Reconsideration of the History
89.「国旗」を守った明治政府 ── 幻に終わった「日の丸」売却話 (2001.5.7)

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成11(1999)年7月22日、「日の丸」・「君が代」を日本の国旗・国歌とする『国旗及び国歌に関する法律』 ── いわゆる『国旗・国歌法』が国会で成立し(同年8月13日施行)、物議を醸した問題が法制化と言う形で決着を見ました。しかし、今尚、左翼や教育現場等、「日の丸」・「君が代」反対!!等と主張して止まない勢力が存在します。そこで、今回は、日本の国旗「日の丸」について触れてみたいと思います。

「日の丸」(正式には「日章旗」と言う)は、法制化以前も「日本の国旗」(旗印)として認知されていました。例えば、古くは、戦国最強の大名と言われた甲斐の武田信玄や、徳川の世の礎を築いた家康が、「日の丸」(赤丸)を軍扇等に使用したと言われていますし、江戸時代には、幕府の御城米廻船(御用船)に「日の丸」の掲揚が義務づけられていました。まあ、これらが日本の「国旗」であったかどうかと言う事には、疑問の余地があるかも知れません。しかし、近代的概念に基づく「国旗」を、当時の価値観や概念に求める事自体が無理な話で、現代の価値観で当時の「日の丸」が国旗であったかどうかを論じる事自体が、既にナンセンス共言えます。ただ、当時から既に「日の丸」が、ある種、日本を象徴するデザインとして認知されていた事だけは事実です。そして、時は幕末へと移ります。

「日の丸」関連年表

年次 事績
1673(寛文13)年 江戸幕府、御城米廻船に船印として「日の丸」の幟を掲揚するよう指示
1854(安政元)年 江戸幕府、「日の丸」の幟を日本惣船印に制定
薩摩藩主・島津成彬、元旦に鹿児島城内から桜島の初日の出を見て、「これじゃこの色じゃ」と叫んだのが、「日の丸」が赤丸になった元と言う(『炉辺南国記』に所見)
1859(安政6)年 江戸幕府、「日の丸」を御国惣印(国旗)に制定
1860(万延元)年 幕府渡米使節団、ブロードウェイで「日の丸」により迎えられる
1870(明治3)年 太政官布告第57号「商船規則」制定
(縦横比率は7対10とし、赤丸は旗の中心から100分の1竿側(左)寄りとする)
1899(明治32)年 船舶法を制定し、船舶の国旗掲揚について定める
1931(昭和6)年 帝国議会に「大日本帝国国旗法案」が上程されるも、審議未了、廃案
1945(昭和20)年 連合国軍総司令部(GHQ)の方針として、国旗掲揚はその都度許可が必要とされる
1947(昭和22)年 小学校学習指導要領(1)社会科編(試案)に国旗について学習する事を記載
1948(昭和23)年 GHQ覚書で、12祝祭日の国旗掲揚を正式に許可
1949(昭和24)年 GHQ覚書で、国旗掲揚に関する制限廃止
1950(昭和25)年 国民の祝日には学校や家庭等で国旗を掲揚する事を勧奨(天野文相談話)
1958(昭和33)年 学習指導要領改訂
1974(昭和49)年 田中角栄首相、「日の丸・君が代」の法制化を目指す方針表明
1989(平成元)年 新学習指導要領で、「国旗を掲揚、国歌を斉唱するよう指導する」
1994(平成6)年 村山富市首相(社会党委員長)、「日の丸・君が代」を容認
1999(平成11)年2月 共産党、国旗・国歌の法制化が「最低限必要」との新見解発表
1999(平成11)年3月 小渕恵三首相、法制化検討を指示
1999(平成11)年6月 「国旗・国歌法案」を閣議決定
公明党、「審議慎重」を条件に、「日の丸・君が代」法制化容認の党見解
1999(平成11)年7月 「国旗・国歌法案」、衆議院通過
1999(平成11)年8月 「国旗・国歌法」成立
「国旗・国歌法」公布・施行

政元(1854)年、アメリカとの間に『日米和親条約』を調印、「開国」に踏み切った幕府(日本政府)は、日本に来航する諸外国の船舶と、日本の船舶との識別の為に、「日の丸」を「日本惣船印」と定め、これ以後、日本の船舶は「日の丸」を掲揚する事が義務づけられたのです。更に、安政5(1858)年、『日米修好通商条約』に調印した幕府は、今後、列強諸外国と付き合っていく中で「国旗」が必要であると感じ、翌安政6(1859)年、日本惣船印として既に使用していた「日の丸」を「御国惣印」と定め、ここに「日の丸」は正式な「日本の国旗」となったのです。そして、万延元(1860)年、『日米修好通商条約』批准書交換の為、幕府が派遣した渡米使節団がニューヨークはブロードウェイで目にしたもの・・・それは、アメリカ国旗である星条旗と共に掲げられていた「日の丸」だったのです。この様に幕末、「御国惣印」 ── 日本の国旗として定められた「日の丸」ですが、何と「売却」話が降って沸いたのです。

治の文明開化期、「白地に赤く、日の丸染めた」洗練されたデザインながら美しい「日の丸」が、日本に着任した各国大使に注目され、遂にはフランス(泉欣七郎・千田健共編『日本なんでもはじめ』 注、安津素彦『国旗の歴史』によればイギリス)が、正式に政府代表を立てて明治新政府に対し、「日の丸を500万円(当時の金額)で我が国に売却して欲しい」と依頼してきたのです。財政難で金は幾らあっても足りなかった明治政府にとって、提示してきた500万円は喉から手が出る程欲しい金額でした。しかし、その誘惑を明治政府は、「国旗を売り渡す事は、国家を売り渡す事」として断ったのです。結果的に、この「売却」話は幻に終わり、「日の丸」は日本の国旗として存続した訳ですが・・・当時、500万円の誘惑を断ち切って国旗「日の丸」を守った明治の先人達が、現在、「日の丸」反対!!等と叫んでいる連中を目にしたら、一体どんな風に思うでしょうか? 「折角、喉から手が出る程欲しかった大金を断ってまで守った国旗なのに、何たる事か・・・」と、草葉の陰で泣く事でしょう。その意味でも、先人達が守った国旗「日の丸」を、私達は、これからも守っていかなくてはならないと思うのです。

ころで、法制化以前、「日の丸」反対派は、「「日の丸」は法律で定められていないのだから、日本の「国旗」では無い!!」等と主張してきました。しかし、世界を見渡してみると、憲法で定めている国(独・仏・伊・シナ等)や、国旗法で定めている国(米・ノルウェー・スウェーデン等)がある一方で、憲法・法律以外の規範で定めている国(カナダ・韓国等)や、イギリスの様に何の規定も無い国(慣習によって「国旗」として認知されている)まで様々です。又、「法律で定められていないから「国旗」では無い」と言うのであれば、そもそも、「日本」と言う国名(国号)自体が、「法律で定められていないから「国名」では無い」と言う事になってしまいます。しかし、「「日本」と言う国名に反対!!」等と言う主張等、とんと聞いた事がありません。なぜなら、「日本」と言う国名は、慣習として国民に根を下ろしているからなのです。そう考えると、本来、慣習(慣例)で国旗・国歌として認知されていた「日の丸」・「君が代」を、法律に明文化した所で、「当たり前」だった事を、「当たり前」として追認しただけとは言えないでしょうか?

   余談(つれづれ)

リンピックの表彰式や、サッカーのワールドカップ等で、「日の丸」が掲揚され、「君が代」が流れた時、会場に陣取っていた日本人観衆から、「「日の丸」・「君が代」反対!!」等の野次が飛んでいたでしょうか? テレビのオリンピック中継で、金メダリストを讃えて、「日の丸」が掲揚され、「君が代」が流れている場面を観ていた時、感動こそすれ、嫌悪感を抱いたでしょうか? この様に感動的な場面では反対を口にせず、平常な時には糾弾する「反対派」のやり方は、正直言って卑怯とは言えないでしょうか? (了)


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