Reconsideration of the History
168.釜山(プサン)の領有権は日本にある!? ── 「竹島問題」での韓国への対抗策 -其の壱- (2006.6.2)

前のページ 次のページ


原文

 倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國。漢時有朝見者。今使譯所通三十國。

 從郡至倭、 循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。

 始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。 所居絶島、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴。

 又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。

 又渡一海千余里、至末廬国。有四千余戸、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒深浅、皆沈没取之。

(後略)

和訳

 倭人は帶方(郡)の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑(こくゆう)を為(な)す。旧(もと)百余國。漢の時、朝見する者あり。今、使訳を通ずる所三十國。

 (帶方)郡従(よ)り倭に至るには、海岸に循(したが)いて水行し、韓國を歴(へ)て、乍(たちま)ち南し乍ち東し、その北岸、狗邪韓國(くやかんこく)に至ること七千余里。

 始めて一海を渡ること千余里、對馬(つしま)國に至る。その大官を卑狗(ひく/ひこ)と曰(い)い、副を卑奴母離(ひなもり)と曰う。居(い)る所絶島にして、方四百余里ばかり。土地は山険(けわ)しく深林多く、道路は禽鹿(きんろく)の径(こみち)の如し。千余戸有り、良田無く、海物を食いて自活し、船に乗りて南北に市糴(しかい)す。

 又、南に一海を渡ること千余里、名づけて瀚海と曰う。一大(壱岐)國に至る。官を亦(また)卑狗と曰い、副を卑奴母離と曰う。方三百里ばかり。竹木叢林(そうりん)多く、三千ばかりの家有り。やや田地有り、田を耕せど猶(なお)食足らず、また南北に市糴す。

 又、南に一海を渡ること千余里、末廬国(北九州・松浦半島)に至る。四千余戸有り、山海に濱(そ)いて居る。草木茂盛して、行くに前人を見ず。好んで魚鰒を捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之(これ)を取る。

頭からいきなり難しい漢文が登場しましたが、これは、『三国志・魏書 東夷傳・倭人条』── 一般には『魏志倭人伝』(以下、『倭人伝』と略)と呼ばれている支那の史書の記述です。「(後略)」の後には、伊都國・奴國・不彌國・投馬國、そして、彼(か)の有名な「邪馬壹國」(邪馬台国)への記述が続く訳ですが、今回は、「邪馬台国」について論じる訳ではありません。扱うのは、『倭人伝』中、最初に登場する国「狗邪韓国」についてです。昨今、昭和28(1953)年2月27日以来、半世紀以上に亘(わた)って、侵略・不法占拠状態にある日本固有の領土「竹島」(韓国側呼称は「独島(トクト)」)だけで無く、対馬(つしま;韓国側呼称は「對馬島(テマド)」)に対する野心(侵略占領)をも公然と見せ始めた韓国。その様な韓国に対して、日本は為(な)す術(すべ)も無く ── 反論も出来ず、抗戦も出来ず ── 唯、指を咥(くわ)えて黙過するしか無いのでしょうか? いや、そんな事はありません。韓国が竹島や対馬に対する「領有権」を主張するのであれば、我々日本も対抗策を打ち出せば良いだけの話です。そして、その理論的根拠として今回挙げるのが「狗邪韓国」なのです。と言う訳で、今回は、「竹島問題」での韓国への対抗策第一弾として、「狗邪韓国」を取り上げてみたいと思います。

『三国志』東夷伝による諸民族の地理的位置 邪韓国 ── 『倭人伝』にはこう記述されています。

從郡至倭、 循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。(帶方郡より倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、韓國をへて、乍ち南し乍ち東し、その北岸、狗邪韓國に至ること七千余里)

「狗邪韓国」の位置は、朝鮮半島南東沿岸部、現在の慶尚南道(キョンサンナムド)金海(キメ,キムヘ)市で、釜山(プサン;釜山広域市)に隣接しています。この金海は、洛東江(らくとうこう,ナクトンガン)右岸河口に近く、古くから「狗邪韓国」・「任那加羅」・「金官加羅」・「金官伽耶」・「金官国」・「本加羅」・「駕洛(から)国」・「南加羅」等と称され、半島南端部の国家連盟「加羅」(弁韓・弁辰の後身)の中では、北部の高霊加羅(大加羅)と共に、南加羅として盟主的立場を分かっていました。金官国は、6世紀、現在の慶尚北道(キョンサンプクド)にあった新羅(しらぎ,シルラ)に圧迫され、532年(新羅法興王19年)、時の金仇亥(仇衡)王が一族共々、新羅に降って国は滅びました。尤(もっと)も、仇亥王の一族は、亡国後、自らの国を滅ぼした新羅の王都・慶州(キョンジュ)に移住し、彼の地で皮肉にも大いに繁栄し、その子孫は「金海金氏」と称される事となります。

(さて)、その「狗邪韓国」について、『倭人伝』ではこの様な冠詞が付されています。曰く、

其北岸

と。「其北岸狗邪韓国」(其の北岸、狗邪韓国)の「其北岸」とは一体、何処(どこ)を基準に見ての「北岸」なのか? 前述した通り、「狗邪韓国」は現在の慶尚南道金海市であり、その位置は、朝鮮半島南東沿岸部。若(も)しも、現在の地理観 ── 韓国領 ── に従って見た場合、いや、出発点である帯方郡(現在のソウル附近)の視点に立った場合、半島南岸部なのですから、「狗邪韓国」に付される冠詞は、「其北岸」では無く、「其南岸」と記されるのが自然でしょう。然(しか)し、冠詞は「其南岸」では無く、「其北岸」です。「南」と「北」を誤記したとは到底考えられません。そうであれば、「其北岸」の基準は一つしか考えられません。詰まり、「其北岸」の「其」(其の)は、

倭(=日本)

であると。

「其北岸」の「其」が倭であるとした場合、「狗邪韓国」は倭の勢力圏内にあった事になります。其れは詰まり、倭が対馬海峡を隔てた九州(南岸)と「狗邪韓国」(北岸)に跨(またが)る海峡国家であった事を意味する訳です。然し、韓国側は、有名な「任那(みまな)日本府」を架空の存在と断じるのと同様に、この様な事は到底認めないでしょう。其処(そこ)で『倭人伝』の記述中、「狗邪韓国」の部分をもう一度見てみましょう。

從郡至倭、 循海岸水行、韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。

「其北岸狗邪韓国」の前にもう一つ気になる記述がある事に気付きます。其れは「歴韓国」(韓国を歴て)です。

「韓国を歴て其の北岸、狗邪韓国に至る」とは一体どう言う事なのか? 「狗邪韓国」にも「韓国」の名が付されているにも拘(かか)わらず、何故(なぜ)、「韓国を歴て至る」のか? 非常に不可解です。この疑問を解決する答えは一つしかありません。矢張り、「狗邪韓国」が倭の勢力圏、いや、よりはっきりと言えば、倭人国家であったと言う事です。そして、これを補強する記述が、『魏志韓伝』(三国志・魏書 東夷傳・韓条)に登場します。

原文

 韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接。方可四千里。有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。辰韓者、古之辰國也。馬韓在西。其民土著、種植、知蠶桑、作緜布。各有長帥、大者自名爲臣智、其次爲邑借、散在山海間、無城郭。

(後略)

和訳

 韓は帯方(郡)の南にあり、東西は海を以て限りと為し、南は倭と接す。方四千里ばかり。三種有りて、一に馬韓と曰い、二に辰韓と曰い、三に弁韓と曰う。弁韓は、いにしえの辰国也。馬韓は西に在り。其の民は土着にして、種を植え(農業を営む)、蚕桑を知り(養蚕をする)、緜布を作る(機織りをする)。各々に長帥有りて、大(長官)は自らの名を臣智と為し、其の次(次官)は邑借と為す。山海の間に散在し、城郭は無し

『魏志韓伝』の冒頭には、「韓」の地理的位置が示されています。其れによれば、「韓」は、帯方郡の南にあって、東は日本海沿岸、西は黄海沿岸迄であり、南は「倭と接している」と言う。問題は、この「倭と接している」をどの様に解釈するかです。若しも、南の「狗邪韓国」も「韓」の勢力圏であったとすれば、「狗邪韓国」は半島南岸部にあって、対馬海峡西水道(朝鮮海峡)=海と接しているのですから、『魏志韓伝』も、

韓在帶方之南、東西以海爲限

では無く、

韓在帶方之南、東西以海爲限

と記述した筈です。又、若しも、「韓」の勢力が現在の韓国側が主張する様に、対馬(や北九州)に迄伸張していたのだとすると、記述は更に、

韓在帶方之南、東西以海爲限、歴狗邪韓國、始度一海、千餘里至對馬國。又南渡一海千餘里、至一大國。又渡一海千余里、到其南岸末廬国

と言ったものになっていた筈です。然し現実には、唯(ただ)単に「南與倭接」(南は倭と接す)とだけしか記述されていません。「渡一海○○里」(海を渡ること○○里)と言った様に、南で接している倭との境界に「海」は登場しません。詰まり、『魏志韓伝』の記述に従えば、

韓と倭の境界上には、海は存在しない
(韓と倭は海を渡る事無く陸続きである)

と言う結論に達するのです。その事を踏まえた上で、『倭人伝』の「狗邪韓国」の部分を改めて読み直すと、

從郡至倭、 循海岸水行、韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。

釜山 矢張り、「狗邪韓国」は韓の勢力圏では無く、倭の勢力圏に属していたと言う結論にしか達しないのです。詰まり、三国志の時代、「狗邪韓国」 ── 『魏志韓伝』には「弁辰狗邪国」 ── として登場し、その後も「任那加羅」・「金官加羅」等の名で呼ばれ、地域の盟主として南加羅(任那)を束ねていた国家が、倭の勢力圏に属していたと言う事は、逆説的に考えれば、「狗邪韓国」の故地である金海市や、「狗邪韓国」が束ねていた、現在の釜山広域市(右写真) ── 人口370万人を超える韓国第二の都市 ── をも包含する南加羅地域、

釜山・慶尚南道に対する「領有権」を日本が主張する事も可能

と言う事になる訳です。

の様な主張をすれば、韓国側が態度を硬化させるであろう事は当然でしょう。然し、韓国側が、「対馬は倭に属す」と記述する『倭人伝』よりも、遙か後代に編纂された『三国史記』「新羅本紀」(1145年完成)や、『世宗実録』(1431年編纂)の記述を根拠に、対馬の領有権を主張するのであれば致し方ありません。我々日本も、韓国南部、釜山・慶尚南道に対する領有権を、『倭人伝』の歴史的記述を根拠に主張する迄の事です。占有面積(実際には領海と排他的経済水域を伴うが)も人口も少ない竹島や対馬と、総人口で政令指定都市・横浜を遙かに上回る釜山・慶尚南道と、どちらに対する領有権主張の方がダメージが大きいか? 不法占拠されている竹島の奪還と、魔手が伸びようとしている対馬の防衛の為に、相手(韓国)の上を行く要求を突き付ける。日本が今後も、「鉄砲(武力)を使わない戦争」をするのであるならば、交渉(外交)で打ち勝つ戦術・戦略が必要不可欠です。相手が到底受け容(い)れられない条件を突き付ける。それで相手が交渉に応じなければ、「こちらは交渉のテーブルに何時(いつ)でも着く準備が出来ているにも拘わらず、韓国が応じようとしない」として国際社会にPRし、応じたら応じたで、硬軟両様、和戦両様の戦術を用いて、こちらのペースで落とし処(どころ)に持っていく。その様な手法を日本、特に外務省は身に付ける可(べ)きと言えるでしょう。民間に出来る事はたかが知れています。国家と国家との交渉に付いては、国 ── 政府であり外務省 ── が、国民が安心して全権を委任出来る様な施策を打つ。其れこそが「国家」の存在意義であり、そうあって欲しいとつくづく思います。


前のページ 次のページ