Reconsideration of the History
27.狩野亨吉博士への批判〜「古史古伝」は偽書ではない!!(1998.4.23)

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「古史古伝」−特に世に『竹内文書』として名を知られる古文書・神宝類については、昭和11年、岩波書店を通して発表された狩野亨吉博士の『天津教古文書の批判』によって、完膚無きまでに「偽書化」されてしまいました。『竹内文書』については、学界からの攻撃もさることながら、特高による「不敬罪」容疑での摘発・マスコミを総動員しての「皇祖皇太神宮天津教」(『竹内文書』の継承者・竹内巨麿の主宰する神道系教団)弾圧とあらゆる方面から「偽書化」されました。最後には裁判にまで発展し、大審院判決で、ようやく「無罪」となった程です。しかし、公判中、「証拠資料」として大審院に保管されていた『竹内文書』のほとんどが米軍による東京大空襲によって焼失してしまい、現在、『竹内文書』と呼ばれている物は、証拠資料として提出される前に撮影された写真類、文書の継承者で研究家でもあった竹内巨麿らの研究メモなどから、再構築された『神代の万国史』などの解説書です。さて、このように「偽書化」されてしまった『竹内文書』ですが、果たして『天津教古文書の批判』(以下、『論文』と略)を発表した狩野亨吉博士の主張は正しかったのでしょうか? 相手は「当代きっての碩学」です。その道のプロです。正攻法で戦いを挑んでもかなうわけがありません。そこで私は、第一に博士の発表した『論文』の矛盾点を、第二に古文書の継承過程について検証してみました。

一に博士の発表した『論文』についてですが、博士は資料として選んだテキストの一つ『長慶皇太神宮御由来』の中の「誤字」や「表記誤り」について言及しています。例えば、

  1. 皇王→「人皇」(にんのう)
  2. 御崩→「崩御」(ほうぎょ)
  3. 形假名→「片假名」(かたかな)
  4. 掘付→「彫付」(ほりつけ)
  5. 忠心→「忠臣」
  6. 敬護→「警護」

又、署名にも問題があります。それは「紀氏竹内越中守正四位惟真」で、単なる「正四位」と言う官位は存在しないのです。「正四位」にはそれぞれ「上・下」があり、この場合、「正四位上」又は「正四位下」のどちらかでなければならないのです。確かにこの点は博士の批判の通りです。これらについての反論は後(後程採り上げる「誤字」・「脱字」の論証)にして、次の問題を見てみましょう。

料として選ばれたテキストの中には全文が「神代文字」で記されている『大日本国太古代上々代神代文字之巻』と呼ばれる物も登場します。この資料について博士は、

  1. 句読点の誤り
  2. 仮名遣いの誤り
  3. 全然無関係と思われる文字の使用
  4. 脱字の多さ
  5. 文法の誤り(動詞の終止形を用いるべき部分に連用形を用いている)
  6. 神代の言葉で綴られている筈なのに「漢音」の言葉が混入している(「即位」・「勧請」・「水門」等)

等の点を指摘しています。更に博士は「神代文字」についても、「へ」に相当する字が「尻を丸出しにして放屁している」様子を象る等、甚だ「稚拙」で「品位」に欠けると指摘しています。しかし、元来、「神代文字」も含めて、「象形文字」と言う物は「ある物」の「しぐさ」や「形」を元に作られる訳で、そう言う意味からすれば、「へ」の字が「品位」に欠ける等と言う指摘は「象形文字」に対する認識が無いとしか言いようがありません。

て、以上の様に博士の「批判点」(ほんのごく一部)を見てきた訳ですが、皆さんはどう思われたでしょうか? 「博士の批判は絶対的に正しい」・「やはり『竹内文書』は偽書だったのか」と落胆された方も多い事でしょう。ここで、私は第二の「古文書の継承過程」と言う面から、博士に対して「批判」をしてみたいと思います。

さんは大事な書類の「控」をどの様に採りますか? 大抵の方はコピー機で「コピー」を採ると思います。コピーにかかる時間も数秒で終わってしまいます。一枚の字数が400字だろうが、10,000字だろうが関係はありません。コピーにかかる時間はどちらも変わりません。「そんな事当たり前だろう」と思われる方もおありでしょうが、ちょっと待って下さい。もし、この作業(大事な書類の「控」を採る)コピー機を使わずに、一字一句手作業でするとしたらどうでしょうか? 400字と10,000字では作業の時間もまるっきり違うでしょうし、書き写す過程で「誤字」や「脱字」も出てくるでしょう。こう言った作業を我々人間はついこの間までしていたのです。そして、現代にまで伝わる「古文書」にしても、それは全く同じなのです。

えば、『竹内文書』を例に取ると、「初版」は獣の皮をなめした物を「紙」代わりにして、その上に同じく獣の脂を「墨」代わりにして、書かれたと言われています。しかし、日本は多湿の国です。物の傷み方が意外と早いのです。するとどうでしょう? 獣皮に獣脂で、しかも「神代文字」で書かれた『竹内文書』も、ある程度の期間を経過すると傷みも激しくなり「コピー」を採る必要が出てきます。そこで別の物−例えば「和紙」に「墨」で書き写していきます。こうして出来た物が「写本」と言われる物です。「原本」が修復不可能となってしまったとしても、「写本」があれば次代に「継承」させる事が出来ます。この様な事が様々な古文書に対して行われてきました。あの『古事記』にしても、「原本」はもはや存在しません。残っているのは「写本」なのです。

に「神代文字」についてですが、『竹内文書』の「原本」は「神代文字」で書かれていました。しかし、武烈天皇の時代、天皇の勅命を受けた大臣・平群真鳥(へぐりのまとり)が「神代文字」で書かれた『竹内文書』を、「漢字仮名交じり文」で「写本」したと言われています。なぜ、「神代文字」で書かれていた『竹内文書』を、「漢字仮名交じり文」で書写する必要があったのでしょうか? それには「漢字」の問題がありました。「神代文字」と言うのは、「漢字伝来以前にあった日本の古代文字」と、以前書きました。しかし、朝鮮半島や大陸からの渡来人が増加し「漢字」が知識人を中心に「普及」していくと、「神代文字」は次第に衰退の道を辿っていったのです。その理由は、第一に当時の支配階級の多くが「渡来系」で占められており「神代文字」を排斥した事。第二に一般庶民から「神代文字」と言う「コミュニケーション手段」を剥奪する事−つまりは「文盲」を増やす事だったのです。この様な中で武烈天皇がわざわざ「神代文字」から「漢字仮名交じり文」での書写を命じたのです。この理由も皆さんならもうお判りでしょう。次第に衰退していく「神代文字」で書かれた『竹内文書』。もし、このまま放っておくと、遂には「神代文字」を誰も読めなくなってしまう。すると、誰も読めない「神代文字」で書かれた『竹内文書』に、一体何が書かれているのか判らなくなってしまう・・・。武烈天皇が危惧した点はこれだったのではないでしょうか?

て、話を戻して、狩野博士の「批判点」の一つ、「表記誤り」や「漢音の混入」についても、反論できます。例えば、下の言葉で説明しましょう。

  1. 古事記(こじき)→ふることふみ
  2. 天皇(てんのう)→すめらみこと
  3. 朝廷(ちょうてい)→みかど
  4. 日本(にほん・にっぽん)→やまと・ひのもと
  5. 言向和平す(?)→ことむけやわす

括弧内( )が現代の読み方です。そして、右が昔の読み方です。漢字に「ルビ」が振ってあれば読めるでしょうが、そうでなければ読めません。ことに「言向和平す」を「ことむけやわす」と読める人が現在の日本に一体どの位いるでしょうか? 常用漢字でさえ「誤字」・「脱字」が甚だしい現代人の事です。中世にしても、これと同じ事が多々あったのではないでしょうか? 「漢音の混入」にしても、「書写」の段階で、「古語表現」をその時代の「現代風表記」に書き換えたとしても、それはそれで仕方がなかったのではないでしょうか? 「継承者」にとって大事な事は「一字一句正確に書写」する事よりも、「後世の継承者が理解」出来る事の方がずっと重要だったからです。

後にもう一点。『竹内文書』ばかりを採り上げましたが、学者には「誤字」・「脱字」・「文法上の誤り」等、重箱の隅をつつくような事よりも、「古史古伝」に記された「内容」にもっと重点を置いて頂きたいと思います。例えば、『宮下文書』には有史以来の富士山の火山活動や、それによって滅亡した「家基都」(かきつ)と呼ばれる富士山麓の「古代メトロポリス」について記されています。これについては現代の研究で、『宮下文書』に記されている古代富士の火山活動の正確さが実証されており、『宮下文書』の記述の正しさを証明した形となっています。この様な点からも私は「古史古伝」は「偽書」ではないと言いたいのです。

参考文献


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