Reconsideration of the History
88.昭和天皇は『人間宣言』等していない!! (2001.4.7)

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和21(1946)年1月1日、昭和天皇(下写真)『昭和21年年頭の詔書』(新日本建設の詔書) ── 後に『人間宣言』と称される事となる詔書を発しました。『大日本帝国憲法』(明治憲法)において「現人神」(あらひとがみ:人の姿となってこの世に現れた神の事で、天皇の別称) ── 字義通り「神様」として崇(あが)められていた昭和天皇が、「人間」である旨宣言された、ある種、日本史のトピック共言える重大事件だった訳ですが・・・実は、昭和天皇が「人間宣言」等していなかったと言ったら、皆さんはどう思われるでしょうか? と言う訳で、今回は、『昭和21年年頭の詔書』(以下、単に『詔書』と略)を通して、昭和天皇の真意に触れてみたいと思います。

昭和天皇 れでは、まず、問題の『詔書』を読んでみる事にしましょう。

『昭和21年年頭の詔書』

ここに新年を迎う。かえりみれば明治天皇、明治のはじめに、国是として五箇条の御誓文(ごせいもん)を下し給(たま)えり。
いわく、

一、広く会議を興し、万機公論に決すべし。
一、上下心を一にして、盛んに経綸を行うべし。
一、官武一途庶民に至るまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。
一、旧来の陋習(ろうしゅう:悪い習慣の事)を破り、天地の公道に基づくべし。
一、知識を世界に求め、おおいに皇基を振起すべし。

叡旨公明正大、また何をか加えん。朕(ちん:天皇の自称)は個々に誓い新たにして、国運を開かんと欲す。
すべからくこの御趣旨にのっとり、旧来の陋習を去り、民意を暢達し、官民挙げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、もって民生の向上をはかり、新日本を建設すべし。

大小都市のこうむりたる戦禍、罹災者の艱苦、産業の停頓、食糧の不足、失業者増加の趨勢等は、まことに心をいたましむるものあり。しかりといえども、わが国民が現在の試練に直面し、かつ徹頭徹尾文明を平和に求むるの決意固く、よくその結束をまっとうせば、ひとりわが国のみならず、全人類のために輝かしき前途の展開せらるることを疑わず。それ、家を愛する心と国を愛する心とは、わが国において特に熱烈なるを見る。いまや実に、この心を拡充し、人類愛の完成に向かい、献身的努力をいたすべきの時なり。

思うに長きにわたれる戦争の敗北に終わりたる結果、わが国民ばややもすれば焦燥に流れ、失意の淵に沈綸(ちんりん)せんとするの傾きあり。詭激(きげき)の風ようやく長じて、道義の念すこぶる衰え、ために思想混乱あるは、まことに深憂にたえず。しかれども、朕は汝(なんじ)ら国民とともにあり。常に利害を同じうし、休戚を分かたんと欲す。朕と汝ら国民との紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とによりて結ばれ、単なる神話と伝説によりて生ぜるものにあらず。天皇をもって現御神(あきつかみ)とし、かつ日本国民をもって他の民族に優越せる民族として、ひいて世界を支配すべき使命を有すとの架空なる観念に基づくものにもあらず。

朕の政府は、国民の試練と苦難とを緩和せんがため、あらゆる施策と経営とに万全の方途を講ずべし。同時に朕は、わが国民が時難に決起し、当面の困苦克服のために、また産業および文運振典のために、勇往せんことを祈念す。

わが国民がその公民生活において団結し、あいより助け、寛容あい許すの気風を作典興するにおいては、よくわが至高の伝統に恥じざる真価を発揮するに至らん。かくのごときは、実にわが国民が人類の福祉と向上とのため、絶大なる貢献をなすゆえんなるを疑わざるなり。

一年の計は年頭にあり。朕は朕の信頼する国民が、朕とその心を一にして、みずから誓い、みずから励まし、もつてこの大業を成就せんことをこいねがう。

御名 御璽
昭和21年1月1日

以上が『詔書』の全文ですが、如何だったでしょうか? このどこが「人間宣言」なのか、皆さんはお分かりになられましたか? 多分、殆どの方は分からなかった筈です。それはそうでしょう。『詔書』のどこにも、

「朕は今より人間となる」

等とはどこにも書かれていないのですから。では、この『詔書』がなぜ『人間宣言』と呼ばれる事になったのか? 実は、当時のマスコミが勝手にそう名付けたからなのです。

『人間宣言』。マスコミが勝手にそう名付けた『詔書』ですが、ではなぜ、マスコミはそう名付けたのか? それは、『詔書』の中の、

「朕と汝ら国民との紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とによりて結ばれ、単なる神話と伝説によりて生ぜるものにあらず。天皇をもって現御神とし、かつ日本国民をもって他の民族に優越せる民族として、ひいて世界を支配すべき使命を有すとの架空なる観念に基づくものにもあらず。」

の部分、具体的には、

「天皇をもって現御神(「現人神」と同義)とし、(中略) 架空なる観念に基づくものにもあらず。」

から、昭和天皇は自ら「現人神」である事を放棄し、一人の「人間」になられた、と解釈された訳です。しかし、本当に昭和天皇は「現人神」から「人間」になったのでしょうか?

論から言えば、昭和天皇は『人間宣言』と称される『詔書』を発した後も、何ら「人間」になってはいませんし、昭和64(1989 平成1)年1月8日に崩御する瞬間迄、「現人神」であり続けたと思います。それは、昭和天皇ご自身の「言い回し」に注意すれば分かります。更に戦後、一般国民が旧憲法において、国家元首・大元帥であった昭和天皇が戦後の憲法において「象徴」とされたにも関わらず、治世末期の危篤状態の日々を「腫れ物」にでも触るかの如く、その一挙手一投足、テレビ・新聞等からの情報に、敏感になっていたと言う事実。そう考えると、昭和天皇の崩御によって、元号が「昭和」から「平成」へと替わった瞬間、はじめて「現人神」の時代が終焉したのだと思います。その点では、「昭和」から「平成」への改元は、単に元号(時代)が替わったと言う事以上に、「最後の現人神の死」と言う日本史上の一大トピックだったとは言えないでしょうか?

て、それでは、なぜ、昭和天皇は世間から『人間宣言』と称される事となる詔書を発したのでしょうか? 私は、これも皇室伝統の処世術の一つだったのではないかと思っています。平安時代から鎌倉時代、朝廷(貴族)から幕府(武士)への政権移動と言った「革命」においても、天皇制は廃止される事無く皇室も存続し続けました。幕末から明治への「革命」に際しても、天皇は「制度としての現人神」として国体をその一身に担いました。終戦に伴い、戦犯訴追と言う最大の危機に直面しながらも、訴追を免れ、退位をする事もなく、皇室も存続しました。歴史の場面々々における「危機」に際して、天皇(皇室)は歴史の荒波に逆らうのではなく、自らの身をその流れに任せる事で、維持存続してきました。そうでなければ、他国の王権の様に、とうの昔に滅亡していた事でしょう。その観点からすれば、『人間宣言』と称される事となる『詔書』も、皇統存続に必要なプロセスの一つだった共言えます。第三者が、「昭和天皇は「現人神」からただの「人間」になった」と言ったとしても、少なく共、当事者である昭和天皇ご自身には、「現人神」から「人間」になった等と言う実感はさらさら無かったのでは無いでしょうか? そして、昭和天皇に何かしらの感慨があったとしたならば、それは、新しい時代の流れに身を委ね、皇統を次代(今上天皇)へ、更に未来へと維持存続させねば、皇祖皇宗(ご先祖様)に顔向け出来ない、と言った思いだけだったのでは無いでしょうか? 私にはそう思えてならないのですが・・・。(了)


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