Reconsideration of the History
171.韓国の領有権は日本にある!?(2) ── 「竹島問題」での韓国への対抗策 -其の参- (2006.8.24)

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、私は、『魏志倭人伝』(『三国志・魏書 東夷傳・倭人条』)の記述から、古代の日本(当時の倭国)が、朝鮮半島南岸部の任那(みまな)・加羅(伽耶 かや)と呼ばれていた地域 ── 現在の韓国・釜山(プサン)広域市から慶尚南道(キョンサンナムド)に至る一帯 ── を、更に、『好太王碑』の記述から、韓国国土の実に三分の二にものぼる地域に対する領有権を、日本が主張出来る事を指摘しました。その上で、今回は、更に別の視点 ── 所謂(いわゆる)「倭の五王」に関する支那の史書の記述等から、この主張を補強してみたいと思います。

(ま)ず、「倭の五王」とは何者なのか?について簡単に説明したいと思います。「倭の五王」とは、支那・南朝の史書(『晋書』・『宋書』・『南斉書』・『梁書』)に登場する5世紀の日本に存在したと言う、讃・珍・済・興・武の5人の倭王の事です。

倭王系図
(倭の五王に付いては、讃を応神・仁徳・履中、珍を仁徳・反正(はんぜい)、済を允恭(いんぎょう)、興を安康、武を雄略、と言った具合に、それぞれ古代日本の天皇に比定する説が提示されていますが、私は大和朝廷とは別種の王権=九州王朝の諸王であったと言う説に賛同しています。)

「倭の五王」関連年譜
西暦
(支那元号)
倭王 事績
413
(東晋・義煕9)
東晋に貢物を献ずる。(『晋書』安帝紀、『太平御覧』)
421
(宋・永初2)
倭王讃、宋(劉宋)に朝献し、武帝より除綬の詔うける。称号は、「安東将軍倭国王」か。(『宋書』倭国伝)
425
(宋・元嘉2)
倭王讃、司馬曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。(『宋書』倭国伝)
430
(宋・元嘉7)
1月、宋に遣使し、貢物を献ずる。(『宋書』文帝紀)
438
(宋・元嘉15)
これより先、倭王讃没し、弟珍立つ。この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭国王」と称し、正式の叙任を求める。(『宋書』倭国伝)
4月、宋の文帝、珍を「安東将軍倭国王」とする。(『宋書』文帝紀)
珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国の各将軍に補任されん事を求め、許される。(『宋書』倭国伝)
443
(宋・元嘉20)
倭王済、宋に朝献し、「安東将軍倭国王」とされる。(『宋書』倭国伝)
451
(宋・元嘉28)
倭王済、宋より、安東将軍の称号に「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。(『宋書』倭国伝)
7月、「安東太将軍」に進号する。(『宋書』文帝紀)
又、上った23人は、宋朝から軍郡の称号を与えられる。(『宋書』倭国伝)
460
(宋・大明4)
12月、遣使し貢物を献ずる。(『宋書』倭国伝)
462
(宋・大明6)
3月、宋の孝武帝、倭王済の世子(太子)の興を「安東将軍倭国王」とする。(『宋書』孝武帝紀、倭国伝)
477
(宋・昇明1)
11月、遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝紀)
これより先、倭王興没し、弟の武が立つ。武、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東太将軍倭国王」と称する。(『宋書』倭国伝)
478
(宋・昇明2)
倭王武、上表して、自ら「開府儀同三司」と称し、叙正を求める。宋の順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭王」とする。(『宋書』順帝紀、倭国伝)
479
(南斉・建元1)
南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王武を「鎮東太将軍」に進号する。(『南斉書』倭国伝)
502
(梁・天監1)
4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を「征東将軍」に進号する。(『梁書』武帝紀)

(さて)、その倭王は、支那の南朝に遣使・朝貢した際に冊封(さくほう)され、それぞれ称号を授(さず)けられている訳ですが、問題はその称号です。例えば、451(劉宋・元嘉28)年に遣使した倭王済は、「使持節 都督 倭・新羅(しらぎ)・任那・加羅・秦韓・慕韓六国(りっこく)諸軍事 安東太将軍 倭国王」の称号を劉宋から授けられており、この称号から、倭王済は、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六ヶ国に対する軍事的支配権を劉宋に認められていた事が分かります。更に、倭王武に至っては、「使持節 都督 倭・百済(くだら)・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事 安東太将軍 倭国王」を勝手に自称。百済に対する軍事的支配権こそ認められなかったものの、百済を除く六ヶ国に対する軍事的支配権は追認されています。因(ちな)みに、加羅・秦韓・慕韓は、それぞれ任那・辰韓・馬韓の事ですが、辰韓・馬韓の後身が新羅・百済であったにも関わらず、新羅と秦韓、(百済と)慕韓を別個に挙げている事から、辰韓諸国(諸邑)が全て新羅に統合された訳では無い、又、同様に、馬韓諸国も全てが百済に統合された訳では無い事が類推されます。

々回、『好太王碑』の碑文に、

百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以辛卯年來渡海破百殘隨破新羅以爲臣民
(百殘(百済)・新羅は旧(もと)是(これ)(高句麗の)属民にして(高句麗に)朝貢す。而(しか)るに、倭、辛卯年(しんぼうねん;西暦391年)を以(もっ)て渡海し、百殘を破りて随(したが)え、新羅をも破り、以て臣民と為(な)す)

と刻まれていた事から、当時の倭国(日本)が朝鮮半島に進出、百済・新羅が倭国に服属していた事を指摘した訳ですが、倭王の帯びた称号が図らずも其(そ)れ等(ら)が事実であった事を証明しています。尤(もっと)も、倭王は遂に百済に対する軍事的支配権は認められませんでした。然(しか)し、その百済に対しても、日本が影響力を有していた事は、各種史料から窺(うかが)い知る事が出来ます。例えば、「七支刀(ななつさやのたち)の存在です。

七支刀 支刀(右写真)とは、奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮にある、国宝にも指定されている貴重な古代の鉄剣です。全長74.8cm、刀身65.5p、茎(なかご)9.4p。その特異な形状から、古来より「六叉の鉾(ろくさのほこ)」の名で伝えられてきた鉄剣には、刀身の表裏面に金象嵌(ぞうがん)に依る下記の様な銘文が刻まれていました。

   (表)
泰和四年五月十六日丙午正陽造百練□七支刀出辟百兵宜供供侯王永年大吉祥
(泰和4年(支那・東晋の元号「太和四年」=369年)5月16日丙午(ひのえうま)の正午、百度鍛錬せる鋼(はがね)の七支刀を造る。是を以(もっ)てあらゆる兵器の害を免れるであろう。恭謹の徳ある侯王に栄えあれ、寿命を長くし、大吉の福祥あらん事を。)
   (裏)
先世以来未有此刀百濟王世□奇生聖晋故為倭王旨造傳示後世
(先代以来未(いま)だ此(かく)の如き刀は無し。百済王の世子(太子)奇生聖晋(貴首王子;きすせしむ)、倭王旨の為に造る。後世に伝示せんかな。)

(こ)の銘文に付いては様々な解釈があり、例えば、東晋が百済に下賜したオリジナル品を元として、百済が模造品を造り倭王に贈ったとか、百済の太子が「臣下」である倭王に「下賜(かし)」した、と言った解釈(コリア系学者)があります。然(しか)し、私は、百済の太子が倭王の為にわざわざ製作して贈った、と素直に解釈します。何故(なぜ)なら、銘文裏面の「先世以来未有此刀」(先代以来未だ此の如き刀は無し)から、(そ)れ迄(まで)、七支刀の様な鉄剣は存在しなかった訳で、その様な鉄剣を自らの為にでは無く、臣下への下賜の為にわざわざ製作するだろうか? 又、「為倭王旨」についても、「倭王の為に旨(うま)く」だとか、「旨」は「嘗」の略字であって、「倭王の為に嘗(はじめ)て」である、と言った解釈が為されていますが、倭の五王に対して支那の史書が、「倭王讃」・「倭王済」・「倭王興」・「倭王武」と言う風に、倭王+諱(いみな)の形式で記述している事から、「旨」と言う名の倭王 ── 「倭王旨」 ── が居(お)り、その倭王の為に製作した、と解釈するのが最も自然では無いかと考えます。その様に考えると、少なく共、七支刀は百済から倭王に「下賜」された物で無い事だけは確かです。いや、『好太王碑』に於ける倭と百済の力関係を勘案すれば、属国である百済からの献上、良くて友好の証(あかし)としての寄贈、と言った所でしょうか。因みに、七支刀に付いては、『日本書紀(やまとのふみ)』巻第九「気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)(神功(じんぐう)皇后紀)にも「七枝刀」として下記の如く登場します。

五十二年秋九月 丁卯朔丙子 久氐等從千熊長彥詣之 則獻七枝刀一口 七子鏡一面及種種重寶 仍啟曰 臣國以西有水源出自谷那鐵山 其邈七日行之不及 當飲是水 便取是山鐵以永奉聖朝 乃謂孫枕流王曰 今我所通東海貴國 是天所啟 是以垂天恩 割海西而賜我由是國基永固 汝當善脩和好 聚斂土物 奉貢不絕 雖死何恨 自是後 每年相續朝貢焉
(神功皇后摂政52年(372年)9月10日、百済の使者久氐(くてい)等が千熊長彦(ちくまのながひこ)に従って来朝した。七枝刀(ななつさやのたち)一口、七子鏡(ななつこのかがみ)一面、および種々の重宝を奉った。そして「我が国の西に河あり。水源は谷那の鉄山より出(い)ず。その遠き事七日行きても着かず。正にこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすら聖朝(日本)に奉(たてまつ)らん」と言上(ごんじょう)した。(百済の近肖古王は)孫の枕流(とむる)王に語りて、「今わが通(かよ)う処(ところ)の海東の貴(とうと)き国は、天の啓(ひら)きし国也。故に天恩を垂れて、海西の地を割(さ)きて我が国に賜(たまわ)った。是に由(よ)り国の基(もとい)固くなれり。汝(なんじ)もまたよく好を修め、産物を集め献上する事を絶やさぬなら、死して何の悔いも無し」と言った。それ以後(百済は)毎年相次(あいつい)いで朝貢した。)

其れでは、七支刀に付いては、此(これ)位にして話を先に進めます。

の大国・高句麗(こうくり)、東の新羅の二国に圧迫されていた百済は、南の倭国と修好する事で対抗しましたが、王都を漢城(現・ソウル)、熊津(現・忠清南道公州市)、更には泗沘(現・忠清南道扶余郡)へと南遷せざるを得ない程に国力が弱体化。その間、世子(太子)を含む王族を倭国へ人質として滞在させる等、次第に倭国の保護国と化していた百済は、660年、蘇定方率いる唐軍に依って王都・泗沘を占領され、時の王・義慈王が降伏し滅亡しました。その後、鬼室福信を中心とする百済の遺臣が唐に反旗を翻(ひるがえ)し、又、倭国に於いても人質(実際には賓客待遇)として暮らしていた世子の扶余豊璋(余豊璋、余豊共言う)を帰国、王位に就かせ、国の再興を支援しました。結果的に、百済再興は、663年の白村江(はくすきのえ)の海戦に於いて、倭・百済連合軍が唐・新羅連合軍に大敗を喫した事に依って水泡に帰しました。

ころで、昨今、高句麗の「歴史」を巡って、「中国」(支那)・韓国がそれぞれ自国の歴史に「帰属」する旨、激しく対立していますが、私は百済は日本史の一部として扱っても良いのでは無いか?と考えています。例えば、百済滅亡後、王侯貴族を筆頭に相当な人数の百済人が日本へと亡命、帰化しました。それ以前、『好太王碑』に百済が倭国の属国であった旨の記述が為されていた事は前述の通りですが、仏教を始めとする多くの文物伝来に寄与し、国家滅亡後、亡国の民が大量に日本に流入した事を考えると、「百済」と言う国は、滅亡と共に国民の大量「帰化」を通して、日本に吸収合併された共言えます。又、支那の史書には、「百済では王侯貴族と一般民衆の使う言語が違う」とか(「百済語」がどの様な言語だったのか、今となっては不明。但し、亡命後の百済王公が日本の朝廷にすんなり馴染んだ事を考えると、「百済語」が日本語に極めて近い言語であった事が類推される)、「国民全体に対する倭人の比率が非常に高い」と言った記述があり、「百済」と言う国が、百済人(南扶余人)と倭人からなる混成国家だった可能性さえ伺えます。更に言うと、亡国後、扶余豊璋の弟で日本に住んでいた禅広(善光)等、旧百済王族に対して朝廷より百済姓が下賜、貴族に列せられ、一族の長に対しては「百済王(くだらのこにきし)」の称号や従三位(じゅさんみ)以上の冠位が授けられる等、破格の待遇を受けました。因みに、平安の世を開いた桓武天皇は自らの生母・高野朝臣新笠(たかののあそみ-にいがさ)が百済武寧王の子孫・和(やまと)氏であった事から、

百済王等者朕之外戚也。
(百済王等は、朕(天皇)の外戚なり)

とさえ言っています。

(いず)れにせよ、百済と言う国は高句麗同様、既にこの地球上には無く、『百済紀』・『後百済紀』と言った史書も失われ、百済の人々が実際にどの様な言葉を喋(しゃべ)っていたのかすら分かりません。いや、それ以前に、「百済(ひゃくさい)」と書いて、何故、日本では「くだら」と呼ぶ事となったのか?すら謎の儘(まま)です。(但し、「くだら」の語源が仏教の言葉で、観世音菩薩の住まう山「補陀落(ふだらく)」浄土 Potalaka である事だけは確か) 今回、「倭の五王」から書き始め、百済で終わる訳ですが、平成9(1997)年に発表したコラム『16.日本と満州は兄弟国だった!! 幻の日本・渤海同盟』に於いて、嘗て満州の地に「扶余」と言う国があり、その国から高句麗(満州)と南扶余(朝鮮)、更には、南扶余から百済(南朝鮮)・日本(日本列島)が分立した、と書いた事が思い起こされます。

は、日本に対して「正しい歴史認識」を求め乍(なが)ら、自らは「歴史を歪曲」して竹島(や対馬)の領有権を主張する韓国に対して、『魏志倭人伝』・『好太王碑』、そして、今回取り上げた「倭の五王」や七支刀、更には百済の存在を以て、日本の韓国国土に対する領有権主張が歴史的観点から可能である事を指摘した訳ですが、元より、韓国への侵略を鼓舞する積もりは毛頭ありません。然し乍ら、嘗て朝鮮半島に存在した「百済」と言う国に、多くの日本人が暮らし、滅亡後は大量の人と文物が日本に流入した事は常に念頭に置いておく可(べ)であると思いますし、百済滅亡後の日本は、百済がそうであった様に、日本人と百済人による混成国家だったと思っています。百済滅亡後、日本に帰化した百済人はその後、すっかり日本に融け込み、今では、「在日百済人」を意識する事すら我々には想像出来ませんが、現在、日本に住み乍ら、帰化を拒(こば)み頑(かたく)なに「在日」を通している韓国・朝鮮人はこの先、一体何時(いつ)迄「在日」を通す気なのでしょうか? 既に三世・四世の時代。最早(もはや)、「母国語」である筈の韓国・朝鮮語の読み書きすら出来ず、思考も日本人と何ら変わりない彼ら「在日」に対しては、理不尽な言いがかりばかりで建設的とは到底言えない彼らにとっての「祖国」(韓国・北鮮)とは一日も早く訣別し、百済人を見習って日本に帰化して貰いたい。そして、我々「在日日本人」と共に手を携えて、この日本の為に貢献して貰いたい、と切に願いつつ締め括りたいと思います。


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