Reconsideration of the History
56.コリア人が待望していた「日韓併合」 日韓裏面史-其の肆-(1999.6.22)

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治43(1910)年8月22日、「韓国併合についての日韓条約」が調印され、大韓帝国は大日本帝国に併合されました。いわゆる「日韓併合」(日鮮合邦)です。これをコリア人は「日帝」(日本帝国主義)による「強制的併合」であり類い希なる「暴挙」だと主張します。まあ、コリア人の「愛国心」や「民族主義」についてどうこうとは言いません。しかし、「日韓併合」における日本の「立場」が一方的に糾弾・断罪される事には承伏出来ないのです。と言う訳で、今回は「日韓併合」についてコリア人への反論をしてみたいと思います。

ず、皆さんに第一に知って頂きたい事は、当時の大韓帝国(1897年、国号を朝鮮国から大韓帝国に改称。以下、「韓国」と省略)が、企業で言えば「倒産寸前」だったと言う事です。「開化派」が甲申政変を起こしたのも、倒産寸前だった李朝を自主再建しようとしたからです。何しろ、国土は荒廃し、慢性的な食糧不足に陥り、政治は腐敗の極に達しており、いつ国家が倒産してもおかしくはなかったのです。そんな実情を見て、日本は日清戦争後、韓国との間に協約を締結し、「保護国」として再建させようとしたのです。この保護国化をコリア人は、「日本は最初から韓国を植民地化する肚(はら)だった」等と主張しますが、それは違います。初代韓国統監となった伊藤博文や井上馨等はそもそも「日韓併合」には消極的でした。考えてみて下さい。健全な体力を持っている企業が、明日倒産するかも知れない企業をそう簡単に吸収合併するでしょうか? あの大国・西ドイツでさえ「東西ドイツ統一」後、旧東ドイツ地域の再建復興に四苦八苦したのですから。現在の韓国と当時の韓国とを同じ目で見てはいけないのです。現在の韓国の様にある程度の国力を備えていたなら、日本にとっても非常に「魅力的」だったかも知れません。しかし、当時の韓国は倒産寸前。日本が「日韓併合」に踏み切ると言う事は、取りも直さず相当なリスクを抱え込むと言う事だったのです。それを如実に示しているのが、当時の日本の「韓国併合反対」論です。その論旨は、「韓国は経済文化レベルが低く、清・露両国と国境を接し、国内政治は党派対立が激しく、官吏の腐敗は極に達しており、政治・経済・文化・社会・国防等非常に問題が多い。その様な韓国を併合すれば、日本は多大な負担を強いられる」と言うものでした。正にその通りだったのです。

て、そんな倒産寸前だった韓国を日本はあえて「保護国」化したのには、当時の日本の朝鮮観が多大な影響を及ぼしていました。それは欧米列強による植民地化や隷属化とは違い、「朝鮮人を扶掖して、日進文華の民となし、帝国の臣民として、永く安寧秩序を完(まっと)うせしむるにある」と言うものでした。つまり平たく言えば、「倒産寸前の『韓国株式会社』に救済の手を差し伸べようではないか」と言う訳です。これが「大きなお世話」だと言われてしまえばそれ迄ですが、日本は「韓国保護国化」後、本国(日本)から莫大な資金を投じて、韓国を支え続けました。韓国中央銀行を設立して金融の建て直しを図ったり、鉄道交通網を整備して近代化の礎を築いたりと言った具合で、コリア人に感謝こそされ、恨まれる覚えはないのです。それでも、韓国政府は日本に恩を徒(あだ)で返すような挙にばかり出ました。それが、高宗によるハーグ密使事件や、閔妃等によるロシアへの接近だったのです。そんな中、日韓双方に新たな模索が始まっていたのです。

ーグ密使事件後、日本国内に「我が国上下與論(よろん)沸然として鼎(かなえ)の湧くが如く、或いは新聞に、演説に併合を論じ、合邦を説くこと盛(さかん)なり」と言った日韓併合・合邦論が急速に台頭してきたのです。又、樽井藤吉(1849-1922)の『大東合邦論』の「日韓併合によって新合邦国家『大東国』を建設し、次に大東国と清国が合邦して南方植民地(東南アジア地域)を解放し、『大東亜連邦』を実現する」と言った構想が内外に影響を及ぼし、遂には韓国国内にも「日韓併合」論が公然と主張されだしたのです。

韓国皇帝・高宗 治42(1909)年12月4日、一進会が百万会員の名において、韓国皇帝(高宗;右写真)・曾禰荒助統監・李完用(イ・ワンヨン)首相宛に、「韓日合邦」の奏上文(請願書)を提出したのです。この一進会は、宋秉o(ソン・ピョンチュン)李容九(イ・ヨング)等によって明治37(1904)年8月8日に組織された政治結社で、その会員の多くは東学党教徒・独立協会員・農民で構成され「百万会員」を称しました。彼らは日韓両国が共同でロシアの南下を防ぎ、韓国の独立を保障してくれる(「日朝修好条規」で実証済)日本に多大な期待をし、日露戦争に際しては、京義線(キョンウィ:ソウル−義州間)臨時軍用鉄道建設と北進輸送隊への支援を惜しみませんでした。彼ら一進会の考えでは、「韓国の衰微は外国からの圧迫ではなく、自らの反省と自覚の欠如に原因がある。韓日は古来より同文同種(文化・民族の元は同じ)であり、政治経済的利益も一致している。ドイツ合邦国家(プロイセンを主体に統一したドイツ第二帝国)が欧州で覇を唱えるが如く、韓日も東亜の雄邦として合邦すべきである」・「もし東亜の均衡が破られ、韓国が欧米列強諸国の植民地となれば、韓国国民は流出し、国土は廃墟となる事は必定である」と言ったものでした。この様に韓国側でも「日韓合邦」(連邦制)が唱えられたのですが、結局、韓国は「合邦」(連邦)ではなく、「併合」(吸収合併)への道を歩んだのです。

進会の目指す政治的最終目標は、「日露戦争以来、韓国が置かれている「立場」(日本の保護国と言う従属関係)から脱し、植民地化を回避する手段として、「保護」に替えて「政合邦」(政治的合邦国家)する」と言ったものでした。しかし、宋秉oは、「日韓双方の国力の差・文明の程度の差から「日韓対等合邦」は事実上不可能であり、「連邦制」では欧米列強に対抗する様な強固な国家は建設できない。従って、日韓が一体となり列強に伍す強固な国家を建設するには、大韓帝国皇帝の全権を大日本帝国天皇陛下に委譲するのが、最も現実的である」と主張したのです。そして、結果的に宋秉oが唱えた通り、「日韓併合」がなされ、韓国は「独立国家」としての主権を完全に消失したのです。それは、さながら「倒産寸前」の巨大企業(韓国)が、世界的再編(帝国主義)の嵐の中で同業の巨大企業(日本)に吸収合併された様なものでしょうか。そう考えると、「日韓併合」とは、起こるべくして起きたとは言えないでしょうか。


参考文献


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