Reconsideration of the History
23.カラカウア王の提案〜幻に終わった日本・ハワイ連邦構想 (1998.2.21)

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見山(現・東関親方)・小錦(現・佐ノ山親方)・曙と言えば、ハワイ出身の力士ですが、彼らにはもう一つ共通点があります。それは日本国籍を取得し、日本に「帰化」した事です。しかし、歴史が歴史なら、彼らハワイ出身の力士は、生まれながらにして「日本人」だったかも知れないのです。ましてや、今や「犬も歩けば日本人に当たる」程、日本人観光者で賑わい、「日本国ハワイ県」と揶揄されるハワイ諸島さえも、「日本領」になっていたかも知れないのです。こう切り出すと、皆さんは「リメンバー・パールハーバー」(真珠湾攻撃)に始まった大東亜戦争(太平洋戦争)を連想するかも知れませんが、その発端は明治元(1868)年に始まっていたのです。

ハワイ国王カラカウア1世 治14(1881)年3月、世界一周旅行の途次、ハワイ国王カラカウア1世(右写真)が来日、赤坂離宮で明治天皇と会談しました。ちなみに、日本を訪れた外国の国家元首はこのカラカウア王が最初です。この時、赤坂離宮で両国首脳が会談した内容こそが、今回の最大のテーマなのです。この席で、カラカウア王は明治天皇に対して、次のような提案をしています。

  1. カラカウア王の姪で王位継承者のカイウラニ王女と、山階宮定麿親王(後の東伏見宮依仁親王)との縁組。
  2. 日本・ハワイの合邦(連邦)。
  3. 日本・ハワイ間の海底電線(ケーブル)敷設。
  4. 日本主導による「アジア連邦」の実現。
この驚くべき提案にはハワイ王国の危急存亡がかかっていたのです。それは、ハワイ国内での急激な人口減少(ハワイ人の)と、忍び寄るアメリカ帝国主義の影でした。ハワイは日本同様に「島国」です。この島国と言う特性が、ハワイ人を死に追いやったとも言えるのです。では、何がハワイ人を死に追いやったのでしょうか? それは、欧米人が持ち込んだ「ハワイにはなかった病気」でした。欧米人には何と言う事のない病気でも、ハワイ人からすれば、それは現代の「エイズ」や「エボラ」に匹敵する程の脅威だったのです。何せ、今まで罹った事もない病気ですから、免疫も抵抗力もある訳がありません。感染したハワイ人達は次々と亡くなっていったのです。

このままでは、ハワイ王国は元より、ハワイ人が滅亡してしまう!!

カラカウア王がこう思っても当然でした。では、どうすれば人口の減少に歯止めをかけられるか? カラカウア王が考えたのは何と、

日本人をハワイ人にする!!

と言う奇想天外なプランでした。では、なぜ日本人なのか? それはハワイの日本移民が深く関係していたのです。

山階宮定麿親王(後の東伏見宮依仁親王) 本人によるハワイへの移民は、何と開国して間もない明治元(1868)年に始まっていたのです。それ以降も日本移民は年々増加し、明治23(1890)年にはハワイ総人口の何と40%が日本移民と言う迄になっていたのです。そして、カラカウア王が日本人を選んだ理由はもう一つありました。当時のハワイには日本移民だけでなく、アメリカ本土からやって来た白人もかなりいました。しかし、彼らはハワイのめぼしい農地を次々と手に入れ、安い労働力(主に日本移民)を奴隷の如く酷使して莫大な富を得ていました。更には、ハワイの政治に迄口を出す程に増長していたのです。カラカウア王からすれば、よそからやって来たにも拘わらず、我が物顔でのさばる白人資本家よりも、安い賃金にも我慢し勤勉実直な日本移民に好意を抱いても不思議ではありません。カラカウア王はそんな日本移民を見込んで、新たな「ハワイ人」にしようとしたのではないでしょうか?

果的に明治天皇が丁重に断った為に、カラカウア王の提案は実現しませんでしたが、もし、実現していたとしたら・・・

カイウラニ王女と山階宮(上写真)が結婚していたら・・・
  H5
カラカウア王
│ H6
├リリウオカラニ女王
(ハワイ最後の王)

└リケリケ王女          (H7)
    ┠────────────カイウラニ王女
(王位継承者)
 クレグホーン(オアフ島枢密顧問官)     ┃            (H8)
                    ┠────────────
(王位継承者)
 伏見宮邦家親王─────────山階宮定麿親王
和服を纏ったカイウラニ王女 まず、「王位継承者」カイウラニ王女(左写真)と山階宮が結婚していたら、カイウラニ王女が「女王」に即位した時点で山階宮は、エリザベス女王の夫・エジンバラ公フィリップ殿下と同じ立場(皇配殿下)となり、二人の間に産まれた子供が、次のハワイ国王となっていたのかも知れないのです。日本人からすると突飛に思える事ですが、ヨーロッパ等では普通の事で、現イギリス王室(ウィンザー王家)は元を正せばドイツ出身です。次の日本とハワイの合邦(連邦)ですが、これもイギリスと同様の国家体制です。イギリスと言う国は、イングランド・スコットランド・ウェールズ・北アイルランドと言う四つの国が一つに合併しており、イギリス国王は早い話がスコットランド国王を兼任した形を取っているのです。明治天皇の下、日本とハワイが合併すると言う構想も、日本は朝鮮と「日韓併合」と言う形で合邦しましたし、先の「縁組」と合わせれば、日本とハワイの王家が一体化する訳で、決して荒唐無稽な絵空事ではないのです。又、日本主導の「アジア連邦」にしても、実現はしませんでしたが、先の大戦の大義であった「大東亜共栄圏」構想の先駆的なプランでした。そして、このプランによって、結果的にアジアが欧米列強から独立したのは周知の所です。更に、日本・ハワイ間の海底ケーブル敷設となれば、国際電話は元より、インターネット時代の現代からすれば、120年も前にこの様なプランを持っていた事自体、驚嘆に値します。とすれば、カラカウア王と言う人物、時代の先を読む先見の明があった一流の政治家とは言えないでしょうか?

ハワイ王朝最後の女王リリウオカラニ ラカウア王の提案は、結局、維新間もなく、国力増強優先の日本が取り組める程、余裕がなかった事もあり、実現しませんでした。そして、カラカウア王来日の僅か12年後、地球上から「ハワイ王国」と言う国家は消え去ってしまったのです。それは、カラカウア王が危惧した通りにシナリオが進んだのです。日本来日から10年後の明治24(1891)年、カラカウア王はこの世を去りました。王位を継承したのは、妹のリリウオカラニ王女(右写真)でした。しかし、幕末日本同様なアメリカによる黒船の「砲艦外交」と、ハワイ奪取(アメリカ併合)計画によって、当時のハワイ最高裁判事サンフォード・ドールら在ハワイ米国人達が、女王を拘束、王制打倒クーデターを決行したのです。ハワイ軍や王族・国民達は徹底抗戦の構えを示し、女王奪還を企図しましたが、「無駄な血を流させたくない・・・」と言う女王が、退位を決意し、明治26(1893)年、ハワイ王国は滅亡しました。その後、サンフォード・ドールを大統領とする「ハワイ共和国」が誕生しますが、これは「共和国」とは名ばかりの在ハワイ米国人による独裁国家で、最終目的はハワイのアメリカへの併合でした。ちなみに、「裏切り者」サンフォード・ドールの弟、ジェームス・ドールが、あのアメリカの大手ジュースメーカー「ドール社」の創業者です。そして、サンフォード・ドールらが目論んだ通りに、明治31(1898)年、ハワイはアメリカに併合されてしまったのです。

て、山階宮との「御成婚」が幻に終わった「王位継承者」カイウラニ王女はと言うと、王国滅亡の翌年、明治27(1894)年、アメリカに渡り王政復古を企図しましたが失敗。ハワイがアメリカに併合された翌年、明治32(1899)年、結核が元で亡くなりました。享年24歳。あまりにも早い死に、王政復古派は元よりハワイ人達は大いに落胆した事でしょう。そして、幻に終わった「ロイヤル・ウェディング」が実現していたとしたら・・・日本が真珠湾を攻撃する事もなく、アメリカの「西進」による「太平洋支配」も完成せず、アジア諸国がもっと早く独立できたのかも知れません・・・


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