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日米和親条約 (1854)

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政1(1854)年3月、徳川幕府と米国特命欽差大臣・ペリー提督(東インド艦隊司令官)との間に締結された条約。神奈川で調印されたので、別名「神奈川条約」共言う。条約の骨子は、下田・箱館(現・函館)の二港を米国船寄港地として開港し、同港での物資の補給(購入)を認める事、下田に米国総領事を常駐させる事の二点。同年5月、下田において和親条約付録協定 ── いわゆる「下田条約」を調印し、詳細を規定。その後、同4(1857)年の日米約定(下田条約)、更に同5(1858)年の日米修好通商条約へと発展吸収されていった。尚、本条約調印に伴う「開港」によって、徳川家康以来の「祖法」であった「鎖国」体制は完全に崩壊し、欧米列強諸国と同様の条約を次々と締結していった。


日本國米利堅合衆國和親條約(神奈川條約)

安政元年(嘉永七年)甲寅三月三日(西暦千八百五十四年第三月三十一日)於神奈川調印
安政二年乙卯正月五日(西暦千八百五十五年第二月二十一日)於下田批準書交換

亞墨利加合衆國ト帝國日本兩國ノ人民誠實不朽ノ和睦ヲ取結ヒ、兩國人民ノ交親ヲ旨トシ、向後可守箇條相立候タメ、合衆國リ全權「マツゼウ、カルブレス、ペルリ」(人名)ヲ日本ニ差越シ、日本君主ヨリハ全權林大學頭井戸對馬守伊澤美作守鵜殿民部少輔ヲ差遺シ、勅諭ヲ信シテ雙方左之通取極候
第一條
 日本ト合衆國トハ其人民永世不朽ノ和親ヲ取結ヒ場所人柄ノ差別無之事、
第二條
 伊豆下田松前地箱館ノ兩港ハ日本政府ニ於テ亞墨利加船薪水食料石炭缺乏ノ品ヲ日本人ニテ調候丈ハ給シ候為メ渡來之儀差免シ候尤下田港ハ條約書面調印之上即時相開キ箱館ハ來年三月ヨリ相始候事、
 給スヘキ品物直段書ノ儀ハ日本役人ヨリ相渡可申右代料ハ金銀錢ヲ以テ可相辨候事、、
第三條
 合衆國ノ船日本海濱漂着之時扶助致シ、其漂民ヲ下田又ハ箱館ニ護送致シ本國ノ者受取可申、所持ノ品物モ同様ニ可致候、尤漂民諸雜費ハ兩國互ニ同樣ノ事故不及償事、
第四條
 漂着或ハ渡來ノ人民取扱之儀ハ他國同樣緩優ニ有之、閉籠儀致間敷、乍併正直ノ法度ニハ服從致シ候事、
第五條
 合衆國ノ漂民其他ノ者共當分下田箱館逗留中長崎ニ於テ唐和蘭人同樣閉籠窮屈ノ取扱無之、下田港内ノ小島周リ凡七里ノ内ハ勝手ニ徘徊イタシ箱館港ノ儀ハ追テ取極候事、
第六條
 必要ノ品物其外可相叶事ハ雙方談判之上取決候事、
第七條
 合衆國ノ船右兩港ニ渡来ノ時金銀錢並品物ヲ以テ入用ノ品相調候ヲ差免シ候、尤日本政府ノ規定ニ相從可申、且合衆國ノ船ヨリ差出候品物ヲ日本人不好シテ差返候時ハ受取可申候、
第八條
 薪水食料石炭並缺乏ノ品ヲ求ル時ニハ其地ノ役人ニテ取扱フヘク私ニ取引スヘカラサル事、
第九條
 日本政府外國人ヘ當節亞墨利加人ヘ不差免候廉相免シ候節ハ、亞墨利加人ヘモ同樣差免許可申、右ニ付談判猶豫不致候事、
第十條
 合衆國之船若シ難風ニ逢サル時ハ下田箱館兩港ノ外猥ニ渡來不致候事、
第十一條
 兩國政府ニ於テ無據儀有之候時ハ模樣ニ寄リ合衆國官吏ノ者下田ニ差置候儀モ可有之、尤約定調印ヨリ十八箇月後ニ無之候テハ不及其儀候事、
第十二條
 今般之約定相定候上ハ兩國ノ者堅ク相守可申、尤合衆國主ニ於テ長公會大臣ト評議一定ノ後ノ書ヲ日本大君ニ致シ、此事今ヨリ後十八箇月ヲ過キスシテ君主許容ノ約定取換ヒ候事、
右ノ條日本亞墨利加兩國ノ全權調印セシムル者也、
  嘉永七年三月三日
  千八百五十四年三月三十日
     林  大学頭 花押
     井戸 対馬守 花押
     伊沢 美作守 花押
     鵜殿民部少輔 花押
     マツゼウ、カルブレズ、ペルリ 手記

(本用語解説中に掲載する条文は、河原一敏氏入力のテキストを利用させて頂きました。ここに同氏に対し、謹んで感謝を申し上げます。)


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