Reconsideration of the History
16.日本と満州は兄弟国だった!! 幻の日本・渤海同盟 (1997.10.11)

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平時代の神亀4(西暦727)年12月20日、寧楽(なら)の都(平城京)に、遙か彼方・満州から使節一行が入京しました。当時、満州にあった渤海国からやって来た使節は宮中に参内し、渤海国王・大武芸(武王)の国書を、時の帝・聖武天皇に奉呈しました(下記)

<原文>

武藝啓。山河異域、國土不同。延聽風猷、但増傾仰。伏惟大王天朝受命、日本開基、奕葉重光、本枝百世。武藝忝當列國濫惣諸蕃、復高麗之舊居、有扶餘之遺俗。但以天涯路阻、海漢悠悠、音耗未通、吉凶絶問、親仁結援。庶叶前經、通使聘隣、始乎今日。謹遣寧遠將軍郎將高仁義・游將軍果毅都尉將徳周・別將舍那婁等廿四人、賚状、并附貂皮三百張、奉送。土宜雖賤用表獻芹之誠、皮幣非珍、還慚掩口之誚、主理有限、披膳未期。時嗣音徽、永敦隣好。

<読み下し文>

武藝渤海国王・大武芸本人)啓す。山河域を異(こと)にして、国土同じからず。延(ほの)かに風猷(ふうしゅう)を聴きて、但(ただ)、傾仰(けいぎょう)を増す。伏して惟(おも)うに、大王の天朝、命を受け、日本の基(もとい)を開き、奕葉(えきよう)光重く本枝百世なり。武藝忝(かたじけ)なくも列国に当たり、濫(すべ)ての諸国を惣(す)べ、高麗(高句麗のこと)の旧居を復し、夫余の遺俗を有(たも)てり。但、天涯路(みち)(へだ)たり、海漢(ひろ)く悠々たるを以て、音耗(おんもう)(いま)だ通ぜず、吉凶問うことも絶ゆ。親仁を結び援(あわ)せん。庶(ねが)わくば前経(ぜんけい)に叶(したが)い、使を通じて隣に聘(へい)すること今日に始めん。謹みて、寧遠將軍郎將高仁義・游將軍果毅都尉將徳周・別將舍那婁ら二十四人を遣(つか)わし、状(のり)を賚(たま)い、并(あわせ)て、貂皮(てんがわ)三百張(はり)を附け、送り奉(たてまつ)らん・・・(以下略)

時の朝廷は、はるばる満州から、高級な貂皮等の「おみやげ」を持ってやって来た渤海国の使節に、右往左往すると同時に、「大国」日本に、「属国」の礼をとってきたものと勝手に解釈し、狂喜乱舞しました。そして、この時から延長7(西暦930)年1月31日の来朝迄、約二百年間に渡って、実に37回も渤海国使節が日本に来訪したのです。

二百年間もの長期に渡って続いた日本・渤海間の使節往来ですが、なぜ、大武芸王は日本に使節を派遣したのでしょうか? その第一の目的は、「軍事同盟」−現代風に言えば、「日渤安保」の締結でした。ではなぜ、渤海が「日渤安保」を必要したか? それは渤海の建国事情にあったのです。渤海の歴史については、今なお多くの謎が残っているのですが、とりわけ建国史となると、更に多くの謎が残っています。ただ、これだけは言える事ですが、渤海建国の直接的要因の一つが、満州の大国・高句麗(こうくり)の滅亡にあったことだけは確かです。高句麗と言うと、朝鮮人の王朝と言うイメージがありますが、実際の所は、満州族−後のを建てたツングース系北方民族が主体でした。高句麗は百済(くだら)を滅ぼし強大化した新羅(しらぎ)と、東アジアの「盟主」唐の挟撃(はさみうち)にあい、668年滅亡しました。高句麗の遺民は、武装蜂起し国を再建しないように、各地に分散させられましたが、696年、モンゴル系契丹人・李尽忠、ツングース系靺鞨人・乞四比羽(唐人が発音を無理矢理漢字で表記したもので、原音は不明)らと共に、高句麗王族・乞々仲象(乞四比羽同様、原音は不明)も唐に対して反旗を翻しました。そして、この乞々仲象が建国したのが、「大震国」−後の渤海国だったのです。つまり、渤海はその建国からして、大国・唐、更に朝鮮半島を統一した新羅と、敵対関係にあったのです。

を元に戻しますが、大武芸王が「安保」のパートナーに日本を選んだ理由、それは、渤海の南を脅かす恐れのある統一新羅に対して、渤海(北)と日本(南)で、南北双方から牽制し、うかつに軍事行動(この場合、新羅による渤海侵攻)を起こせないようにする為だったのです。これはある意味で非常に効果的でした。新羅は、渤海が新興国・契丹に滅ぼされる迄、一度も軍事侵攻をしませんでした。ただ、これは新羅にとって、半島を統一し政情が安定した事と、日本との間に和平が成立した事渤海同様、新羅からも日本へ使節が派遣されている)により、軍事行動(領土拡大)による国力の消耗を嫌った事も一因でしたが・・・。しかし、渤海が日本と同盟を結んだ最大の理由は、「安保」では無かったのです。それを解く鍵が、実は最初の渤海使が携えてきた「国書」にあったのです。

惟大王天朝受命、日本開基、奕葉重光、本枝百世。
「大王天朝」。これは朝廷−聖武天皇の事で、言い換えれば、日本の皇室。「受命」。これは天帝より命を受ける事で、地上の支配権(この場合は日本の統治権)を任されたと言う意味。そして、第一のキーワード「本枝百世」。これは、早い話、日本と渤海は「本枝」の関係−つまり「兄弟国」だと言っているのです。これが何を意味するかと言うと、ドイツ・フランス・イタリア三国の関係に当たります。独仏伊三国は、かつてフランク王国と言う一つの国でしたが、カロリング王朝の時に分裂、それ以来、三国に分かれたままなのです。つまり、独仏伊三国同様、日本と渤海も、かつては「一つの国」だったと「国書」は言っているのです。では、そのかつてあった「一つの国」とは何だったのでしょうか? その国の名も「国書」にはちゃんと書かれているのです。

藝忝當列國濫惣諸蕃、復高麗之舊居、有扶餘之遺俗。
この文の中で、「国書」の主・大武芸王は、「復高麗之舊居」、つまり、渤海の前身・高句麗の領土を回復し、「有扶餘之遺俗」、夫余の伝統を継承したと言っているのです。ここに出てくる「夫余」こそ、日本・渤海の原郷−かつてあった「一つの国」の名なのです。中華帝国を主体に書かれている中国の「正統」な歴代史書では、夫余を北方の野蛮な国としてしか書いていません。しかし、この国はかつて、全満州からモンゴル、更に華北(北中国)や朝鮮半島まで、広大な領土を有する大国でした。殷周革命で殷王朝が、「中華思想」を「国是」とする周王朝に滅ぼされる迄、中国(殷)はむしろ夫余の「属国」と言った関係でした。しかし、秦の始皇帝による全中国の統一以後、これらの事実は悉く葬り去られ(これが世に言う所の「焚書抗儒」の一端です)、逆に中国が満州等の周辺諸国を「属国」として来たと言う風に歴史を歪曲されてしまったのです。言い換えれば、「中華思想」とは、かつて「属国」の地位だった中国のコンプレックスの裏返しなのです。

て、その後、夫余は一体どうなったのでしょうか? 「夫余」は、朝鮮史に登場する「檀君朝鮮」と同じ国なのですが、王朝交替の中で、「高句麗」と国名を変えます。そして、その高句麗の後身が、あの「渤海」なのです。つまり、

夫余(檀君朝鮮)→高句麗→渤海

と言う訳です。では、日本と夫余の関係はどうなのでしょう? 実は、夫余にはもう一つの系統があるのです。そのもう一つの系統は朝鮮半島を南下した一派で、「南夫余」と呼ばれていました。この南夫余は朝鮮半島南部に定着し「百済」を建国したのですが、中には更に南下し対馬海峡を渡って、日本に来た者もいました。そして、その時、日本に渡った南夫余の王・依羅が、崇神天皇になった共言われているのです。

「依慮王、鮮卑(せんぴ)の為に敗れ、逃(のが)れて海に入りて還(かえ)らず。子弟走りて北沃沮(きたよくそ)を保つ。明年、子・依羅立つ。自後、慕容廆(鮮卑慕容部の首領で、燕国の王)、又復(ふたた)び国人を掃掠す。依羅、衆数千を率い、海を越え、遂に倭人を定めて王と為る・・・」

上に記した文は、朝鮮の史料『太白逸史』中の「大震国本紀」に依るものですが、南夫余の王・依慮はモンゴル系鮮卑族との戦に敗れ戦死?した(「還らず」が示唆している)、翌年、王子の依羅(依罹)が新たな王となり、北沃沮(地名)を領有したと言っているのです。更に、宿敵・慕容氏に再び攻められ、新王・依羅は国民を引き連れて対馬海峡を渡り、日本に入って「倭人の王」となったと言っているのです。そして、依羅(依罹=イリ)が、御間城入彦(ミマキイリヒコ)、つまり崇神天皇だったとすれば、日本の皇室も又、夫余の流れを汲んでいたと言う事になるのです。

夫余─┬高句麗──渤海
   └南夫余─┬百済
        └日本

つまり、大武芸王は、安全保障上の理由だけでなく、「かつては一つの国であった」日本と、「兄弟」の誼(よしみ)を通じて、「お互い仲良くしましょう」と言った意味で、使節を派遣してきたのです。それが「国書」の最後に書かれた

「永敦隣好」

の四文字の意味なのです。


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