位に際して、彼も皇族の一員となり、名を「源維城」から「敦仁」(王)に改めました。そして、寬平元(889)年に親王宣下を受け、更に同5(893)年には立太子、そして、前述の様に、同9年に即位した訳です。詰まり、「醍醐天皇」は、生まれた時には非皇族であったものの、その後、父の皇籍復帰に合わせて自らも皇族となり、最後には父帝から皇位を継承した、と言う訳です。

醐天皇が臣籍にあったのは、生まれてからの2年余りであり、物心ついた頃には、既にれっきとした皇族であった訳ですから、「旧宮家」の御子孫と一概に比較出来ない事は確かです。然し、宇多天皇が臣籍降下の後、皇籍復帰した上で即位した事も、醍醐天皇が源氏として生を享け乍ら、後に皇籍に入り、父の跡を嗣いで即位した事も、紛れも無い事実です。歳月の長短は関係ありません。要は、一度、臣籍降下した元皇族が皇籍復帰を果たし、皇位継承資格を得たと言う事が重要な訳です。この様な先例がある以上、「旧宮家」の皇籍復帰を最初から除外する可(べ)きではありません。元皇族とその御子孫に、皇籍復帰を要請した場合、受けるや否(いな)かを打診し、その答えを待ってからでも決して遅くは無い筈です。それすらせずに「有識者会議」が慌ただしく、「女性天皇」・「女系天皇」容認等と言う答申を出したと言う事は、とどのつまりが「怠慢」である訳で、「初めに女帝ありき」、最初に結論があって、それに単なる「お墨付き」を与えるだけの茶番との誹(そし)りを受けるのは至極当然であり、「有識者会議」と「皇室改革(改悪)の主導者」である小泉総理は、その誹りを決して免れ得ないものと思っています。(了)


   読者の声 (メールマガジン ≪ WEB 熱線 第1248号 ≫ 2009/10/30_Fri ― アジアの街角から― のクリックアンケートより)

アンケート結果


前のページ 次のページ