Reconsideration of the History
255.「被害者の立場は千年不変」? 朴槿惠大統領殿、言う相手を間違えてはいないか? (2013.3.8)

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韓国第18代大統領・朴槿惠
韓国第18代大統領・朴槿惠
2013(平成25)年2月25日、韓国史上初の女性大統領に就任した朴槿恵(パク=クネ)女史。父は言わずと知れた韓国の高度経済成長「漢江(ハンガン)の奇跡」の立役者、故・朴正煕(パク=チョンヒ)大統領(第5代〜第9代 在任:1963年10月15日〜1979年10月26日暗殺)である。父は大統領在任中、『日韓基本条約』の締結を通じて日本との関係を正常化。巨額の経済的支援を得て韓国を最貧国グループから抜け出させ、その後の韓国の発展に道筋を付けた。生涯を通じて「親日家」であったと言われる父大統領の長女である新大統領は、李明博(イ=ミョンバク)前大統領の竹島上陸で悪化した対日関係に付いて、果たしてどの様な舵取りをするのであろうか?
5.16軍事クーデターにより権力を掌握した朴正煕陸軍少将(中央)
5.16軍事クーデターにより権力を掌握した朴正煕陸軍少将(中央)
李氏朝鮮時代なら、文盲で一生梲(うだつ)の上がらない貧しい水飲み百姓で終わるしか無かったであろう朴正煕(パク=チョンヒ)は、日帝時代の恩恵=教育の機会を余す事無く享(う)け、遂には一国の大統領に迄上り詰めた。写真は5.16軍事クーデターにより全権を掌握した軍事革命委員会(後に「国家再建最高会議」と改称)のリーダー、陸軍少将の朴正煕。朴正煕は大日本帝国陸軍士官学校第11期生で、同輩には後に大統領となる全斗煥(チョン=ドゥファン)・盧泰愚(ノ=テウ)がおり、彼らと同じ貧農出身で清廉(せいれん)な人物だった事もあり、彼らからの信望は厚かったと言われている。
福田恆存
朴正煕と親交のあった福田恆存
日本を代表する保守派論客の一人、福田恆存(つねあり 大正元(1912)〜平成6(1994))は朴正煕と親交のあった日本人の一人である。彼が朴正煕暗殺の報に接し、したためた追悼文『孤獨の人、朴正煕』には、昼食を共にした際の回想が語られている。曰く、「故人に對して、そしてまた一國の元首に對して、頗(すこぶ)る禮(礼)を缺(欠)いた話だが、私は敢へて書く、正直、私はその粗食に驚いた、オムレツは中まで硬く、表面がまだらに焦げてゐる。もし日本のホテルだつたら、「これがオムレツか」と私は文句を言つたであらう。が、それを平氣で口にしてゐる青瓦臺(韓国大統領府)の「獨裁者」をまじまじと眺め(後略)」。朴正煕の清廉さがひしひしと伝わってくるエピソードの一つである。
成25(2013)年2月25日、韓国首都の首爾(ソウル)特別市は国会議事堂前広場に於いて新大統領の就任式が盛大に行われました。第18代大統領に就任したのは、与党セヌリ党より出馬当選した朴槿惠(パク=クネ)女史。韓国史上、初の女性大統領である事もさる事乍(なが)ら、更に注目されたのは、彼女が昭和38(1963)年10月15日から暗殺された昭和54(1979)年10月26日迄の5期16年間に及ぶ長期政権を布(し)いた「独裁者」朴正煕(ぼく-せいき/パク=チョンヒ)大統領の長女であり、韓国史上初の親子二代の大統領誕生だったからです。

正6(1917)年、当時、既に大日本帝国の一部であった朝鮮は慶尚北道善山郡龜尾面(キョンサンプクト-ソンサングン-クミミョン) ── 現在の慶尚北道龜尾市(クミシ)に生まれた朴正煕氏は日本名を「高木正雄」と言い、貧農の家に育ったものの、日本の義務教育の御蔭で学校へ通う事が出来たばかりか、成績の良さから恩師の薦めで師範学校(教員を養成する為の学校)に進学。更に軍官学校から帝都東京の陸軍士官学校へと進学。此処(ここ)でも優秀な成績を残し、首席で卒業したと言います。最終的に彼は昭和36(1961)年5月16日に起こした「5.16軍事クーデター」によって政権を掌握。クーデターから2年後の昭和38年には同国大統領に就任。旧「宗主国」(朝鮮を日本の「殖民地」とした場合、日本は旧「宗主国」と言う事になる。但し、「韓国併合」は形式上「日鮮合邦」だったので、旧「宗主国」と言う位置付けは相応しく無い)日本との間に『日韓基本条約』を締結し関係を正常化すると共に、日本から巨額の経済的支援を得て、当時、「最貧国」の一つに数えられていた韓国を、後に「漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれる事となる開発独裁による高度経済成長によって復興し、良くも悪くも韓国歴代を代表する大統領の一人として人々の記憶に強く残っています。そんな「元日本国民」の朴正煕氏の日本観を伝えるエピソードにこの様なものがあります。福田赳夫(たけお)元総理が訪韓した折、酒席に於いて両国閣僚が日本語で会話していると、一人の韓国側高官が日帝時代(大日本帝国が朝鮮を「殖民地支配」していたとされる時期を韓国では「日帝時代」と呼んでいる)の日本を批判する旨の発言をしたと言います。すると、朴正煕氏は自らの人生譚を持ち出してその高官を宥(なだ)めたと言います。曰(いわ)く、

「日本の朝鮮統治はそう悪かったと思わない。自分は非常に貧しい農村の子供で学校にも行けなかったのに、日本人が来て義務教育を受けさせない親は罰すると命令したので、親は仕方なしに大事な労働力だった自分を学校に行かせてくれた。すると成績がよかったので、日本人の先生が師範学校に行けと勧めてくれた。さらに軍官学校を経て東京の陸軍士官学校に進学し、首席で卒業することができた。卒業式では日本人を含めた卒業生を代表して答辞を読んだ。日本の教育は割りと公平だったと思うし、日本のやった政治も私は感情的に非難するつもりもない、むしろ私は評価している。」(金完燮(キム=ワンソプ)著『日韓「禁断の歴史」』より)

又、朴正煕氏は現在も日韓両国の間に「棘(とげ)」として刺さっている竹島問題に付いて、

「両国友好の為に、あんな島(竹島=韓国名「獨島(トクト)」)等沈んでしまえば良いのに・・・」

と発言した共言われており、李承晩(り-しょうばん/イ=スンマン)初代大統領に端を発するこの問題が日韓関係を阻害している事に、一人の「親日家」と一国の大統領と言う二つの立場の間で苦悩していた事が窺(うかが)えます。一方、自らの民族に対しても、

「我が半万年の歴史は、一言で言って退嬰(たいえい)と粗雑と沈滞の連鎖史であった」
「(韓国社会は)姑息、怠惰(たいだ)、安逸、日和見(ひよりみ)主義に示される小児病的な封建社会の一つの縮図に過ぎない」
「我が民族史を考察してみると情けないと言う他無い」
「我々が真に一大民族の中興を期するなら、先(ま)ずどんな事があっても、この歴史を改新しなければならない。このあらゆる悪の倉庫の様な我が歴史は、寧(むし)ろ燃やして然(しか)るべきである」(以上『朴正煕選集2 国家・民族・私』より)

と冷静な視点から洞察し、明治43(1910)年8月29日の韓国併合により国家主権を喪失した大韓帝国 ── 李氏朝鮮に対しても、

「四色党争(サセクタンヂェン)、事大主義(サデヂュウィ)、両班(ヤンバン)の安易な無事主義な生活態度によって、後世の子孫まで悪影響を及ぼした、民族的犯罪史である」
「今日の我々の生活が辛(つら)く困難に満ちているのは、さながら李朝史(韓国史)の悪遺産そのものである」
「今日の若い世代は、既成世代と共に先祖達の足跡を恨めしい眼で振り返り、軽蔑と憤怒(ふんぬ)をあわせて感じるのである」(以上、『朴正煕選集1 韓民族の進むべき道』より)

と手厳しく糾弾。日本に対して「正しい歴史認識」を強要する韓国・北鮮・支那の特定アジア諸国の「反日」よりも、余程(よほど)まともな「正しい歴史認識」の持ち主だった事が窺えます。

(さて)、そんな「親日家」大統領の長女として、又、昭和49(1974)年8月15日、「南条世光(なんじょう-せいこう)」こと在日韓国人・文世光(ムン=セグァン)により母親にしてファーストレディであった陸英修(ユク=ヨンス)夫人が射殺された所謂(いわゆる)「文世光事件」を契機に、亡母に代わって父大統領のファーストレディ役を務めた朴槿惠女史は、間近で「親日家」大統領の実務を見てきた筈ですし、父の思想信条・政治哲学・対日歴史観と言ったものに少なからず影響を受けてきた筈です。そんな彼女が去る3月1日に首爾で催された「3.1独立運動」(大正8(1919)年3月1日、京城(けいじょう;現首爾)中心部のパゴダ公園(現テプコル公園)に於いて朝鮮人宗教指導者等が「独立宣言」を読み上げたのを皮切りにデモ行進から暴動へと発展した事件。官署襲撃・放火・惨殺行為等に発展した為、朝鮮総督府が官憲・憲兵・軍を動員して鎮圧した)政府記念式典の場に於いて、

日本の殖民地支配による加害者と被害者の立場は
「千年の歴史が流れても変わらない」

と演説。日本に対して「正しい歴史認識」を求めてきたのです。まあ、大統領就任直前の世論支持率が44%と歴代最低を記録し、就任後も与党セヌリ党が国会に提出した省庁再編案に野党が反発、現代版「四色党争」のあおりで鄭烘原(チョン=ホンウォン)首相以外、閣僚の就任の目処(めど)すらたっていない朴槿惠女史にしてみれば、政権末期に竹島上陸パフォーマンスで「反日」と「愛国」で起死回生を目論んだ李明博前大統領と同様、「正しい歴史認識」を持ち出して「女性ではあっても歴史問題では日本には絶対に屈しない大統領」を自己演出して支持率向上を企図したであろう事は想像に難くありません。但(ただ)し、それが李明博政権では「政権末期」であったのに対し、朴槿惠政権では「政権発足直後」と言う所に大きな差はありますが・・・

れにしても、朴槿惠女史も「千年不変」とはよくも言ったものです。「日帝時代」は、明治43(1910)年8月29日の韓国併合から、昭和20(1945)年8月15日の「光復」(「光復」とは独立の意味だが、実際にはその後、米軍が朝鮮半島に進駐し軍政を布告。韓国が独立したのは昭和23(1948)年8月13日である)迄の35年弱ですが、コリア(南北朝鮮の総称として用いる。以下同)では「日帝三十六年」と称しています。更に日本が明治38(1905)年11月17日に締結した『第二次日韓協約』(韓国ではこの年の干支を取って『乙巳(ウルサ)條約』と呼んでいる)に基づき大韓帝国の外交権を接収、首都漢城(ハンソン;現首爾)に韓国統監府を設置した同年12月21日を起点にしても、「日本による朝鮮半島支配」は40年弱でしかありません。それにも関わらず、戦後70年にならんとする現在に於いても「千年不変」と言うのですから、まだあと900年以上も日本は韓国からネチネチと言われ続けねばならない事になります。(名前はクネクネなのに、性格はネチネチなんですね。朴槿惠さん) 然し、朴槿惠女史に対しては、どうせ「千年不変」を持ち出すのなら、日本では無くもっと矛先として相応(ふさわ)しい国があるではありませんか?と私は強く言いたいですね。それは皆さんもご存じの支那(「中国」)です。

鮮半島は支那と地続きですから、コリアは古来より幾度と無く支那 ── 「中華帝国」から侵略を受け、そして、その軍門に下って支配されてきました。例えば、我々にとって最も知名度の高い漢王朝の時代(これを「漢代」と呼ぶ)前漢第7代皇帝・武帝(世宗孝武皇帝 在位:紀元前156〜87)の治世、紀元前108年には朝鮮半島北部及び中部を領していた衛氏朝鮮(支那・朝鮮では「衛滿朝鮮」と呼ぶ)が滅ぼされ、その跡地には楽浪(らくろう)・真番・臨屯(りんとん)・玄菟(げんと)の四郡が設置され、その後、前漢・新(王莽)・後漢・魏(三国時代)・西晋の支那歴代王朝による支配が400年続きました。(真番・臨屯二郡は紀元前82年に楽浪郡に統合する形で廃止され、玄菟郡も紀元後107年に遼東半島に移転した事で旧郡は事実上廃止。四郡の内、楽浪郡のみ西晋の313年迄存続した) 一方、朝鮮半島南部には馬韓(慕韓)・弁韓(弁辰・番韓)・辰韓(秦韓)の所謂「三韓」が支那の間接統治地域として存在。その後、夫々(それぞれ)百済(くだら 伯済)・伽耶諸国(かや 加羅・任那)・新羅(しらぎ 斯蘆)に発展、百済・新羅は、満州から半島北部を領した高句麗(高氏高麗)と共に朝鮮に於ける三国時代を形成する事となります。その朝鮮三国も、半島南東部の新羅が唐と連合して、660年に南西部の百済、668年に北部の高句麗を相次いで滅ぼし、676年、遂に朝鮮半島の統一を実現します。(半島統一後の新羅は「統一新羅」と呼ばれる) 然(しか)し、唐の軍事力と言う「虎の威を借りた」が為に、新羅は唐の属国(新羅は「国」として扱われているが、実際には唐を構成する地方の一部「新羅郡」と言うのが正しい)に成り下がり、支那で王朝交代が起きようがどうしようが、新羅、そして、新羅の後に続く高麗(王氏高麗)李氏朝鮮の歴代王朝は常に支那の属国に甘んじ、国王は支那宮廷の大臣よりも格下として扱われる屈辱を強(し)いられてきたのです。その「支那の軛(くびき)」から漸(ようや)く脱し独立、主権を回復したのは何と明治28(1895)年。日本が日清戦争に勝利し、『下関条約』により清朝に対して李氏朝鮮に対する宗主権を放棄させた事で実現し、国号を「朝鮮国」改め「大韓帝国」、君主号を国王改め皇帝と称する様になったのは明治30(1897)年の事なのです。詰まり、コリアは統一新羅の成立から大韓帝国の成立迄、実に1200年以上の長きにわたって支那歴代王朝の支配を受けてきた事になります。

リアから「加害者」視されている日本の朝鮮半島統治は35年弱。一方、支那のコリア支配は、漢の四郡設置からの400年と、統一新羅成立以降の1200年を合わせれば、実に1600年。日本の統治期間の34倍強に相当します。日本がたった35年弱で「千年不変」と言われるのですから、支那なんぞは「万年不変」(正確には「三万四千年不変」)を突き付けられても何ら不思議ではありません。にも関わらず、コリアが「中国」に対してネチネチ「正しい歴史認識」を問わないのは一体どうしてなのでしょう? 日本は朝鮮半島を統治しましたが、朴正煕氏の言を俟(ま)つ迄も無く「良い事もした」訳で、功罪天秤(てんびん)に掛けた上で公正に「日帝時代」を評価するのなら兎も角、ありもしなかった旧日本軍等による組織的な「従軍慰安婦」狩りやその管理、ろくに「資源」と言える物が無かった当時の朝鮮半島からの搾取等、欺瞞と捏造に充ち満ちた「誤った歴史認識」を「正しい」と称して、日本に謝罪や補償を求める姿勢は如何(いかが)なものか? 支那歴代王朝はコリアに対して「貢女(コンニイ)」と呼ばれる宮廷慰安婦の提供を強いてきましたが、これこそ彼ら言う所の「従軍慰安婦」に勝(まさ)る共劣らない「人権侵害」であり「性的奴隷」である訳ですから、「中国」に対して反省と謝罪、そして、補償を求めても良い筈です。然し、コリアはそれをしようとはしません。コリアは朴槿惠女史の言の如く事ある毎(ごと)に、日本に対して「歴史直視」を求めてきました。然し、私に言わせれば「歴史直視」をせねばならないのは、日本では無く「歴史直視」を叫ぶコリア自身では無いのか? 真に「正しい歴史認識」を求めねばならない相手は「中国」では無いのか? コリアは「敵」を見誤っていると思いますし、朴槿惠女史は支持率の為に安易にコリアの宿痾(しゅくあ)共言える「反日病」に奔(はし)ってはならないのです。その為にも朴槿惠女史は、偉大な父、朴正煕大統領の「遺訓」共言える

我々が真に一大民族の中興を期するなら、先ずどんな事があっても、
この(コリアの)歴史を改新しなければならない。このあらゆる悪の
倉庫の様な我が(コリアの)歴史は、寧ろ燃やして然るべきである。

を肝に銘じ、初の女性大統領として韓国内の澱(よど)んだ空気を刷新。日韓関係に於いて新たな歴史の一ページを開かねばならない。そして、それこそが「親日家」大統領であった朴正煕氏の強い思いであり、愛娘に託した願いでは無かったか? そう私は強く思うのです。(了)


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