Reconsideration of the History
169.韓国の領有権は日本にある!?(1) ── 「竹島問題」での韓国への対抗策 -其の弐- (2006.7.5)

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、私は、『魏志倭人伝』(『三国志・魏書 東夷傳・倭人条』)の記述から、古代の日本(当時の倭国)が、朝鮮半島南岸部の任那(みまな)・加羅(伽耶 かや)と呼ばれていた地域 ── 現在の韓国・釜山(プサン)広域市から慶尚南道(キョンサンナムド)に至る一帯 ── を領有していた事を引き合いに出す事で、日本固有の領土であり乍(なが)ら、韓国の侵略によって不法占拠されている竹島(韓国名:独島(トクト))や、侵略の魔手が伸びようとしている対馬(韓国名:對馬島(テマド))への対抗策として、日本が韓国に対して、釜山・慶尚南道に対する領有権を主張す可(べ)だ、と書きました。とは言え、支那(中国)の史書である『魏志倭人伝』の記述だけでは余りなので、今回は、別の史料を引き合いに出そうと思います。

好太王碑 (かつ)て、紀元前37年頃から紀元後668年に至る凡(およ)そ700年間に亘(わた)って、現在の満州(支那呼称:中国東北部)から遼東半島、北鮮(北朝鮮)に至る一帯を領有していた強大な国家がありました。その名を「高句麗」(こうくり 高勾驪・高麗)と言います。近年、この高句麗(の歴史及びその版図)について、支那と韓国が「帰属権」を巡って争っている事をご存じの方もおありでしょう。その高句麗の最盛期の大王の名を国岡上広開土境平安好太王 ── 一般的には、広開土王、若(も)しくは、好太王 ── と言い、韓国では海軍の保有する駆逐艦の名に採用する程(広開土大王(クァンゲトデワン)級駆逐艦)、偉大な大王としています。 その大王の歿後、子息で王位を継いだ長寿王(在位 413−491)が、即位の翌年に当たる414年、鴨緑江(おうりょくこう)北岸の丸都(がんと)城近くに亡(な)き先王の偉業を称(たた)えて建立(こんりゅう)した石碑が、今も支那・吉林(きつりん)省輯安(しゅうあん)県通溝に残っています。その石碑を名付けて『好太王碑』(右写真)と呼びますが、高さ6.3m、幅1.512mの方形の石柱には、実は、韓国(及び北鮮)を震撼させる文言(もんごん)が刻まれていたのです。以下は、その碑文の全文です。

好太王碑 碑文

【第一面】

惟昔始祖鄒牟王之創基也出自北夫餘天帝之子母河伯女郎剖卵降出生子有聖□□□□□□命駕
巡車南下路由夫餘奄利大水王臨津言曰我是皇天之子母河伯女郎鄒牟王爲我連浮龜應聲即爲
浮龜然後造渡於沸流谷忽本西城山上而建都焉永楽世位因遣黄龍來下迎王王於忽本東岡黄
龍負昇天顧命世子儒留王以道興治大朱留王紹承基業□至十七世孫國岡上廣開土境平安好太王
二九登祚號爲永楽太王恩澤□亐皇天威武柳被四海掃除□□庶寧其業國富民殷五豊熟昊天不
弔卅有九晏駕棄國以甲寅年九月廿九日乙酉遷就山陵於是立碑銘記勲績以永後世焉其□曰
永楽五年歳在乙未王以碑麗□息□□躬率往討叵富山負山至鹽水上破其丘部洛六七百當牛馬群
羊不可稱數於是旋駕因過妿平道東來□□力城北豊五遊観土境田而還百殘新羅舊是屬民
由來朝貢而倭ロ<耒卯年來渡海破百殘□□□羅以爲臣民
以六年丙申王躬率水軍討科殘國軍□□
首攻取壹八城臼模盧城模盧城幹弓利□□□城閣彌城牟盧城彌沙城□□蔦城阿旦城古利城□
利城□彌城奥利城勾牟城古模羅城頁□□□□□分而能羅□場城□□城□□城豆奴城沸□□

【第二面】

利城彌鄒城也利城大山韓城掃加城敦抜□□□城□婁實城散□城□婁城細城牟婁城弓婁城蘇□
城燕婁城柝支利城巖門至城林城□□□□□□□□城就鄒城□抜城古牟婁城閨奴城貫奴城彡穰
城□□□□□羅城仇天城□□□□□其國城賊不服氣敢出百戦王威赫怒渡阿利水遣刺迫城横□
□□□便國城百殘王困逼獻出男女生白一千人細布千匝歸王自誓従今以後永爲奴客太王恩赦□
迷之録其後順之誠於是□五十八城村七百将殘王弟並大臣十人旋師還都八年戊戌ヘ遣偏師観
帛愼土谷因便抄得莫新羅城加太羅谷男女三百餘人自此以來朝貢論事九年己亥百殘違誓與倭和
通王巡下平穰而新羅遣使白王云倭人満其國境潰破城池以奴客爲民歸王請命太王恩後稱其忠□
時違使還告以□訴十年庚子ヘ遣歩騎五萬住救新羅從男居城至新羅城倭満其中官兵方至倭賊退

□□□□□□□□來背息追至任那加羅從抜城城即歸服安羅人戍兵抜新羅城城倭満倭潰城□
□□□□□□□□□□□□□□□□□九盡臣有□安羅人戍兵満□□□□□□□□□□□□□

【第三面】

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□辭□□□□□□□□□□□□□潰
□□□□安羅人戍兵昔新羅安錦未有身來朝貢□□□□□開土境好太王□□□□□□□□□□
□□□□朝貢十四年甲辰而倭不軌侵入帯方界□□□□□石城□連船□□□□□□□□□平穰
□□□□相遇王要截盪刺倭寇潰敗斬殺無數十七年丁未ヘ遣歩騎五萬□□□□□□□□□城
□□合戦斬殺湯盡所稚鎧ナ一萬餘領軍資器械不可勝數還破沙溝城婁城還□□□□□□□□□
□城廿年庚戌東夫餘舊是鄒牟王屬民中叛不貢王躬率往討軍到餘城而餘城國駢□□□□□□那
□□王恩晋虚於是旋還又其慕化随官來者味仇婁鴨盧卑斯麻鴨盧□立婁鴨盧粛斯舎□□□□□

□盧凡所攻破城六十四村一千四百守墓人烟戸賣勾余民國烟二看烟三東海賈國烟三看烟五敦城
□四家盡爲看烟亐城一家爲看烟碑利城二家爲國烟平穰城民國烟一看烟十呰連二家爲看烟住婁
人國烟一看烟卌二谷二家爲看烟梁城二家爲看烟安失連廿二家爲看烟改谷三家爲看烟新城三
家爲看烟南蘇城一家爲國烟新來韓穢沙水城國烟一看烟一牟婁城二家爲看烟豆比鴨岑韓五家爲
看烟勾牟客頭二家爲看烟永底韓一家爲看烟舎蔦城韓穢國烟三看烟廿一古家羅城一家爲看烟
古城國烟一看烟三客賢韓一家爲看烟阿旦城雑珍城合十家爲看烟巴奴城韓九家爲看烟各模廬
城四家爲看烟模盧城二家爲看烟牟水城三家爲看烟幹弓利城國烟二看烟三弥旧城國烟七看烟

【第四面】

□□□□□□□□三家爲看烟豆奴城國烟一看烟二奥利城國烟二看烟八須鄒城國烟二看烟五百
殘南居韓國烟一看烟五大山韓城六家爲看烟農賣城國姻一看烟一奴城國烟二都烟廿二古牟婁
城國烟二看烟八城國烟一看烟八味城六家爲看烟就咨城五家爲看烟彡城廿四家爲看烟散那
城一家爲國烟那旦城一家爲看烟勾牟城一家爲看烟於利城八家爲看烟比利城三家爲看烟細城三
家爲看烟國岡上廣開土境好太王存時ヘ言祖王先王但ヘ取遠近舊民守墓洒掃吾慮舊民轉當
若吾萬年之後安守墓者但取吾躬率所略來韓穢令備洒掃言ヘ如此是以如ヘ令取韓穢二百廿家慮
其不知法則復取舊民一百十家合新舊守墓石國烟卅看烟三百都合三百卅家自上祖先王以來墓上
不安石碑致使守墓人烟戸差錯惟國岡上廣開土境好太王盡爲祖先王墓上立碑銘其烟戸不令差錯
又制守墓人自今以後不得更相轉賣雖有富足之者亦不得檀買其有違令賣者刑之買人制令守墓之

古代朝鮮三国(高句麗・百済・新羅)地図 (さて)、この碑文中、赤字で示したのが、日本 ── 当時の倭国 ── に関する記述なのですが、第一面の八〜九行目に韓国を震撼させる文言が登場します。曰(いわ)く、

百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭ロ<耒卯年來渡海破百殘□□□羅以爲臣民
この文言には欠字(碑文中、「□」で表している部分)があり、又、異字体(「以」に対する「ロ<」等)も用いられているので、支那人・陽伯馨氏(1896年歿)の遺稿を基に出版された『瀋故』中の「高麗墓碑」に記載されている同部分を改めて記します。

百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以辛卯年來渡海破百殘隨破新羅以爲臣民(百殘・新羅は旧(もと)是(これ)(高句麗の)属民にして(高句麗に)朝貢す。而(しか)るに、倭、辛卯年(しんぼうねん;西暦391年)を以(もっ)て渡海し、百殘を破りて随(したが)え、新羅をも破り、以て臣民と為(な)す)

此処(ここ)に登場する「百殘」とは「百濟」(百済 くだら)を指しており、上記の文言は平たく言えば、

高句麗に服属していた百済と新羅が、倭(日本)に服属した

と言っている訳です。然も、これは日本側が勝手に歴史を捏造して言っている訳ではありません。韓国が自国の歴史に帰属すると主張して止(や)まない高句麗の、然も、駆逐艦の名に冠する程、偉大な王として称えている好太王の顕彰碑に刻まれているのです。

韓国行政区分図 の記述に関しては、1883年(明治16)に大日本帝国陸軍参謀本部の酒匂景信(さかわ-かげのぶ)砲兵大尉が、拓本(墨水廓填本)を日本に持ち帰って以来、在日も含め韓国側では碑文が日本側によって都合の良い様に改竄(かいざん)されたとの見解が出されていましたが、前掲の『瀋故』(高麗墓碑)を含め、「酒匂拓本」以前の碑文の写しが存在する事が明らかとなり、然も、其(そ)れ等(ら)の記述が何(いず)れも、「酒匂拓本」と一致していた為、今日では日本による碑文改竄は明確に否定されています。詰まり、414年に建立された石碑によって、日本が前回のコラムで指摘した任那・加羅(現釜山広域市・慶尚南道)だけで無く、百済(現忠清(チュンチョン)北道・忠清南道・全羅(チョルラ)北道・全羅南道)・新羅(現慶尚北道)をも服属させていた ── 現在の韓国で言えば、首都ソウルと其れを取り巻く京畿道(キョンギド)、江原道(カンウォンド)を除く、韓国国土の実に三分の二を勢力に置いていた ── 事になる訳で、見方を変えれば、現在の韓国と北鮮が38度線(軍事境界線)を挟んで対峙しているが如く、古代の朝鮮半島を舞台に倭・高句麗と言う軍事強国が南北に対峙していた訳です。(『好太王碑』には、その後、高句麗が倭を撃破したと刻んではいるが) 繰り返しますが、此(これ)は決して日本の右翼反動主義者の「妄言」ではありません。414年に高句麗の長寿王によって建立された『好太王碑』と言う第一級の史料に刻まれている動かし難(がた)い明確な事実なのです。

韓国海洋調査船「海洋2000」 国は、今年(2006年)4月、日本が海上保安庁の調査船2隻による竹島周辺を含む日本側EEZ(排他的経済水域)内での海洋測量調査を計画・実施しようとした際、調査の中止を要求。日本が調査を強行し、調査船が竹島周辺海域に到達した場合には、排水量5,000tの「サムボン」号を筆頭に、大小20隻もの警備艦艇と哨戒機を動員して、これを阻止、場合によっては日本調査船の拿捕も辞さず、との姿勢を示しました。結局、この一件は、4月21日、谷内正太郎(やち-しょうたろう)外務事務次官(内閣官房副長官補)が訪韓し、柳明桓(ユ=ミョンファン)韓国外交通商部第一次官との外務次官会談によって、翌22日、韓国側が6月にドイツで開催される『海底地形名称に関する小委員会』では独自名称の提案を行わない事を条件に、日本側も海洋測量調査を行わない事で決着しました。(韓国側はその後、『海底地形名称に関する小委員会』での提案を仄めかしたが、実際の提案は行わなかった) それから2ヶ月も経たない6月14日、韓国は竹島周辺海域での海流調査を7月3日から実施する方針を決定。日本の中止要求に対しては、7月3日、予定通り、韓国南岸の蔚山(ウルサン)から、海洋調査船「海洋(ヘヤン)2000」(2,500t 上写真)を出航させ、7月5日、日本のEEZ及び竹島周辺の日本領海に「侵入」し調査を強行。谷内外務事務次官が直ちに、羅鍾一(ラ=ジョンイル)駐日韓国大使を外務省に呼び、抗議と調査中止を要求した際には、

(韓国の調査は)主権に基づいた当然の権利であり、
日本側の主張は受け入れられない

と嘯(うそぶ)きました。言う迄も無い事ですが、先(4月22日)の「合意」に際して、日本は「主権に基づいた当然の権利」である自国EEZ及び領海(竹島周辺海域)での海洋調査を留保したにも関わらずです。

れに対して、先の「合意」の日本側当事者であり、今回、羅大使に中止要求を拒絶された谷内次官は、面目を潰(つぶ)された恰好(かっこう)となり、海洋調査を主管する海上保安庁長官の座に無いにも関わらず、

日本側が4月に中止した竹島周辺海域での
海洋調査を「適切な時期」に改めて行う

と言明しました。まあ、これは当然の事でしょう。谷内次官で無く共、この様な背信行為 ── 自分達は相手に対して中止を要求、それを受け容れさせておき乍ら、いざ、自分達が相手の行おうとした、然も中止させた事と同じ事を行おうとし、それに対して相手が中止を要求すれば、「当然の権利」と強弁して強行する ── を受ければ誰でも立腹します。ましてや、事は国家間の事であり、普通ならとっくに戦争になっても可笑(おか)しくは無い、そう言った次元の問題なのですから。

ころで、韓国の「背信行為」は今に始まった事ではありません。戦後、韓国が独立した瞬間から、日本は幾度と無く煮え湯を飲まされて来ました。竹島問題にしても、日本側が歴史的事実を整然と突き付けても、二言目には、やれ「侵略」・「植民地支配」云々と言って話をはぐらかし、国際司法の場での決着を提案しても、それすらも応じない。逆に、竹島だけでは飽きたらず、今度は対馬に対する野望もちらつかせる始末。その様な韓国に対しては、「一般常識」 ── 普通の話 ── が通じない訳ですから、日本も相手にレベルを合わせて、今後は話をする必要があるのでは無いか? そして、その一環として、1600年も昔の話(好太王碑の記述)を持ち出して、日本も韓国領土の三分の二の地域に対する領有権を主張する。一件、荒唐無稽(こうとうむけい)な話かも知れませんが、今の韓国にはその位の「はったり」=無理な要求を突き付けなければ、してやられるだけですし、統一新羅以来、常に周辺大国の「腰巾着」(属国)として歩み、頭の天辺(てっぺん)から爪先(つまさき)に至る迄、「事大主義」が染みついている韓国を「屈服」させるには、韓国を日本の足下(そっか)に跪(ひざまず)かせる位の気概を以て日本は臨まなくてはなりません

の『魏志倭人伝』、今回の『好太王碑』と、二度に亘って、史料から韓国領土に対する日本の「領有権」を主張した訳ですが、主張の根拠となる史料は何もこれだけではありません。次回は又、別の史料を提示して、韓国領土に対する日本の「領有権」を主張したいと思います。


   余談(つれづれ)

広開土大王級駆逐艦 国の駆逐艦(右写真:広開土大王(クァンゲトデワン)級駆逐艦)の名に高句麗最盛期の大王である広開土大王好太王の名を冠している韓国。そして、その好太王を輩出した高句麗を自国の歴史に連なる国家と位置付けている韓国。然し乍ら、私は疑義を挟みたい。明治43(1910)年の『日韓併合条約』によって、国家主権を喪失、日本と合邦した大韓帝国(韓国)と、その前身である李氏朝鮮(李朝)、更にその前の高麗(こうらい)は、朝鮮半島を初めて統一した新羅の後継王朝でした。そして、その新羅が「滅ぼした国」こそが、高句麗だったのです。詰まり、新羅─高麗─李朝と言うラインで歴史を紡(つむ)いできた現在の韓国は、敵国である「高句麗を滅ぼした」歴史をも相続してきた事になる訳です。それにも関わらず、自分達の祖先が敵と看做(みな)し滅ぼした国を、偉大な自国(ウリナラ)の「歴史」の一頁(ページ)に組み込み、剰(あまつさ)え、その敵国の大王の名を冠する駆逐艦を建造するその神経。常軌を逸していますし、敵国の歴史さえも自国の歴史に組み込んでしまう所等は、支那と五十歩百歩。これこそ、正に「歴史の歪曲」であり、「歴史の捏造」では無いのか? 平素より、日本に対して「歴史認識」問題を持ち出す韓国に対して、私は皮肉を込めて主張したいですね。


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