Reconsideration of the History
151.『東洋のマタ=ハリ』川島芳子も又、「漢奸」では無い(2005.8.12)

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愛親覚羅溥儀は、確かに貴方(あなた)の言う通り、戦犯では無いと思います。然(しか)し、川島芳子(よしこ)については、どうお考えですか。私としては、溥儀と同じ様に、芳子は、中国人では無く、満州人ですから、漢奸(かんかん)として、処刑される必要は無かったと思います。

貴方のお考えをお聞かせ下さい。出来れば、川島芳子の事もホームページで特集して下さい。お願いします。

川島芳子 れは、コラム『106.ラストエンペラー(愛新覚羅溥儀)は「漢奸」では無い』を読まれた読者から届いたメールですが、皆さんは「川島芳子」と言う女性(写真)をご存じでしょうか? 彼女は、昭和6(1931)年に勃発した満州事変以後、上海事変、支那事変(日華事変・日中戦争)を通じて、日本軍の特務(スパイ)として諜報活動に従事し、その美貌と活躍から、人は彼女の事を、『東洋のマタ=ハリ』・『東洋のジャンヌ=ダルク』・『満洲のジャンヌ=ダルク』・『男装の麗人』等と呼びました。そんな彼女でしたが、大東亜戦争(太平洋戦争)の終結に伴い、北京に於いて蒋介石の国民政府(支那)に依って捕らえられ、「漢奸」(売国奴)として裁かれ、昭和23(1948)年3月25日、国民党の手に依って銃殺刑に処されました。時に41歳。然し、前出のコラムに於いて、「漢奸」として裁かれた清朝最後の皇帝(宣統帝)にして満洲国皇帝(康徳帝)だった愛新覚羅溥儀が、「漢奸」では無い事を論じたのと同様に、川島芳子も又、「漢奸」では無かったのです。と言う訳で、今回は、川島芳子について触れてみたいと思います。

「漢奸」── 前出のコラムに於いても触れましたが、これは支那(中国)に於いて「売国奴」を指す言葉で、字義通り受け止めれば、

「漢」民族を裏切った「奸」物

と言う事になり、「漢奸」として裁かれた愛新覚羅溥儀が満洲族出身だった事から、抑(そもそ)も、「漢奸」の前提である「漢民族」と言う要素すら満たしていなかった事を根拠に、「漢奸に非(あら)ず」と言う結論を導き出しました。それでは、「川島芳子」はどうなのか? その名前(日本名)から、矢張り「漢奸」では無かったのか? 確かに彼女は溥儀同様、「漢奸」でも何でもありません。然し、彼女は実は日本人では無かったのです。

島芳子。彼女の本名は、愛新覚羅顕【王+子】(し)(けんし)、又の名を金璧輝。そう、彼女は日本人では無く、「愛新覚羅(アイシンギョロ)」の姓が指し示す通り、溥儀の親戚 ── れっきとした清朝皇族だったのです。彼女は、清朝第2代皇帝・太宗ホンタイジ(皇太極)の長子、粛武親王ホーゲ(豪格)を祖とする清朝八大家(日本皇室の宮家に相当し、礼親王・豫親王・順成親王・庄親王・鄭親王・粛親王・克勤郡王・睿親王の八世襲王家)の筆頭、粛親王善耆(ぜんき)の第十四王女として、光緒33(1907 明治40)年5月24日(旧暦4月12日)に、この世に生を受けました。余談ですが、彼女の父、粛親王善耆は清朝皇族の中でも名門中の名門であり、四国の二倍以上の広大な領地を有する実力者でした。そんな名門に生まれた王女(プリンセス)が、何故、「川島芳子」と言う日本名を名乗る事となったのか? 日本の特務として活躍する様になったのか? 不思議に思われる方もおありでしょう。

川島芳子 は宣統3(1912 明治45)年。前年勃発した辛亥革命によって清朝は滅亡しました。日・日露の両戦争に於ける日本の勝利に伴い、大陸で一旗揚げようと言う日本人 ── 所謂(いわゆる)「大陸浪人」が次々と支那・満州へ進出。その中には、満蒙工作(満蒙の独立や同地への日本の進出)を図る日本人達も数多くいました。そして、そんな大陸浪人の一人に川島浪速(なにわ)と言う人物もいたのです。彼は満蒙独立を画策する大陸浪人の中でも大物で、満州人・蒙古人にも多くの知己を持っていました。そんな川島に接近したのが、革命に際して、当時、日本の統治下にあった旅順に亡命した粛親王だったのです。粛親王は、満蒙独立運動に情熱を傾ける川島に、滅亡した清朝再興の夢を託し(後にその夢は「満洲国」として花開く事となる)、意気投合。1913(大正2)年、川島に子供がいない事を哀れんだ粛親王は彼と義兄弟の契(ちぎ)りを結んだ上で、6歳になっていた娘、顕【王+子】(し)を川島の養女にし、ここに日本人「川島芳子」が誕生したのです。

島夫妻は、顕【王+子】(し)に「良雄」と命名すると同時に、乗馬・剣道等をさせ、「男の子」として養育し始めました。後年、『男装の麗人』の異名を得る事となる彼女の男性気質は、多分に幼少期の養育環境に因る所が大きかったのでしょう。そんな「良雄」も所詮は女性。名を「良子」、更に「芳子」と改名。東京府内の豊島師範附属小学校から跡見女学校に進学。川島の転居に伴い、長野の松本高等女学校へと転校したのですが、同校での「振る舞い」が祟(たた)り、1922(大正11)年、実父・粛親王危篤の報に際して旅順へ飛んだ(死に目には会えなかった)半年後、帰国するも復学が認められず、以後は浪速独自の家庭教育で育てられる事になりました。そんな彼女に転機が訪れたのが17歳の秋の事。彼女は自殺未遂事件を起こし、事件後、頭を五分刈りに断髪し、「永遠に女を精算した」のでした。

の後、芳子は、短かった髪の毛が元に戻ったのを機に、1927(昭和2)年、蒙古の王族にして将軍であったパプチャップ(巴布札布)の令息カンジュルジャップと結婚しますが、その結婚生活も性(しょう)に合わなかった様で、僅か2年で離婚。その後、芳子は上海へと渡り、表向き上海公使館付駐在武官の肩書きを名乗っていた特務機関員・田中隆吉陸軍中佐と交際する様になり、それが切っ掛けで彼女も又、特務への道を歩む事となったのです。その後の活躍については割愛しますが、1932(大同元・昭和7)年、清朝最後の皇帝・溥儀を執政(国家元首)に「満洲国」が建国すると、芳子は首都・新京へと飛び、満洲国女官長(満洲帝室護衛係)に就任。翌1933(大同2・昭和8)年には満洲国安国軍総司令として関東軍の熱河作戦に従軍する等、溥儀一家を支える事となります。そして、時は流れ、運命の昭和20年8月15日を迎えます。

和20(1945)年8月15日、終戦。日本の敗戦と、終戦直前のソ連軍による満洲侵攻によって、「満洲国」は崩壊。国外脱出(日本亡命)を図った溥儀はソ連軍によって拘束されましたが、芳子も又、北平(北京)で中国国民党軍によって逮捕。「漢奸」容疑で訴追され、1947(昭和22)年、死刑判決が下されました。然し、芳子は

日本人である事が証明されれば、助かるかも知れない

と言う一縷(いちる)の望みに賭けましたが、そんな淡い希望は打ち砕かれ、翌1948(昭和23)年、再審請求は棄却。同年3月25日、北平第一監獄に於いて、銃殺刑に処されました。享年41歳。その冷たくなった彼女のポケットからは、彼女が幼少時代から好んで口ずさんでいた詩の書かれた一片の紙切れが出てきたそうです。

家あれども、帰り得ず   
涙あれども、語り得ず   
法あれども、正しさを得ず
冤あれども、誰に訴えん 

(さて)、ざっと「川島芳子」について触れてみた訳ですが、彼女は支那が断罪した様な「漢奸」だったのでしょうか? 彼女は元々、溥儀同様、清朝皇族=満洲族の出身でした。その後、川島浪速の養女となり、日本人となったのです。詰まり、「漢」民族を裏切った「奸」物たる「漢奸」とは到底言えない訳です。加えて、何故、彼女が日本の特務として活躍したのか? 只(ただ)単に、愛する田中隆吉に勧誘されてその道に入ったに過ぎないのか? 彼女は、満洲族の王朝国家、清朝の王女でした。その清朝は物心つく頃に革命によって倒されてしまいました。そして、その後の彼女の活躍と、「満洲国」に於ける彼女の行動を考えれば、自(おの)ずと答えは導き出されます。彼女は、実父・粛親王の願い、

滅亡した清朝の再興

実現の為、更に、再興された清朝=「満洲国」の為に、特務として協力・活躍したのでしょう。愛する民族(満洲族)・祖国(満洲国)の為。そんな彼女の行動を、「漢民族」=支那人が、「漢奸」=「漢民族を裏切った奸物」として果たして断罪出来得るものなのか? 私は到底、そんな論理で彼女を裁く事等出来無いと思いますし、抑も、「満洲国」滅亡後、彼の地(満洲)を「盗取」した支那に、その様な事を口にする権利すら無いものと考えていますが、皆さんは如何(いかが)感じられたでしょうか?(了)


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